今朝は,病院で血液検査をしたあと,電車に乗りました。
先日,『大阪ことば学』から「かみます」を引用したときに
ちびくまさんが「いつの間にか「指づめ注意」のステッカー、無くなりましたよね?」とコメントしてくださったので確認すると…
「引き込まれにご注意」となっていました。
絵記号もついているので分かりやすいですね(「ピクトグラム」)
京寿司が食べたくなりました(^v^)
盛り合わせでいろんな味が楽しめますp(^-^)q
「いづ松」です(*^O^*)/
今日訪ねたのは東福寺です。
北大門(桃山時代)
二王門
退耕庵(たいこうあん)
鳥羽伏見の戦いで戦死した長州藩の菩提所です。
「鳥羽伏見の戦いで,長州軍陣営となった。
ここは戦国時代,毛利氏の陣僧と言われた
安国寺(あんこくじ)恵瓊(えけい)が住職を務めるなど,長州藩とのゆかりが深い。」
(『幕末歴史散歩 京阪神篇』一坂太郎 中公新書 2005年)
そばの石柱をみると「小野小町百歳井」当時の人で百歳まで生きていたら…
それも絶世の美女と言われた小野小町…なんか哀しいですね…
退耕庵(たいこうあん)
本尊千手観音。
1346(貞和(じょうわ)2)年,東福寺第43世性海霊見(しょうかいれいけん)が開祖。
応仁の乱(1467~77年)で被災し,衰微。
1599(慶長4)年に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が再興。
地蔵堂にまつる塑像(そぞう)の小町玉章(こまちたまずさ)地蔵は,
胎内に小野小町にあてられた恋文を多数おさめていると伝えられ,信仰を集めている。
東山渋谷越(しぶたにごえ)にあった小町寺の遺仏という。
書院をはさみ南北に2つの庭がある。
慶長再興時のもので,近年修復された。
寺宝に「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)性海和尚像」(室町期・国重文)などがある。
鳥羽・伏見の戦いに際して長州藩士の屯営(とんえい)となり,その戦死者が葬られ,
三門東側に防長忠魂碑がたっている。
茶室「咋夢軒(さくむけん)」は,関ヶ原の戦い前夜に石田三成や
小早川秀秋(こばやかわひであき)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・安国寺恵瓊ら
西軍の幹部が集まり謀議をこらしたところという。
咋夢軒の拝観は要予約。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
「地蔵は,胎内に小野小町にあてられた恋文を多数おさめている」そうですが(^v^)
明暗寺(尺八根本道場)
以前,「美の京都遺産」という番組で紹介されていました。
「じゅうまん不動さん」(漢字で表記できません。以下の文章を参考にしてください)
同聚院(どうじゅいん)(じゅうまん不動さん)
臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭(たっちゅう)の一つである。
東福寺の寺地一帯は,平安時代中期に藤原忠平が法性寺(ほっしょうじ)を建立した所で,
寛弘三年(1006)には,藤原道長が四十歳の賀に当たって,
五大明王を安置する五大堂を境内に造営した。
その後も,藤原氏が法性寺の造営に力を入れたが,鎌倉時代初期には衰微し,
その跡地に九條道家が東福寺を建立したのである。
本寺は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で,
五大明王のうち不動明王坐像(重要文化財)が幾多の災害を越えて祀(まつ)られている。
像は仏師定朝(じょうちょう)の父・康尚(こうしょう)の作品で,
像高は265センチメートル,忿怒(ふんぬ)相の中にも優美さをたたえた
藤原美術の代表彫刻の一つである。
「じゅうまん不動」(該当する文字がないのでひらがなで表記しています)と称され,
「じゅうまん」の字を書いた屋守護(やさご)の符が配布されている。
「じゅうまん」は土地の守護を表す「土力(どりき)」,
又は,十万の一族・従者を従えるという意味の「十万」の二字を一字にした文字といわれ,
火除けをはじめ除災の霊験あらたかな不動として信仰が深い。
京都市
臥雲(がうん)橋
臥雲橋からもこの東福寺が秋に大勢の観光客が来るのがわかります!
日下門(にっかもん)
団体さんに遭遇(^v^)
殿鐘楼,後は経蔵
禅堂(重要文化財) 室町時代 貞和三年(1347)
禅宗の叢林で重要な建物である禅堂である。
選佛場とも称し,坐禅を通じ自己究明と自己の心の佛を撰ぶ場所である。
僧侶になるための修行道場であり,修行僧である雲水が,
座禅はもとより寝食を行う所であった。
昔は400名以上の僧が修行を行ったこともあった。
内陣の「選佛場」扁額は宋国径山万寿寺の無準師範(佛鑑禅師)の筆であり,
無準師範の心が残っている。
無準師範は東福寺開祖聖一国師の師匠である。
入口の扁額「禅堂」は当山三百三世福島慶道管長の筆である。
禅堂の大きさは桁行七間梁間四間,一重もこし付切妻造,本瓦葺である。
我が国最大最古の道場である。
重要文化財指定 明治31年12月28日
東福寺のイブキ
東福寺は,鎌倉時代の中頃,九条道家により創建された古刹(こさつ)で,
開山には聖一(しょういち)国師(円爾弁円(えんにべんえん))が迎えられました。
この木は,国宝の三門(さんもん/応永12年=1405建立)と
仏殿(明治14年焼失,昭和9年再建)との間,西寄りにあります。
高さは16.5メートル,胸高の周囲3.36メートル。
枝張りは東西10.5メートル,南北に8メートルあります。
江戸時代中頃の安永(あんえい)9年(1780)に刊行された
『都名所図会(みやこめいしょずえ)』には
「円柏(いぶき)の古樹は開山国師,宋国より携へ来る」という記載とともに
鳥瞰(ちょうかん)図の中に「唐木(からき)」として描かれています。
また,1700年前後,土佐光高(とさみつたか)によって描かれた
東福寺境内図(チェスタービーティー図書館蔵)にも古樹の風格が見事に描かれています。
本樹の雄大な姿は,明治年間の仏殿焼失の際損傷を受けたらしく,
主幹(しゅかん)の北側に多くみられる枝の切断あとはその時の処置によるもののようです。
江戸時代には既に古樹として知られ,開山国師とのゆかりも深いこのイブキは,
東福寺の歴史と文化を理解するうえには欠かせないものといえます。
昭和63年5月2日,京都市文化財保護条例により,京都市登録天然記念物とされました。
京都市
三門(国宝) 室町時代 応永12年(1405)
東山三十六峰「慧日山」の麓に聳える国宝(指定:明治30年12月28日)「三門」。
一般的には「山門」と表記され,寺域の入口(境)を指す。
しかし,東福寺では,「三つの門:三門」と表記している。
この意味は,「三解脱門」の略で,涅槃に達するための通らねばならない門とされる。
三つの門は「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無作門(むさもん)」である。
大きさは,五間三戸,二階二重門,入母屋造り,本瓦葺き,左右に階段を覆う山廊を有す。
構造的には大仏様(天竺様)であるが,視覚的には禅宗様である。
三門正面二階には北朝第四代将軍足利義持の筆である扁額「玅雲閣」が掲げられている。
「妙」は「女」偏が一般的であるが,額は「玄」の偏を用い,
本来の「玄」の意味である「奥深い道理」の意味を添え
「妙」の意味の「真理・美しい」の意味を強化している。
大きさは小さく見えるが畳三畳分あり,又,力強い筆運びである。
二階内陣中央に35歳と云われる宝冠釈迦如来坐像,
左前に月蓋尊者,右前に善財童子,両側に十六羅漢が安置されている。
周りには五百羅漢とも,森羅万象とも云われる木片が置かれている。
天井・柱には極彩色の迦陵頻伽(極楽に住む人面鳥身の架空の鳥)や
飛龍(極楽に住む応龍)を描き,又金欄巻や牡丹唐草等で天上界を表している。
天上界は悟りに達した精神界究極の世界を表していると言える。
東福寺の僧である兆殿司・寒殿司の筆にて描かれ,
三門内陣に心の存在を感じさせる空間を創造している。
大屋根の四隅の角柱は,地震による三門を傷みを天正13年豊臣秀吉が行った
大修理の際に補足した柱で,通称「太閣柱」と呼ばれている。
「日蓮柱之碑」
どこにあるのですか?とお坊さんに聞くと…
後で,紹介します(*^O^*)/
東福寺を訪ねた目的は「国宝三門 特別公開」ですp(^-^)q
三門内では撮影は出来ませんでしたが,外ならいいとのことで
以前,大文字山の帰りに南禅寺の三門にあがったことがあります。
非常に急な階段です。
このような急な階段を下りるときは,山でもそうなんですが
後ろ向きで下ります。
放送局のトラックが…
本堂は法堂を兼ね,1934(昭和9)年の再建で,
昭和前期の最大の木造建築,高さ25.5m・間口41.4m・奥行33.4mである。
その用材は台湾阿里山(ありさん)のヒノキで,
南東の柱は日蓮が他宗の迫害をうけたとき円爾が庇護したというので,
日蓮宗が寄進したという日蓮柱である。
天井に描かれた竜は堂本印象(どうもといんしょう)筆である。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
せっかくですから「通天橋」を見学することに
秋はすごい人出のようですが…新緑の美しい季節,
今朝は,雨もほんの少し降っていて
この時期に訪れるのもいいと思いますよ(*^O^*)/
テレビ局のカメラマン
苔も美しかったです(*^^)v
開山堂
1280年入定(にゅうじょう)の聖一国師を祀る。
楼閣にそびえる伝衣閣(でんねかく)にある「三国伝来の布袋」像は伏見人形のルーツ。
普門院前の庭園は江戸中期の名園。
愛染堂
丹塗(にぬ)りの杮(こけら)葺き八角円堂。南北朝時代の建築。昭和12年,万寿寺より移された。愛染明王をまつる。
一時,通行止め
生放送の番組のリハーサルが行われていました。
そのおかげで
人がいない場面を撮せました(^_^)v
興味のあった場所です(^_-)
これなんだか分かりますか?
東司(重要文化財) 室町時代
「東司(とうす)」とは便所の建物を云い,俗に百間便所(百雪隠(ひゃくせっちん))と称し,
子供たちは「100人便所」とも云っている。
禅堂の横に必ず「東司」が置かれている。
禅宗叢林の便所では日本最古最大で,現存する唯一の遺構である。
当時の排出物は貴重な堆肥肥料であり,京野菜には欠かせない存在となっていた。
京都の公家,武家,庶民の台所をおいしい野菜で潤した。
叢林としても現金収入の大きい糧となっていたと云われる。
重要文化財指定 明治35年6月31日
糞尿を肥料として利用するようになり,京の都は衛生的な都市に変身します。
それまでは「餓鬼草紙」に見られるように死体が放置され,糞尿だらけの都市でした。
勅使門(桃山時代)
六波羅門(国重文・鎌倉)
平家の六波羅第の遺構を移建したと伝える。
六波羅門は切妻造本瓦葺の一間棟門である。
1333(元弘(げんこう)3)年,鎌倉幕府滅亡のとき,
六波羅探題を巡る攻防でうかた矢疵(やきず)がところどろこに残っている。
(『京都洛東・洛南散歩 24コース』)とあったので,この傷跡かな?
防長忠魂碑
浴室(重要文化財) 室町時代 長禄三年(1459)
禅宗伽藍の現存最古の浴室である。
現在でも使用できる程現代的なシステムが採用されている。
所謂「サウナ風呂」である。
当時は100人単位の僧侶が修行していた。
沐浴に「お湯」を使用すると膨大な量となる。
当然お湯を沸かす貴重な水はもとより,水を沸かす薪の量も多く,
東山三十六峰の山々が禿げ山になる可能性がありました。
そのためお湯ではなく「蒸気」で体の垢をふやかし擦り落とすことで,
お湯の使用量を格段に節約し,自然を大切にしたのである。
今で云う「エコロジー」の精神である。
自然の中に人間は生かされ,自然に感謝して生きる。
禅の中には人間のみのエゴを捨て去り,地球規模で輪廻を詠っているのである。
構造は,東側に破風の二つの蒸し風呂が並び,各々板戸を立てている。
後方に釜や焚き口が有り,蒸気を簀(す)の子を通して下から送る。
大きさは,桁行三間梁間四間,一重正面入母屋造り・背面切妻造り,本瓦葺き。
内部は正面板敷の上に中央向唐破風。
重要文化財指定 明治40年8月28日
中を見ることができませんでしたが, 妙心寺の「浴室」を訪ねたことがあります。
五社成就宮(京都府有形指定文化財) 室町時代 文禄三年(1584)
一間社流造,檜皮葺。
東福寺の鎮守社として石清水八幡・賀茂・稲荷・春日・日吉の
五社を祀るので五社明神社とも云う。
もとは法性寺(925年摂政であった藤原忠平(941年関白太政大臣)の創建の総社)であって,
摂政忠道在世頃はその祭礼を総社祭と称し,祇園会に匹敵するほどの賑やかさであった。
総社祭は東福寺の鎮守社になってからも引き続き行われ,
寛元元年(1243)8月22日には九条道家をはじめ右大臣実経や左大将忠家等が参列したという。
今は毎年11月の第二日曜日にお火焚祭が催され,
家内安全・無病息災・商売繁盛・学業上達の祈願を行っている。
京都府有形指定文化財指定 平成5年4月9日
十三重石塔(重文)
1343年,九條道家が当寺創立を祈願して造立。
全体の均整もよくとれており初重の梵字が美しい。
魔王石(中に大きな石が祀られていました)
鐘楼
法性寺(ほうしょうじ)
大悲山一音院(だいひざんいっとんいん)法性寺と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。
当地は,延長3年(924)藤原忠平(ただひら)が公家恒例被行脚読経の寺として建立した
寺院(法性寺)があった所である。
旧法性寺は,創建後も藤原家の氏寺として栄え,
藤原忠道(ただみち)(法性寺入道)時には,広大な寺域に大伽藍を構え,
京洛二一ヶ寺の一刹に数えられていた。
しかし,以後の兵火により,堂宇は悉く焼失してしまった。
当寺は,明治維新以後,旧名を継いで再建されたもので,
本堂に安置する千手観世音菩薩像(国宝)は,
旧法性寺の潅頂堂(かんちょうどう)の本尊と伝えられ,「厄除観世音」の名で知られている。
京都市
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パンフレットや案内板,本などから転記していますが,間違いがあると思います。