2019年4月26日金曜日

不安定な天気だなと思ったので

雨に降られると困るなと思って50㎜マクロレンズにすると
キビタキに出会いました…
望遠を持っていない時に出あうことが多いな(T_T)
中学校国語教科書の巻頭に
加藤周一(かとうしゅういち)さんの言葉が載っていました。
   言葉とは何か   加藤周一

 言葉とは記号である。
今、目の前の机にリンゴとナシが並べられているしよう。
そのどちらを食べたいか。
私は私の好みを伝えるのに、指でさせばよろしい。
言葉はいらない。
ところが、
「昨日食べたイチゴはうまかった。もう一度イチゴが欲しい。」
というときには、どうすればよいか。
目の前にないものを指さすわけにはいかない。
私は指ではなく、口で「イチゴ」という言葉を発するほかはないだろう。
言葉は空気の振動だが、イチゴという果物の記号であり、
話し相手は、ただちに私の望みを理解するにちがいない。
(『伝え合う言葉 中学国語1』教育出版 平成28年版)
 人間は身のまわりにあるもの、ないもの、
見たり触ったりできるもの、できないもの、
そのほとんど全てに「言葉=記号」を割りふることができる。
そうすれば、現実の山河を地図が案内するように、
現実の世界を「言葉=記号」の世界が案内することになるだろう。
そういうことは、人間以外の動物ではできない。
 しかし言葉は習うものである。
人間の子どもには、生まれた時から、
言葉を習う能力が与えられていて、
その能力を用いて、幼児は母親から母親の話す言葉を習う。
その言葉を「母語」という。
日本で生活する人々にとって、母語は日本語である場合が多い。
日本語には読み書きの手段もあって、それもまた、
すばらしく便利なものである。
日本語を習い、さらに習い続けていくことは、
豊かな生活の基礎を作ることだ。
(『伝え合う言葉 中学国語1』教育出版 平成28年版)
   言葉の楽しみ  加藤周一

 言葉は自己と世界をつなぐ橋である。
 生まれたばかりの幼児は、空腹を母親に訴えるのに泣くしかない。
母親はその訴えを理解することもあり、理解しないこともあるだろう。
子どもが成長して言葉を覚えれば、
空腹ばかりでなく何を食べたいかという考えの内容まで、
母親にも、友達にも、見ず知らずの人にさえも、
容易に、確実に、伝えることができる。
言葉という橋を通って、私は私の内側から外側へ向かって、
感情や考えを自由に送り出す。
これは大きな楽しみである。
(『伝え合う言葉 中学国語2』教育出版 平成28年版)
 また言葉という橋は一方通行ではない。
情報は外側から内側へも流れる。
私は地球の反対側にいる人々の話を聞くこともできる。
その話はいつも楽しいわけではない。
しかしすばらしく楽しいこともある。
 言葉を話し聞くだけでなく、読み書きを習えば、
言葉の橋は飛躍的に強化されるだろう。
それが読書の楽しみである。
「ケータイ」電話を用いれば、どこにいても、
友達と話すことができる。
しかし、わが身のふり方を聖徳太子に相談するわけにはいかない。
古今東西の偉人たちに、自由自在に意見を求めることは、
本を読むことでしかできない。
(『伝え合う言葉 中学国語2』教育出版 平成28年版)
  日本語の特徴  加藤周一

 日本にはただ一つの「国語」(公用語)、日本語がある。
四つの「国語」をもつスイスや、二つの「国語」をもつカナダと違い、
ただ英語のみを「国語」とするアメリカに似ている。
しかし英語やフランス語やドイツ語の場合と違って、
日本語を「国語」とする国は日本のほかにはない。
そのことから大きな便利と不便が生じる。
便利は、日本中で日本語が通じることであり、
不便は外国との交流に、言葉のうえの困難が伴うことである。
(『伝え合う言葉 中学国語3』教育出版 平成28年版)
 発音・文法・基本的な単語が日本語に似ている外国語はきわめて少ない。
おそらく朝鮮半島の言葉は例外である。
したがって、日本人にとっての外国語学習は容易ではないだろう。
 しかし日本列島で発達した日本語は、その長い歴史の間に、
主として中国語から多くの単語や語法を借用し、
表現力の豊かな言葉となった。
この言葉には、精密な考えを展開し、
微妙な感情を表現できる限りない可能性がある。
日本の科学技術や法体系や詩歌は、
そのことを十分に示しているだろう。
 祖先の文化的遺産の最大のものは、おそらく日本語である。
粗末にするよりは大切に扱うほうが賢明だろうと私は思う。
(『伝え合う言葉 中学国語3』教育出版 平成28年版)
今朝の父の一枚です(^^)/
まるでスズメがポタンポタンと落ちている桜を
名残り惜しんで見ているみたい…