2019年4月16日火曜日

陽ざしが眩しい…

昨日は循環器科の受診。
今日は春の陽気の朝。
若葉がキラキラしていて眩しいくらいです(*ノωノ)
日曜美術館「凛として 写真家・大石芳野
敬愛する大石芳野さんが紹介されていました。
父も一緒に見ていて感じたことがあったようです。

以前、後藤健二さんが過激派によって殺害された時に
政府の忠告を聞かなかったからだという父と
口論になったことがあります。
その時、二人の口論を聞きながら母が笑っていました。
大石芳野さんは、ベトナム戦争など多くの戦場を取材されています。
このように危険を覚悟で取材してくれるジャーナリストがいるから
大本営発表や政府の情報と違う事実を知ることができるのです。
再放送が21日(日曜日)午後8時からあります。

中学校の教科書を見ていると
向田邦子さんのエッセーが掲載されていました。
中学生には時代背景など分かりにくいと思うけど
(という私も戦争を知らない世代)
多感な時期に向田さんの文章に出会えることは幸せなことだと思います。
その時は分からないことがあっても
何年かたってフッとよみがえることがあると思います。
   字のない葉書  向田邦子

 死んだ父は筆まめな人であった。
 私(わたくし)が女学校の一年で初めて親もとを離れたときも、
三日あけずに手紙をよこした。
当時保険会社の支店長をしていたが、
一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、
「向田邦子殿」
と書かれた表書きを初めて見たときは、ひどくびっくりした。
父が娘宛ての手紙に「殿」を使うのは当然なのだが、
つい四、五日前まで、
「おい邦子!」
と呼び捨てにされ、
「ばか野郎!」の罵声(ばせい)や拳骨(げんこつ)は日常のことであったから、
突然の変わりように、
こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。
(『新編 新しい国語2』東京書籍 平成28年版)
 文面も折り目正しい時候の挨拶に始まり、
新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。
文中、私を貴女(あなた)と呼び、
「貴女の学力では難しい漢字もあるが、
 勉強になるからまめに字引を引くように。」
という訓戒(くんかい)も添えられていた。
 ふんどし一つで家中(いえじゅう)を歩き回り、大酒を飲み、
かんしゃくを起こして母や子供たちに手を上げる父の姿はどこにもなく、
威厳と愛情にあふれた非の打ちどころのない父親がそこにあった。
 暴君であったが、反面照れ性(しょう)でもあった父は、
他人行儀という形でしか十三歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。
もしかしたら、日頃気恥ずかしくて演じられない父親を、
手紙の中でやってみたのかもしれない。
 手紙は一日に二通来ることもあり、
一学期の別居期間にかなりの数になった。
私は輪ゴムで束ね、しばらく保存していたのだが、
いつとはなしにどこかへ行ってしまった。
父は六十四歳で亡くなったから、この手紙の後、
かれこれ三十年付き合ったことになるが、
優しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。
 この手紙も懐かしいが、最も心に残るものをと言われれば、
父が宛名を書き、妹が「文面」を書いたあの葉書ということになろう。
 終戦の年の四月、
小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。
(すで)に前の年の秋、
同じ小学校に通っていた上の妹は疎開していたが、
下の妹はあまりに幼く不憫(ふびん)だというので、
両親が手放さなかったのである。
ところが三月十日の東京大空襲で、
家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭(あ)い、
このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、
母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付け、
父はおびただしい葉書にきちょうめんな筆で自分宛ての宛名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と言って聞かせた。
妹は、まだ字が書けなかった。
 宛名だけ書かれたかさ高な葉書の束をリュックサックに入れ、
雑炊用の丼(どんぶり)を抱えて、
妹は遠足にでも行(ゆ)くようにはしゃいで出かけていった。
 一週間ほどで、初めての葉書が着いた。
紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。
付き添っていった人の話では、
地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、
かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。
 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。
情けない黒鉛筆の小マルはついにバツに変わった。
その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、
下の妹に会いに行った。
 下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干しの種をしゃぶっていたが、
姉の姿を見ると種をぺっと吐き出して泣いたそうな。
 間もなくバツの葉書も来なくなった。
三月目に母が迎えに行ったとき、
百日ぜきを患(わずら)っていた妹は、
しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
 妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。
小さいのに手をつけると叱る父も、この日は何も言わなかった。
私と弟は、ひと抱えもある大物から手のひらに載るうらなりまで、
二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。
これくらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。
茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。
防火用水桶の前で、痩せた妹の肩を抱き、声をあげて泣いた。
私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
あれから三十一年。
父は亡くなり、妹も当時の父に近い年になった。
だが、あの字のない葉書は、
誰がどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。
  出典「向田邦子全集」
(『新編 新しい国語2』東京書籍 平成28年版)

向田邦子全集 第一巻』(文藝春秋社 1987年)

新装版 眠る盃』(向田邦子 講談社文庫 2016年)