霜が降りていました。
よく挨拶する方と初霜かなと話していました。
(1)霜が発生しやすい気象条件
晩秋や早春において、高気圧に覆われて晴天の時に上空に寒気が入る時期には「放射冷却現象」により、明け方から朝には気温が下がり、山地を中心に降霜や凍結が発生することがあります。
それぞれ、気温との対応が良く大体4度以下で霜、氷点下になると凍結が明瞭となります。
(「農業に役立つ気象情報の利用の手引き」鹿児島地方気象台 39/56)
「京都の正月準備 芸舞妓が事始め」(NHK)
今の感覚からすると早過ぎると思うけど…
12月13日
すすはらい これは正月祭の準備のはじまりである
事はじめ 正月の用意にとりかかる日で、事はじめの餅を持って主家へあいさつに行く、京都祇園の事はじめは特に有名
1924年 市川房枝らが“婦人参政権獲得期成同盟”を結成
1937年 日本軍が南京を占領、南京大虐殺が開始される
正月事はじめ、神棚・仏壇のすす払い
正月までまだだいぶ日がありますが、家々では、きょう12月13日から神棚や仏壇のそうじをはじめます。
この日は「正月事はじめ」と言われるように、正月の準備にとりかかる日で、まず最初に神棚・仏壇のそうじをはじめるのです。
正月の祭は1年の最大の行事です。
ふつう、祭の前には、人々は物忌(ものいみ)をしてけがれを払い、身をきよめて参加します。
正月も同じで、この13日から物忌にはいり、家の内外をきよめる必要があったのです。
しかし最近では、このような習慣もすたれ、すす払いは年末のおしせまったころに行なうようになりました。
むかしに比べると、正月の準備期間も、たいそう短くなったものです。
(『365日の事典―きょうの話題―冬』東陽出版 昭和52年)
建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)の死
1185年源義経の水軍に敗れた平家一門とともに、壇の浦の海原に沈むはずだった生命を助けられて、洛北大原の里の寂光院(じゃくこういん)にかくれ住む三人の尼がありました。
申すまでもなく、うら若い美貌の主は平清盛の娘で安徳天皇を生んだ建礼門院徳子であり、他の二人は平重衡(しげひら 清盛の5男)の妻大納言佐(だいなごんのすけ)と仏弟子阿波内侍(あわのないし)です。
17歳で高倉天皇と結婚した徳子は、10年目に天皇と死別し、母となってから8年目にわが子安徳天皇を西海(さいかい)にうばわれ、心ならずもこの山里に生き残って、ひたすら一家一門の後生(ごしょう)を弔(とむら)う身になったのです・
徳子がここに移り住んだ年月ははっきりしませんが、1213年12月13日に59歳でこの世を去ったことは、「歴代皇略」や「皇胤(いん)紹略」にしるされています。
(『365日の事典―きょうの話題―冬』東陽出版 昭和52年)
(「ツバキの赤い誘惑」より)
鳥仕様でおもてなし
なぜ、ツバキはわざわざ冬から早春の寒い時季を選んで咲くのだろう。
花には鳥のメジロやヒヨドリが頻繁に訪れ、顔を花粉まみれにしている。
花の甘い蜜を吸っているのだ。
この花の花粉を運ぶのは虫ではなく、鳥なのである。
恒温動物である鳥類は、体温を維持するために必然的に多量のカロリーを消費する。
だが、冬は餌にとなる虫が少ない。
花が鳥を誘うには狙い目だ。
花は多量の蜜を用意して鳥を誘う。
花から花へ、木から木へと移動する鳥の立場からすれば、移動という運動(飛翔)には相当のカロリー消費を伴う。
だから、花はたっぷり蜜を出して、鳥たちを大切にもてなす。
ツバキの花は、その構造も鳥に照準を定めている。
雄しべや雌しべの位置や大きさは、鳥の体格に合わせて配置されているのである。
いいかえれば、仮に虫が来て蜜を吸っても花粉はうまく運ばれないし、それどころか蜜に回した投資の分だけ、花は損してしまう。
虫に貴重な蜜を盗まれないためにも、ツバキは虫の少ない季節を選んで咲くのだ。
(『したたかな植物たち―あの手この手の㊙大作戦【秋冬篇】』
多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
さらに雄しべの基部は合着して筒状となり、蜜を守る城壁となって立ちはだかる。
力の強い鳥は城壁の内側へと嘴(くちばし)を差し入れることができるが、虫の体格では到底、蜜には届かない。
ヒヨドリは花の近くの枝にとまり、花の横側から蜜を吸う。
ときにはホバリング(停空飛翔)しながら蜜を吸うこともある。
だから、ツバキは横向きに咲く。
鳥は虫よりずっと重い。
だから花びらは鳥の体重でも壊れぬよう、硬くて丈夫だ。
花びらに残された点状の変色は、メジロの爪痕である。
体の小さいメジロは下側の花びらにしがみついて蜜を吸うのだ。
鳥は鼻が鈍く、匂いはほとんど無意味である。
だから、ツバキに香りはない。
だが、なんといっても最重要ポイントは「赤」である。
鳥類がヒトと同じく赤い色を最も強く感受するからこそ、ツバキの花は赤いのだ。
(『したたかな植物たち―あの手この手の㊙大作戦【秋冬篇】』
多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
『大阪まち物語』に「大坂と朝鮮通信使」というコラム記事があります。
朝鮮・韓国と日本の関係を見ると友好関係にあった時代の方が長いのです。
前にも書きましたが、豊臣秀吉の朝鮮侵略で修復不可能とまでなった外交関係を徳川幕府が再び国交回復をなしとげました。
大坂と朝鮮通信使
徳川政権は、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)のあと、平和な国交回復をはかったので、慶長12年(1607)、戦後はじめての朝鮮の使節団が日本を訪れてきた。
この善隣友好の使節は「朝鮮通信使」「信使」とよばれた。
徳川政権は為政上の基本として、対外的には「通信の国」即ち好(よしみ)を通わす外交関係の国として朝鮮・琉球を、「通商の国」即ち貿易船渡来の国として中国とオランダを区分する体制をつくった。
(『大阪まち物語』なにわ物語研究会 創元社 2000年)
朝鮮通信使は、善隣友好の徳川将軍の襲職慶賀のため200年あまりの間、前後12回、渡日して来た。
釜山から大坂までの800キロの海路は、沿道の大名が千隻の迎護船を出した。
大坂湊は秀吉の時代に河川の改修がすすみ大型船の停泊ができたので、大船団をつらねての大坂入港は、歴史はじまって以来の一大イベントであった。
朝鮮船6隻に分乗した平均470名の通信使の一行は、川床が浅いので出迎えの公儀船、西国大名の川御座船(ござぶね)に乗りかえ難波橋(なにわばし)まで淀川を遡る。
それぞれの大型船に随伴する供船、引船をしたがえての水上パレード、淀川の土手の下の道に沿って船を引っ張る延べ4万人近い綱引き人足の晴れの姿はまさに将軍一代の盛儀である。
淀川の両岸は近国近在からの見物客で超満員。
動く国際的な舞台を土手から心ゆくまで見物した。
淀川下流の毛馬(けま)村で生まれ、堤で遊んだ与謝蕪村(よさぶそん)の句作時代、朝鮮通信使は2回やって来ている。
寛延元年(1748)家重の将軍襲職、明和元年(1764)の家治の襲職。
国の上下をあげての通信使歓待の熱気を肌にうけた蕪村も独特のイマジネーションで通信使船団を詠んだ。
高麗船(こまぶね)の 寄らで過ぎゆく 霞かな
蕪村と同時代の南画家池大雅も大坂で朝鮮通信使を墨一色で描いた。
その絵は現在、ニューヨークのパブリックライブラリーにある。
淀川を下る通信使が分乗した6隻の川御座船を描いた船絵馬が富田林市の美具久留御魂(みぐくるみたま)神社の拝殿に懸けられている。
大きな船絵馬の左には「奉納元禄八年九月吉日」と墨書され、下には桜井村平蔵以下11名の奉納者の名が記されている。
絵馬は個人的な願かけ行為だが、平蔵たち11名の農民が何故、異国の人々の乗った淀川下りの船の絵を船絵馬専門店に描かせ奉納したのか、大坂の農民の深層心理を探る手がかりである。
(「美具久留御魂神社に奉納された絵馬」 富田林市文化財課)
外交の表舞台である江戸に対し、大坂は人情こまやかな町人文化の都市である。
大坂川口で川御座船に乗り換えた通信使は、船頭たちの衣装に亀甲紋様が黒糸で刺子(さしこ)されているのを見て大坂の心遣いがよく理解できた。
朝鮮も日本も共に亀甲紋は長寿と平和をあらわすものである。
日本本土への最後の通信使となる明和度(1764年)の通信使は厳冬の瀬戸内海を航海中、暴風雨にあい事故が続出した。
小童金漢重はなれない航海で病の床につき、大坂に着いても船の中で床に伏したままであった。
それを知った天満の漢方医平山文徴らが駆けつけ、近くの竹林寺に移して看病した。
しきりに故郷に残してきた二人の子供を語る金漢重を憐れんだ住職らは、街中の子供の中から年格好のよく似た二人を選び金漢重の側に坐らせ看病した。
しかし、その甲斐もなく金漢重は辞世の句を残して亡くなった。
松島公園の前の竹林寺にある墓には辞世が陰刻され、今日でも命日には保坂正昭住職によって丁寧に法要が営まれている。
(辛基秀)
(『大阪まち物語』なにわ物語研究会 創元社 2000年)
・「竹林寺 金漢重墓」青邱古蹟真