出かけることができないなと思っていると妹からのメールで
「奄美地方南部で震度4」(NHK)を知りました。
父の故郷でも地震は時々起こっていますが、今までに比べて大きな地震です。
父が徳之島に電話で様子を聞くと被害がなかったそうなのでホッとしました。
「付近は過去にも地震が」(NHK)
12日に義弟の故郷でも
「北海道 宗谷地方で震度5弱の地震 津波なし」(NHK)
午後から雨がやんだようなので出かけました。
でも、途中で降り出しそうな暗い空…
すぐにリュックにしまえる50mmレンズで撮影しました。
昨日のEテレ「0655」で
1903年12月17日にライト兄弟が世界初の動力飛行機の有人飛行に成功したと教えてくれました。
当時の人々にとって重い機械が空を飛ぶということは、常識をくつがえす大事件だと言っていましたが、
σ(^-^;は今でも飛行機が空を飛ぶことが信じられない(^^ゞ
『大阪史話 近代化うら話』にこんな話が載っていました。
この本は、昭和40年発行と古い本ですが、
生存者から証言を得ることができているので面白いです。
また、石清水八幡宮をお参りした時に訪ねたいと思いながら
いつも断念している神社のことが書かれていましたφ(..)
雲に向かって消える
阪神電車が2分間隔のピストン運転。
甲子園の野球ではない。
日本人で初めての鳥人(飛行士)を見物する人のためだ。
だが、彼は、生きて再び地上の人とはなりえなかった。
(『大阪史話 近代化うら話』朝日放送編 創元社 昭和40年)
武石浩玻(たけいしこうは) 明治17年、茨城県那珂郡勝田村勝倉ニ生レ、水戸中学ヲ卒業、文学ヲ志シテあめりかニ留学スルモ、当時あめりかヲ風靡シハジメタ飛行機熱ニトリツカレ、かあちす飛行学校ニ入学ス。
大阪の空を初めて飛行機が飛んだのは、明治44年3月、アメリカ人マースによってであるが、マースに遅れること2年、大正2年5月4日、鳴尾、大阪、京都間往復80マイルという長距離飛行が、武石浩玻の手によって企てられた。
この日、武石浩玻は午前10時過ぎ鳴尾競馬場を出発して、大阪城東練兵場で、一たん着陸、京都市長あての大阪市長からのメッセージを受け取ったあと、再び京都深草練兵場へ飛ぶ予定であった。
(モズのはやにえ?)
鳴尾競馬場、城東練兵場ともに、日本人がはじめて憧れの大空を飛ぶというので、大変な見物人が集まった。
阪神電車は2分間隔のピストン運転で数万人のお客を運んだし、城東練兵場周辺も、市電の谷町三丁目と玉造の停留所から人の列がアリの様に続いた。
さすが広大な練兵場も立錐の余地がないほど人で埋まり、さらにあふれた人が鯰江(なまずえ)から中浜一帯の田んぼにまではみ出す始末、畦道にも露店が立てこんだ。
いよいよ午前10時22分、鳴尾競馬場を飛び立った武石浩玻は、10時40分大阪市民の歓呼の嵐の中を、無事城東練兵場に着陸した。
颯爽と革の飛行服に身を包んだ武石浩玻は、その得意や思うべしであった。
休憩もそこそこに、この鳥人は再び大空を京都目指して飛び立った。
しかし、その雄姿が遂に最後になろうとは、数万群衆の一人として予期したものはなかったろう。
<深草練兵場に着陸しやうとした武石浩玻の飛行機は十二時五十五分三十秒、五十度乃至六十度の急角度で落下、滑走前輪を強く地面にあて、後尾にある昇降舵はあふりをくつて空に上り、次の瞬間、左右の主翼を地にうちつけて機体はバラバラに破壊した。滑走車は飛び、サドルはゆがみ、推進機は二つに折れ、武石氏はサドルより機関の横手の地上に投げ出された。前額部におびただしき出血あり、武石氏は両足とも折傷して人事不省>
悲劇的な墜落の模様を、朝日新聞はこのように伝えた。
深草衛戍(えいじゅ)病院に運ばれた武石浩玻は午後2時、遂に人事不省からさめぬまま世を去った。
30歳の若さであった。
大阪をかすみに没す別れかな
これは彼の死を悼んだ大阪の俳人、松瀬青々(まつせせいせい)が詠んだ句である。
「武石氏が殉職したというので、大変な同情が寄せられたものです。葬式は、アメリカ時代からの友人で、朝日新聞に勤めていた田坂さんという人の家から出たのですが、そのお宅から長柄の斎場まで約1キロ以上にわたる行列が続きました。先頭には、武石浩玻の助手をしていた朝日新聞の荒尾さんという人が折れ曲がったプロペラの残骸を捧げ持ち、田坂さんの子息は武石浩玻がアメリカで取得した『万国飛行免状』の額を持ってこれに続きました。当時の新聞が、列席するものすべて歔欷(きょき)せざるはなし、と報道したくらい、皆大変立派な男を亡くしたと惜しんだものでした」
その時の模様をこう語った暮くれた関西飛行協会事務局長、中正夫氏も、昭和38年6月21日、飛行機にとりつかれたその生涯を終えた。
さて、武石浩玻が殉職したニュースは、日本ばかりでなく、当時欧米各国に渡航して飛行機に打ち込んでいた多くの日本人を発奮させた。
翌大正3年には早くも第一回民間飛行大会が鳴尾で催され、多くの民間人がこれに参加している。
中でも、京都の呉服屋の旦那で、家をたたんでフランスに渡り、飛行機を買って来たという荻田常三郎氏は、単翼飛行機を見事に乗りこなして満場のかっさいを浴びた。
荻田氏は、いつも羽織はかまに下駄ばきといういでたちで飛行機に乗り組み、その飛行ぶりはまた豪放を極めたが、やはりその後武石浩玻のあとを追うように深草で不幸な殉死を遂げた。
ほかに、京都大豊神社社掌(しゃしょう)の息子だった小林祝之助氏は、第一次大戦中フランス空軍にあった滋野男爵をたよってフランスに渡り、ドイツ機と交戦中散華した。
日本人が空中戦で戦死したのは恐らくこの小林祝之助氏が最初だろうが、彼もやはり武石氏の壮挙に発奮した一人である。
大阪市北区道本町に住む二宮顕次郎氏は、お父さんに手を引かれて鳴尾レース場に帰着するはずの武石浩玻を迎えようと家を出た途端、遭難を知らせる号外に接した(二宮氏のお父さんは、ライト兄弟の飛行機発明に先立った日本で初めて甲虫型飛行機を設計した二宮忠八氏である)。「その時、号外を手にとって見た父の姿というのは、それはそれはどう申し上げてよろしいやら、私はまだ十足らずの子供だったんですが、幼心にもくっきりと焼きつけられております。
父は、明治22年丸亀の練兵場にいた頃、カラスの飛ぶのを見て飛行機を作って見ようと思いついて以来の飛行機狂で、明治24年には、カラス型という竹とんぼの推進力を利用したようなプロペラ付き模型飛行機を作ったりしておりました。飛行機気違いの点では武石さんといい勝負だったと思います。その武石さんのよもやと思った遭難でしょう、父には大変なショックだったと思います。
まあ、そんなことが動機になって大正の末、京都府綴喜郡八幡町の屋敷内に、航空殉難者たちの霊を祭るためのささやかな社をもうけることにしたのでございます」
二宮氏は父忠八氏の遺業を受け継ぎ、この社を飛行神社として、毎年4月29日に例祭を自らの手で執り行っている。
武石浩玻が用いていたハンドルや備品等も、遺品としてこの神社に大切に保存されている。
なお武石浩玻の故郷の水戸市では、有志の力で旧水戸城内仙波湖に面する丘の上に、同氏の遺業を讃えるために飛行服姿の武石浩玻の銅像が建てられた。
(『大阪史話 近代化うら話』朝日放送編 創元社 昭和40年)
「航空黎明期を駆け抜けた 民間飛行家、武石浩玻」(「航空と文化」日本航空協会)
「京都陸軍病院跡(きょうとりくぐんびょういんあと)」(京都市)
「飛行神社」
今夜、再放送があるのですが(午前0時~)
ETV特集「ある特攻隊員の死~祖母とたどる兄の最期~」
父も一緒に見ていて、ためいきをついていました。