天気予報を見ると曇りだったのですが
どんよりとした曇り空ではなく
青空も見えて暑かったです(^-^;
昨日は、今年初の夏日だったのですが
今日の夕方、冷たい風が吹いていました。
サクラソウの所でクマバチが縄張りを守っていましたp(^^)q
「渋谷区の繁華街にミツバチの大群」のニュースを見ていると
養蜂家の女性が
「ミツバチはおとなしく、殺虫剤をかけたり激しく追い払ったりしない限り人を刺すことはほとんどない」
と話していました。
蜂の針は卵を産むための産卵管または、それが変化したものです。
ですからメスだけが針を持っています(働きバチはメスです)。
また、ミツバチの針は鋸歯(きょし)のようになっていて
抜こうとすると引っかかるようになっています。
それを無理に抜こうとするために腹部の末端がちぎれてしまい、
やがて死んでしまうそうです。
ですからむやみに人を刺さないのです。
一方、スズメバチは抜けることがなく、何度も刺します。
「ハチは一度刺したら死ぬ?」(中央博デジタルミュージアム)
中学校国語教科書より
道浦母都子さんの「短歌を楽しむ」を転記しますφ(..)
短歌を楽しむ 道浦母都子(みちうらもとこ)
短歌は、千三百年以上の歴史を持つ日本独自の伝統文学です。
五・七・五・七・七、たった三十一(さんじゅういち)文字で、
人々の思いや美しい光景を写真のようにとらえることができます。
人や自然との一瞬の出会いを半永久的なものにしてくれる不思議な力を持つ言葉の器(うつわ 形式)ともいえます。
(『新編 新しい国語2』東京書籍 平成28年版)
小説やエッセーを散文とよび、
短歌や俳句、詩を韻文(いんぶん)とよびますが、
韻文の「韻」は響きという意味を表します。
つまり、韻文は散文と違って、
響く文、音楽を奏(かな)でる文と理解することが可能です。
その点をしっかり念頭に置き、
短歌を声に出して繰り返し読んでみると、
三十一文字の中に美しいメロディーが流れていることに気づくはずです。
そのメロディーを楽しみながら、短歌を鑑賞してみましょう。
金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いちやう)ちるなり夕日の岡(をか)に 与謝野晶子(よさのあきこ)
この一首は、初句から結句までをひと息に読むと、
「ちひさき鳥」の「ち」「ひ」「き」「り」など、
たびたび登場する「母音(ぼいん)のイ」の響きの美しさが分かるはずです。
この歌に描かれているのは、
夕日の沈もうとしている岡に銀杏の葉が散っている光景です。
夕日を受けて、きらきらと金色に光って舞い落ちる銀杏の葉。
作者は、それを見て、
まるで金色の小さな鳥のようだと表現しています。
「銀杏が鳥に?」と不思議に思うかもしれませんが、
作者は、自分の感じたありのままを言葉にし、短歌としています。
心で思うこと、感じたことを素直に表現する大切さを示してくれる一首です。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽(むぎわらぼう)のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
夏休みの光景でしょうか。
少女を前にして少しはにかみながら立っている少年の姿が浮かんできます。
少年は、どこかの海を見てきた。
その大きさを、両手を広げて、
まだ海を見たことのない少女に語り聞かせているのです。
このとき、少女はどんな様子で聞いていたのでしょう。
次々と想像を広げてみたくなる一首です。
この作品は、初句の「海を知らぬ」が六音であるなど「字余り」となっていますが、
声に出して読んでみると、
短歌のリズムからさほど外れていないことが分かります。
つまり、「字余り」や「字足らず」であっても、
短歌のメロディーが滑らかに流れていれば、
あまり問題にはなりません。
観覧車回れよ回れ想(おも)ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) 栗木京子
この作品からは、観覧車に乗っている一組のカップルが想像できます。
ゆったりと大きく回る観覧車。
大空へ上(のぼ)っていく観覧車に乗って楽しみの絶頂にあるはずなのに、
なぜか切ない思いが伝わってくるようです。
この作品では、「回れよ回れ」で、一度、切って読んでみましょう。
ここまでは、観覧車への呼びかけの言葉となっています。
このように、二句で短歌の意味が切れている場合を「二句切れ」といいます。
また、この作品では「君には一日我には一生」と「対句」表現になっている点にも注目しましょう。
「君」と「我」、「一日」と「一生」、
対照的な言葉を使うことによって、
二人の思いの違いを際立たせています。
相手にとってはたった一日(いちにち)の出来事かもしれないけれど、
自分にとっては一生記憶に残るほどの体験だというのです。
相手を思う気持ちの強さが感じられる一首です。
ここまで、短歌を三首読んできました。
自分一人で読んでみたときに想像したものと鑑賞文の内容が多少違っていても、
問題はありません。
短歌は、定型を持った詩、つまり、詩の一つの形ですので、
読者が感じたまま、思ったままに鑑賞していいものなのです。
短歌は長い伝統を持った定型詩ですが、
決して難しいものではなく、
今をいきいきと映せる文学であることが、
よく理解できたことでしょう。
短歌を鑑賞するときには、読んで感じた印象から、
想像の翼を自由に広げることが大切です。
さまざまな短歌をそらんじて、快い音楽を楽しむように、
作品鑑賞を試みてみましょう。
出典 本書のための書き下ろし
(『新編 新しい国語2』東京書籍 平成28年版)
『生と死の歳時記 美しく生きるためのヒント』より
「花」を転記しますφ(..)
晩年の父母あかつきの山ざくら 飯田龍太
明星はいつもの初星初ざくら 中村草田男
昏(くら)き扉を少しひらきて花の昼 鷲谷七菜子
(『生と死の歳時記 美しく生きるためのヒント』
瀬戸内寂聴・齋藤愼爾 法研 平成11年)
花の下片手あづけて片手冷ゆ 鈴木栄子
花に花ふれぬ二つの句を考へ 加藤郁乎(いくや)
出入口照らされてゐる桜かな 柿本多映(たえ)
〇朝、起きぬけに散歩に出る。
観光客の全く通らない道は鶯をはじめ小鳥たちの鳴き声にみちている。
どの家の庭にも桜があふれるように咲いていて、
ひっそりした土塀の道は花あかりにまぶしい。
桜といっても雪のように白いのや、蒼(あお)いのや、
薄紅や、燃えるような緋桜(ひざくら)や、
さまざまなのがあって小路を曲がるたび、
はっと足をとめずにはいられない。
花の好きな人の住まいは、どんなにささやかな庭の土にも、
季節の花を育てていて、住んでいる人はどんなやさしい心の人かと、
通りすがりにもゆかしくてならない。 (寂聴)
〇「春ごとに花のさかりはありなめどあひみん事はいのちなりけり」
は『古今和歌集』の歌。
唐の劉廷芝(りゅうていし)の詩
「年年歳歳花相似たり/歳歳年年人同じからず」
は花にことよせて人の世の、人の命の無常、はかなさをうたう。
毎年、咲く花は変わらないのに、
それを見る人は異なるという嘆きだが、
作者は暗に花もまた無常をまぬがれていないと言っている。
今年の花は今年の花で、去年の花ではないのだ。 (愼爾)
(『生と死の歳時記 美しく生きるためのヒント』
瀬戸内寂聴・齋藤愼爾 法研 平成11年)
キチョウが花もないのに止まっていると思ったら産卵していました。
「モンシロチョウのたまご」(動画)