今日は「昭和の日」で公園には家族連れなどで賑わっていました。
まもなく平成から令和へと元号が変わります。
天皇陛下が退位するのにこんなに大変になったのは
明治になってからですね。
江戸時代の光格天皇を最後として
明治政府が天皇から奪い取ってしまった。
それが「伝統」になっているのが変だと思うのですが…
「譲位の歴史と上皇」(NHK)
森本哲郎さんの『詩人 与謝蕪村の世界』より
「牡丹」を転記しますφ(..)
(…略…)
しかし、美をきわめた牡丹にもいつしか凋落が来る。
花弁は一片、二片と散ってゆく。
盛りを過ぎた牡丹がこうして美の凝結を剥落させてゆくさまにじっと目を注いだ詩人の口から、
あの「牡丹散て打ちかさなりぬ二三片」という発句が生まれたのである。
だが、かれは、花弁がさらに散り失せて残骸をさらす姿を見るに忍びなかった。
(『詩人与謝蕪村の世界』森本哲郎 至文堂 昭和45年)
それならいっそ切りとってしまう方がよい。
歌仙『此辺(このほと)り』には、蕪村のつぎのような附合がある。
けふや切べき牡丹二もと 蕪村
だが切りとったあとの明伏しがたい虚脱感。
気がつくと真昼はいつしか夕べに傾いている。
かれはうたう。
牡丹切て気の衰ひしゆふべ哉 蕪村
ちりて後おもかげにたつぼたん哉 蕪村
連句はイメージ集であると私は考える。
連作も同様である。
蕪村の牡丹の連作を見ると、
前記のように牡丹のイメージがそれからそれへと展開してゆく道程がよくわかる。
「山蟻のあからさまなり白牡丹」というイメージのあとには
「山蟻の覆道造る牡丹哉」というイメージがあらわれ、
『新花摘』ではさらに数日後のくだりは
「蟻王宮朱門を開く牡丹哉」の句が見える。
「金屏のかくやくとしてぼたんかな」のすぐあとには
「南蘋を牡丹の客や福西寺」と、
画家、沈南蘋が登場し、その花鳥画からの連想で、
「ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶」と、
金屏の上に細密に描かれた牡丹図があらわれる。
(「沈南蘋(しんなんぴん)動植帖」国立国会図書館)
また福西寺(享保16年に長崎に渡来した沈南蘋ゆかりの福済寺)からは、
「ぼたん有寺行過しうらみかな」
という寺の記憶が新しくよみがえってくるというぐあいに、
ひとつのイメージがつぎつぎに他のイメージを触発してゆくのである。
俳句の連作は、岡崎義恵氏によると、
昭和になって始まったとされているが、
少なくともその原型は蕪村の『新花摘』に認めることができる。
この中には、牡丹のほかに「若菜」の数句が見え、
また「鮓(すし)」の数句が連記されているからだ。
むろん、これらは必ずしも同時に作られたものであるとはかぎらないが、
月渓の後書によれば、『新花摘』は、
蕪村が
「ひとゝせ一夏中のほ句かいつくるとて、
かりそめの冊子をつくり、
続花つみと題して、日毎に十章斗(ばかり)を記す」
つもりで取りかかったとあり、
同じ題材の発句が連記されているところをみると、
連作といってさしつかえなさそうである、
そうしたイメージの触発、展開を二人、三人、
あるいは数人の連衆によって行うのが連句なのである。
連作は独白(モノローグ)であり、
連句は対話(ダイヤローグ)である。
したがって、連句の附合は相手のイメージについての解釈の可能性を表現すると同時に、
つぎのイメージを触発する機能を持つ。
そして、そのイメージが果てしなく飛び去ってしまわないように、
ところどころに「月」「花」の定座が設けられ、
またイメージが停滞しないように「去嫌(さりぎらい)」がきめられているのである。
だとすれば、一巻の連句に統一があるかどうかは、
どうでもいいことになる。
肝心なのは、そこに、どのようなイメージが、
どのように展開されているか、ということなのであり、
いわばハプニングなポエジーこそが連句の真髄といえる。
この意味で、連句はソナタ形式を持つ交響楽というより、
むしろ現代風の偶然音楽に近いといえよう。
(『詩人与謝蕪村の世界』森本哲郎 至文堂 昭和45年)