2019年12月8日日曜日

12月8日は…

今朝は、曇っていて寒いなと思っていたら
しばらくすると雲が切れて日差しが届きました。
クマシデ(カバノキ科)の果穂の中に隠れている子がいます。
寒いからかな(^_-)-☆
さっきの子とは別の子ですが、
アオクサカメムシ(カメムシ亜目)かな?
ところで12月8日は仏教では成道会(じょうどえ)の日なんですよね

成道会
釈尊の成道を祝って行なわれる法会のこと。
わが国では、釈尊は12月(臘月)8日に成道したと伝えられているため、成道会を<臘八会(ろうはつえ)>ともいい、この日行なわれるのが普通であるが、南方仏教ではウェーサク祭として、5月の満月の日に誕生・涅槃(ねはん)などと一緒に祝われている。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
成道(じょうど)
サンスクリット原語は<完全に悟る>の意。
<悟り>を完成すること。
とくに釈尊のそれを指す。
<得度><成仏>に同じ。
漢語<道>は、儒教では人倫の道を、道家・道教では形而上的な絶対的存在を意味したが、仏教ではそれを踏まえて bodhi(悟り)の訳語に当てた。
<成道>の語も、儒教では人倫の道を完成する意味で、道家・道教系では無為を修めて絶対的真理を体得する意味で使われる。
<得度>も、『孟子』『荘子』など用例は多い。
「釈迦如来の出世成道の時に会はむと願ぜるが故なり」〔今昔1-8〕「仏、成道の後二十五年といふに、阿難をめして給侍の御弟子としたまへり」〔法華百座3.7〕
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
お釈迦様が悟りを開いた日に

12月8日 
 太平洋戦争が始まった。
 1941(昭和16)年
 「新高山(にいたかやま)ノボレ 一二〇八」――北太平洋をハワイに向けて南下中の連合艦隊は作戦開始の暗号を受信した。
夜明けに航空母艦から飛び立った183機の日本の海軍機は、ハワイ時間で午前7時49分、真珠湾を不意うちし、停泊中の8隻のアメリカ軍艦のうち4隻を沈没させ4隻に大きな損害を与えた。
野村駐米大使がワシントンでアメリカの国務長官ハルに最後通牒(つうちょう)を手渡したのはその1時間も後であった。
この日本の先制攻撃は「リメンバー・パールハーバー」の合い言葉となってアメリカ国民を戦争にむけて一致団結させた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
10月31日の記事で原民喜の『弟へ』を紹介しました。
戦意高揚の作品が求められた時代に
梯久美子さんが
非日常の極みである戦争に対する、原の静かな抵抗であった。
と評しています。
一方、太宰治には『十二月八日』という短篇があります。
原文は旧漢字ですが、新漢字に改めて、改行も変えていますが
数回に分けて転記したいと思います。
「解題」にあるように一度だけ発表されたようです。
解題「十二月八日」
 昭和17年2月1日発行の『婦人公論』第27巻2号の創作爛に発表された。創作欄には、ほかに「巴里に死す」(芹沢光治良)、「白い壁画」(富沢有為男)の連載小説2篇が掲載されている。
 創作集『女性』(昭和17年6月30日、博文館刊)に初めて収録される。
以後の再録本はない。
(『太宰治全集第五巻』筑摩書房 昭和51年)
   十二月八日
 けふの日記は特別に、ていねいに書いて置きませう。
昭和十六年の十二月八日には日本のまづしい家庭の主婦は、どんな一日を送つたのか、ちよつと書いて置きませう。
もう百年ほど経(た)つて日本が紀元二千七百年の美しいお祝ひをしてゐる頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしてゐたといふ事がわかつたら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。
だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないやうに気を附ける事だ。
なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。
でも、あんまり固くならない事にしよう。
主人の批評に依れば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目なばかりで、さうして感覚はひどく鈍いさうだ。
セントメントといふものが、まるで無いので、文章がちつとも美しくないさうだ。
本当に私は、幼少の頃から礼儀ばかりこだはつて、心はそんなに真面目でもないのだけれど、なんだかぎくしやくして、無邪気にはしやいで甘える事も出来ず、損ばかりしてゐる。
欲が深すぎるせゐかも知れない。
なほよく、反省をして見ませう。
(『太宰治全集第五巻』筑摩書房 昭和51年)
 紀元二千七百年といへば、すぐに思ひ出す事がある。
なんだか馬鹿らしくて、をかしい事だけれど、先日、主人のお友だちの伊馬さんが久し振りで遊びにいらつしやつて、その時、主人と客間で話合つてゐるのを隣部屋で聞いて噴(ふ)き出した。
「どうも、この、紀元二千七百年(しちひやくねん)のお祭りの時には、二千七百年(ななひやくねん)と言ふか、あるひは二千七百年(しちひやくねん)と言ふか、心配なんだね。非常に気になるんだね。僕は煩悶してゐるのだ。君は、気にならんかね。」
 と伊馬さん。
「ううむ。」と主人は真面目に考へて、「さう言はれると、非常に気になる。」
「さうだろう、」と伊馬さんも、ひどく真面目だ。
「どうもね、ななひやくねん、といふらしんだ。なんだか、そんな気がするんだ。だけど僕の希望をいふなら、しちひやくねん、と言つてもらひたいんだね。どうも、ななひやく、では困る。いやらしいぢやないか。電話の番号ぢやあるまいし、ちやんと正しい読みかたをしてもらひたいものだ。何とかして、その時は、しちひやく、と言つてもらひたいのだがね。」
 と伊馬さんは本当に、心配さうな口調である。
「しかしまた、」主人は、ひどくもつたい振つて意見を述べる。
「もう百年あとには、しちひやくでもないし、はなひやくでもないし、全く別な読みかたも出来てゐるかも知れない。たとへば、ぬぬひやく、とでもいふ――。」
 私は噴き出した。
本当に馬鹿らしい。
主人は、いつでも、こんな、どうだつていいやうな事を、まじめにお客さまと話合つてゐるのです。
センチメントのあるおかたは、ちがつたものだ。
私の主人は、小説を書いて生活してゐるのです。
なまけてばかりゐるので収入も心細く、その日暮しの有様です。
どんなものを書いてゐるのか、私は、主人の書いた小説を読まない事にしてゐるのです。
想像もつきません。
あまり上手ではないやうです。
 おや、脱線してゐる。
こんな出鱈目(でたらめ)な調子では、とても紀元二千七百年まで残るやうな佳(よ)い記録を書き綴る事は出来ぬ。
出直さう。
 十二月八日。
早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(そのこ 今年六月生れの女児)に父をやつてゐると、どこかのラジオが、はつきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
 しめ切つた雨戸のすきまから、まつくらな私の部屋に、光のさし込むやうに強くあざやかに聞えた。
二度、朗々と繰り返した。
それを、じつと聞いてゐるうちに、私の人間は変つてしまつた。
強い光線を受けて、からだが透明になるやうな感じ。
あるひは、聖霊の息吹(いぶ)きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したやうな気持ち。
日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ。
 隣室の主人にお知らせしようと思ひ、あなた、と言ひかけると直ぐに、
「知つてるよ。知つてるよ。」
 と答へた。
語気がけはしく、さすがに緊張の御様子である。
いつもの朝寝坊が、けさに限つて、こんなに早くからお目覚めになつてゐるとは、不思議である。
芸術家といふものは、勘(かん)の強いものださうだから、何か虫の知らせとでもいふものがあつたのかも知れない。
すこし感心する。
けれども、それからたいへんまづい事をおつしやつたので、マイナスになつた。
「西太平洋つて、どの辺だね? サンフランシスコかね?」
 私はがつかりした。
主人は、どういふものだか地理の知識は皆無なのである。
西も東も、わからないのではないか、とさへ思はれる時がある。
つい先日まで、南極が一ばん暑くて、北極が一ばん寒いと覚えてゐたさうで、その告白を聞いた時、私は主人の人格を疑ひさへしたのである。
去年、佐渡へ御旅行なされて、その土産話に、佐渡の島影を汽船から望見して、満州だと思つたさうで、実に滅茶苦茶だ。
これでよく、大学なんかへ入学できたものだ。
ただ、呆れるばかりである。
「西太平洋といへば、日本のはうの側の太平洋でせう。」
 と私が言ふと、
「さうか。」と不機嫌さうに言ひ、しばらく考へて居られる御様子で、「しかし、それは初耳だつた。アメリカが東で、日本が西といふのは気持の悪い事ぢやないか。日本は日出づる国と言はれ、また東亜とも言はれてゐるのだ。太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思つてゐたのだが、それぢや駄目だ。日本が東亜でなかつたといふのは、不愉快な話だ。なんとかして、日本が東で、アメリカが西と言ふ方法は無いものか。」
 おつしやる事みな変である。
主人の愛国心は、どうも極端すぎる。
先日も、毛唐がどんなに威張つても、この鰹の塩辛(しほから)ばかりは嘗める事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だつて食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。
(『太宰治全集第五巻』筑摩書房 昭和51年)