2019年4月28日日曜日

風がないと…

今朝もひんやりとしていましたが
風があまり吹いていなかったので助かりました。

明日の番組でお勧めがあります。
病院ラジオ「子ども病院編」
(NHK総合 29日午前8時15分~)
去年の8月に大阪国立循環器病研究センターで収録された番組を見ました。
サンドウィッチマンがたんたんと聞き役に徹していた姿に心が温かくなりました。
ヒメアカタテハが翅を広げて日光浴をしていました。
やはり気温が低いようです。

〇 〇 〇 〇

日が射して少し気温が上がってくると、
彼らは種類ごとに決まった方法で日光浴を始める。
それには、
1)翅を開いて背中に日を当てる、
2)翅を閉じて体の横面を日に当てる、
3)光をよく反射する白い翅を半開きにして背中に光を集める(モンシロチョウ)
の3つがある。
チョウは他の虫たちと同じように、
まわりの気温に体温が影響される変温動物だ。
活発に飛びまわるには30度位の体温を維持しなくてはならないが、
気温が30度にもなるのは真夏の日中くらいだ。
そこで体を日光に当てることで、輻射熱によって体温を上げるのだ。
これは炎天下に置かれた水銀柱が、
実際の気温よりも高い温度を示すのと同じ原理である。
逆に体温が上がりすぎる時は、
日陰に入ったり翅を閉じてとまったりして、
体に日光が当たるのを防ぎ、体温を下げる。
(『虫のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年)
昨日紹介した加藤周一さんの『日本文学史序説』より
万葉集の続きを転記しますφ(..)
  しかしまた別の女流歌人にとっては、
恋は心理的であるよりも情熱的であった。
たとえば家持に29首の歌を贈った笠郎女(かさのいらつめ)の激情は、
とどろく波のようである。

  伊勢の海の磯もとどろに寄する波恐(かしこ)き人に恋ひわたるかも (巻四、600)

 彼女は待っても来ない人を夢に見、毎日痩せ衰え、
それでも命のかぎり忘れないという。

  わが命の全(また)けむかぎり忘れめやいや日に異(け)には思ひ益(ま)すとも (巻四、595)
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)
贈答の歌63首をつくった狭野弟上娘子(さぬのおとかみのをとめ)は、
流罪で去った男に寄せて叫ぶ。

  君が行く道のながてを繰(く)り畳(たた)ね焼きほろぼさむ天(あめ)の火もがも (巻十五、3724)

  天地の極(そこひ)のうらに吾(あ)が如く君に恋ふらむ人は実(さね)あらじ (卷十五、3750)
 多くは花鳥風月に思いを託する。
しかし奈良朝の貴族の女は、その激しい情熱を、
そのまま直接に表現することを知っていたのである。
 奈良朝貴族社会の恋の歌は、
このように、「古代歌謡」のそれとは異なり、
また後に見るように同時代の地方の大衆の歌ともちがって、
一方では平安朝の宮廷で徹底するであろうところの恋心と自然の風物との照応に敏感であり、
他方では微妙な心理的屈折を尽くしながら、
恋情の激しさを直接に歌い上げていた。
これは単に感覚的・肉体的な世界ではなくて、微妙な心の世界である。
しかし「もの思ふ」心の状態ではなくて、
「君を恋ふ」心の明白に特定の対象に向けられた行動的で情熱的な世界である。
そういう恋の世界で、あれほど大陸文化の輸入に熱心であった支配層も、
彼ら自身の胸の底にある土着の、あえて世界観といわぬとすれば、
少なくとも感情生活のあらゆる襞(ひだ)を語ったのである。
仏国土は遠かったが、恋のなかには「生きがい」があった。
 男女の関係が『万葉集』歌人の感情生活の中心であったということは、
「相聞」とならぶもう一つの範疇、「挽歌」にもあらわれている。
第一に、天皇や皇族の死を悼むいわば公的な「挽歌」がある。
第二に、男女の一方が死んだとき、夫または妻が他方を悼む歌がある。
これは当事者に代って、第三者が、
夫または妻の立場を想像してつくった場合もある。
その多くはいわば私的な「挽歌」である。
第三に、歌人が未知の人物の死に出会い、
たとえば行き倒れの屍体を見て、つくった「挽歌」というものがある。
もちろんこれも私的な歌である。
第四に、数の甚だ少ない「辞世」がある。
第五に、伝説上の人物の死を悼むものがある。
『万葉集』の「挽歌」のほとんど全部は、
以上五種類のどれかに属していて、
親が子の、子が親の死を悼む私的な「挽歌」は、ほとんど全くない。
しかも第三種の、未知の人の死を悼む場合も、
死者の夫または妻の悲しみを歌うものが多いから、
そして第四種は甚だ少ないから、
私的な「挽歌」のほとんどすべては、
第二種に帰するといえるのである。
かくして公的な「挽歌」が「雑歌」の公的な歌(賀その他の儀式的な歌)に対応するとすれば、
私的な「挽歌」、すなわち本来の抒情詩としての「挽歌」は、
「相聞」に対応する。
あるいは一歩を進めて、儀式の必要に応じた場合を除けば、
『万葉集』の「挽歌」は、原則として、
「相聞」の延長であるということができる。
「挽歌」さえも極限状況における「相聞」の一種に他ならなかった。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)