今朝も気温が上がり暖かいというよりも暑かったです。
今夜、雨が降るみたいなので花が散ってしまうのかな…
去年の暮れから出会えなかった方にバッタリと出会いました。
いつもお母さんと歩いておられたのに今日は息子さんお一人でした。
お話を伺うと去年の暮れから体調を悪くされて
痛みがあるので外に出ることを嫌がっておられるそうです。
中西進さんの「山上憶良 三」を転記しますφ(..)
三
「士(をのこ)」としてのりっぱなあり方が生業を果たし家族を養うことにあるとする認識は、
すでに5年前、「惑(まと)へる情(こころ)を反(かへ)さしむるの歌」(5 八〇〇・八〇一)の中でも述べたことであって、
反歌に「なほなほに家に帰りて業をしまさに」というのが生業の自覚を示している。
その理由も、憶良が言うところによると、
大君の支配するこの国土は率土(そつと)の浜(ひん)まで国のまほらだからである。
ここにも右同様「この照らす 日月の下は」ということばが用いられていることが注目されるが、
日月の下は大君の下に統制されている、
その中でそれぞれの人間としてのあり方を定めるという点に、
私はやはり「士」としての認識を感じる。
(『万葉のことばと四季』中西進 角川選書 昭和61年)
そして、この歌もまた「父母を 見れば尊し 妻子見れば めぐし愛し」と
家族への顧慮(こりょ)すべき最大の二点であったからだ。
その点『日本霊異記(にほんりょういき)』の作者、
景戒が自らの身辺について「貧窮問答」ときわめて類似した表現をしているのも、
故なしとしないだろう。
すでに述べたことだが(拙著『神々と人間』)、
彼は「ああ恥しきかな」と語り出して
「妻子を蓄へ、養ふものなく、菜食なく、塩なく、衣なく、薪なし」と貧窮を述べる。
こうした例を見ると貧窮は憶良だけが問題としたものではないことが知られるし、
彼らの貧窮がいかに恥(やさ)しきものであったかがわかるであろう。
ところで、この恥辱が士としての自覚によるものだということを、
他の側面から照らし出すものとして「名」がある。
その点からいえば上述の家族、
生業のほかにもう一つ顧慮すべきものがあったというべきだろう。
冒頭にあげた臨終歌にも「万代に語り続くべき名を立て」ることが問題とれていたが、
所詮名とは以上のような「士」としての生涯にともなって称せられるものであろう。
名声をあげえない生き方が貧窮だったのだから。
当時は国守などが善政を賞せられることがあった。
同時代人としても幾多の人の名が見えるが、その中に憶良の名は見えない。
このことを憶良は臨終歌と結びつけることも世上に行われていて、
私も賛成だが、さてこの「名」なるものは、古来恋歌に多く用いられたものであった。
有名なものは巻頭歌の「家聞かな 名告らさね」(1 一)であろうか。
この場合も家や名は女性の素性に関するものとしてとり上げられている。
ところが、今の場合はいわば名声として「名」が用いられている。
これは全く「名」なるものの変質だというべきだろう。
また「名」を死者を永遠化するものとしても用いられてきた。
たとえば、
妹が名は千代に流れむ姫島の子松が末に蘿(こけ)むすまでに (2 二二八)
は河辺宮人が姫島の松原に女の屍体を見て悲嘆した歌だという。
肉体をとどめない死者は、
せめてそのシンボルとしての名において永遠たることを
言挙げされなければならなかった。
少なくとも名の永遠を歌うことによって実現化しうるというロマンの中にあったのが、
挽歌における「名」であった。
これに対して、憶良の名はちがう。
同じように「万代」「千代」を問題としながら、
姫島の嬢子(おとめ)の名は単に溺死者であったゆえに千代の名を獲得したが、
憶良はあれ程につとめても万代の名を危惧した。
もはや信じられるべき言挙げの中に、名はなかった。
これを相聞や挽歌の「名」とことなる、雑歌の「名」だと心得ると、
恋や死に無縁な世間そのものの中に「名」は、
きわめて冷酷なものであった。
あたかも同じころ、一人の僧が興味ある歌を歌っている。
白珠は人に知らえず知らずともよし知らずともわれし知れらば知らずともよし (6 一〇一八)
元興寺の僧がみずから嘆いた歌だという。
そもそも形は旋頭歌(せどうか)だから、謡い物の形式である。
そのうえで天平十年に作ったよしが見えるのが不調和である。
おそらく興にまかせて戯れたのであろうが、
左注によるとこの僧はひとり知覚高くあったのに衆人の認めるところとならず、
人多く彼を侮蔑したという。
その中で彼は一種居直りを見せたといえる。
人が知らなくても、自分自身で真価を知っていればそれでいいのだ、と。
いうまでもなく、知る、知られるというのは名聞についてである。
高僧としての名、万代に語りつぐべき名は、
自分だけが知っていて他人が知らなくともよいという主張である。
こう語るからには、彼は人一倍名を欲していたのである。
ここで、それほどに個別化し、
分化した人間存在を考えることは、きわめて重要ではないか。
そもそもわが国の歌謡・和歌史は、
衆とか集団とかとよばれる作者圏によって支えられてきた。
旋頭歌はそのもっとも基本的な形式だったし、
おびただしい恋歌が、
歌い交わされるという「相聞」の形で行われるのも、
この集団の中においてであった。
右の僧の歌に出てくる「白珠」は、
これら恋歌の中において、女性の美しき比喩であった。
ところが、その恋歌的、女性的比喩を用いながら、個人の名声
――すなわち他と自分とを区別すべきものへの激しい欲望を歌った元興寺の僧の歌は、
憶良たちの歌とともにこの時代の人間のあり方を十分に物語っていよう。
もはや集団としては行動しきれなかった時代の、
個別化の極限状況に立たされた人間は、
組織に依存して「士」としての安心立命を求めたはずである。
しかしその中でもなお、
個別的な名声を求めるという自己矛盾の中に引き裂かれたのが、
憶良たち天平の歌人であった。
その上に憶良が渡来人だとすると、
なおのこと大陸的教養は深く身についたことと思われる。
その中で女歌的集団性から放たれた孤独に棲んだ歌人が憶良だった。
あの「貧窮問答」には、その孤影が濃い。
(『万葉のことばと四季』中西進 角川選書 昭和61年)
今朝の父の一枚です。
ハナカイドウの写真をいつも撮っています。
というのも母がかわいいねと言って見ていた写真があります。