ニュースになると一層混雑するので
今日のうちにと出かけました(^-^;
「特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念 国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」
『一遍聖絵』を前から読んでいて見たいなと思っていました。
図録「国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」を購入しようとしたら
手提げ(布製)まであったので記念に買いました(*´▽`*)
『一遍聖絵』の解説には
「史料性も高く、人間一遍を描くことに主点をおいているので、神格化も少ない。
内容的には、行状や教えは画図とあいまち、よく調和し、
鎌倉時代の絵詞伝としての格調も高く、
画図はまた当時の生活状態をよく伝えているので、
社会経済史ないし民衆史の史料としても高く評価されている。」
(『一遍聖絵』聖戒 編、大橋俊雄校注 岩波文庫 2000年)
また、機会がある時に紹介したいと思います。
会計をしようとするとショーケースに
こんなお菓子が入っていたのでお聞きすると
お店の方が「究極のエコです。後に残りません」と仰った(^^♪
甘春堂本店でいただきました(^^)/
七条大橋を渡って鴨川沿いに歩いていると
扇塚の記
扇は平安時代の初期この地に初めて作られたものである
ここ五條大橋の畔は時宗御影堂の遺趾(いし)であり
平敦盛没後その室本寺祐寛上人によつて得度し蓮華院尼と稱し
寺僧と共に扇を作つたと言い傳えられている
この由緒により扇工この地に集り
永く扇の名産地として
廣く海外にまでも喧傅(けんでん)されるに至つた
いまこの由來を記してこれを顯彰する
昭和35年3月15日
京都市長 高山義三
(石碑が読み取りにくかったので間違っているかもしれませんし
原文通りではありませんm(__)m…)
前から食べたかったカレーのお店(^^♪
「マリーD」です。
料理は撮影禁止になっているので外観だけになります。
また、機会がある時に紹介したいと思います。
会計をしようとするとショーケースに
こんなお菓子が入っていたのでお聞きすると
お店の方が「究極のエコです。後に残りません」と仰った(^^♪
甘春堂本店でいただきました(^^)/
七条大橋を渡って鴨川沿いに歩いていると
扇塚の記
扇は平安時代の初期この地に初めて作られたものである
ここ五條大橋の畔は時宗御影堂の遺趾(いし)であり
平敦盛没後その室本寺祐寛上人によつて得度し蓮華院尼と稱し
寺僧と共に扇を作つたと言い傳えられている
この由緒により扇工この地に集り
永く扇の名産地として
廣く海外にまでも喧傅(けんでん)されるに至つた
いまこの由來を記してこれを顯彰する
昭和35年3月15日
京都市長 高山義三
(石碑が読み取りにくかったので間違っているかもしれませんし
原文通りではありませんm(__)m…)
前から食べたかったカレーのお店(^^♪
「マリーD」です。
料理は撮影禁止になっているので外観だけになります。
「王道と革新、2人のカレーSP」を見ていてカレーを食べたくなりました。
お店の人に聞くと30年ほど前からなさっているそうです。
写真を撮れなかったのでうまく説明できませんが
柔らかな辛さで美味しかったですよ!
昔だったらデザートもいただきたくなっただろうな…
実は、この店の前を何度も歩いている…
と言うのは、青い服の男性がいる辺りに居酒屋「静」がある(^_-)
(2019年3月10日の記事)
そして学生時代には前を通りながら気がつかなった
「八兵衛明神」さまがいらっしゃる(^^ゞ
(2014年1月12日の記事)
目付 海防掛 岩瀬忠震宿所跡
福井藩士 橋本佐内訪問之地
岩瀬忠震[(いわせただなり)1818~1861]は幕末の旗本、すなわち徳川家(幕府)の直臣。
安政5年(1858)6月、日米修好通商条約の締結にあたり、全権として中心的な役割を担った。
しかし、その後、大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立、
いわゆる「安政の大獄」の一環として、謹慎処分を受け、文久元年(1861)7月に病死した。
(長文の説明があったので後で、続きを載せます)
今日は、平成31年4月24日なんですが…(^_-)
豊臣秀次とまわりを取り囲むのは一族39名
および殉じて自刃した家臣10名の合計49基の五輪石塔
(「瑞泉寺の由来」瑞泉寺HP)
処刑に祭し引導を授けたという地蔵菩薩立像(通称引導地蔵)と並んでいるのは
一族と家臣達の姿を写す49体の極彩色の京人形だそうです。
(2017年10月12日の記事)
こんな立札があったので見ると
三条大橋擬宝珠刀傷跡
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。
これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、
現在でもはっきり見て取れる刀傷です。
三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。
三条小橋商店街振興組合
町歩きに参考にする本には…
三条大橋
三条通の鴨川にかかる橋。
室町時代の造営にはじまるという。
豊臣秀吉が奉行増田長盛(ましたながもり)に命じて、1590(天正18)年に大改修、現在の橋の原型をつくった。
銅製の擬宝珠(ぎぼし)は天正時のもを残していたが、近年腐食が進み、模造品にかえられた。
きざまれた文字は往古の工事の様子を今に伝える。
江戸時代には幕府直轄の公儀橋で、東海道の始点(終点)となった。
近代にはいって数次の改修を経て、現在の橋の姿となった。
木製の裾隠(すそかく)しがついているため、主要部がコンクリート製であるにもかかわらず、古格をよく保っている。
長さは74m・幅15m。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)
「目付 海防掛 岩瀬忠震宿所跡 福井藩士 橋本佐内訪問之地」の続きですφ(..)
篤三郎(あつさぶろう)忠震は、文正元年(1818)11月、旗本設楽貞丈(しだらさだとも)の3男に生まれ、天保11年(1840)、旗本岩瀬忠正の養子となり、岩瀬家を継いだ。
徳川家の官学である昌平黌(しょうへいこう)に学んで、英才ぶりをうたわれ、官吏登用試験に合格した後、嘉永4年(1851)、昌平黌教授となる。
嘉永6年(1853)6月、ペリー来航の後、老中阿部正弘(あべまさひろ)により、幕府の人材登用が進められた際、重職である目付(監察)に登用され、外交政策を審議する海防掛(かいぼうがかり)に任じられた。
岩瀬が、実際に外交交渉を経験したのは、安政2年(1855)、下田方面で、ロシア使節プチャーチンとの間で、日露和親条約の修正にあたった時である。
安政4年(1857)には、前年に赴任していたアメリカ駐日総領事ハリスの要請により、通商条約の締結が計画される中で、下田奉行井上清直(いのうえきよなお)とならび、交渉全権に就任した。
この時までに、首席老中堀田正睦(ほったまさよし)をはじめ、岩瀬を含む大目付・目付ら幕府の中堅役人層は、日本を、欧米諸国が主導する国際関係の中に参入させる方針を採るようになっていた。
いわゆる「積極開国論」である。
安政4年12月には、ハリスとの交渉の結果、通商条約の草案が確定した。
老中堀田と岩瀬は、調印に先立ち、孝明(こうめい)天皇をはじめ朝廷の事前の許可(勅許)を得るため、翌安政5年正月に上京した。
その時の岩瀬の宿舎が、この瑞泉寺である。
堀田と岩瀬は、関白九条尚忠(ひさただ)らに対し、世界の大勢を説き、「開国」が必然であることを力説して、勅許を降されるように求めた。
しかし、欧米諸国を「夷狄(いてき)」、つまり文明の面で日本に劣る野蛮な国々と見る考え方に留まっていた朝廷は、3月20日に至り、勅許を与えることはできないと回答した。
岩瀬は、これを聞いて憤慨したが、やむえず、堀田に先立ち、江戸に帰ることになった。
いっぽう、同じ頃、岩瀬は、実子のない13代将軍家定の跡継ぎに、一橋慶喜(のち15代将軍)を送り込もうとする運動にも、積極的に加担していた。
岩瀬と同じ立場で運動していた有志の一人に、越前松平家(越前藩)の当主、松平慶永(よしなが)がいる。
慶永が信頼する家臣の橋本佐内は、上京して、朝廷の有力公卿たちを説得し、将軍の跡継ぎとして、一橋慶喜を指名する内々の勅書を降してもらうよう、政治工作にあたっていた。
志を同じくする岩瀬と橋本は、それまで面会をする機会がなかったが、岩瀬が京都を出立する前日の3月24日、橋本が瑞泉寺を訪問し、ここに両者の会談が実現した。
この瑞泉寺が、歴史的な遺蹟として、記念されるばき意味を持つのは、以上の経緯による。
岩瀬に続き、堀田正睦も4月20日、江戸に帰り着くが、将軍家定は、23日には彦根井伊家(彦根藩)の当主、直弼を大老に任じ、堀田らの「積極開国論」に賛同しない方針を示し、また自身の跡継ぎも、紀伊徳川家の当主、慶福[(よしとみ)のち14代将軍家茂(いえもち)]とする腹案を、すでに固めていた。
その2か月後、ハリスの強い要請により、井伊大老は、やむをえず勅許を得ないまま、条約の調印を認め、井上・岩瀬両全権は、神奈川沖に停泊するポーハタン号の船上で、日米修好通商条約を調印した。
安政5年6月19日のことである。
さらに、7月から9月にかけ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に、同様の条約が調印された。
この間に、外交政策を担当する正規の幕府部局として、7月8日、外国奉行が新設され、岩瀬は、初代奉行5人の1人に任命されている。
なお、堀田は6月23日、老中を罷免された。
しかし、井伊大老本人は、「積極開国論」を受け入れたわけではない。
井伊は、あくまでも当面の危機を避けるため、一時しのぎの方策として、調印を進めただけである。
また、もう一つの懸案事項である、将軍の跡継ぎ問題にしても、岩瀬ら役人層や松平慶永ら、大老・老中以外の者が介入することを甚だしく嫌った。
このため、岩瀬は、日仏条約調印直後の9月5日、閑職の作事奉行(工事監督官)に左遷され、翌年8月には、それも罷免されたのである。
その後、岩瀬は、澄田河畔の隠居所で鬱々とした日々を送り、万延元年(1860)3月、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後も、政局復帰を果たすことなく、文久元年(1861)7月11日、病死した。
明治のジャーナリスト、旧幕臣の福地桜痴(ふくちおうち)は、これを「憤死」と評した。
佛教大学歴史学部歴史学科教授 青山忠正
お店の人に聞くと30年ほど前からなさっているそうです。
写真を撮れなかったのでうまく説明できませんが
柔らかな辛さで美味しかったですよ!
昔だったらデザートもいただきたくなっただろうな…
実は、この店の前を何度も歩いている…
と言うのは、青い服の男性がいる辺りに居酒屋「静」がある(^_-)
(2019年3月10日の記事)
そして学生時代には前を通りながら気がつかなった
「八兵衛明神」さまがいらっしゃる(^^ゞ
(2014年1月12日の記事)
目付 海防掛 岩瀬忠震宿所跡
福井藩士 橋本佐内訪問之地
岩瀬忠震[(いわせただなり)1818~1861]は幕末の旗本、すなわち徳川家(幕府)の直臣。
安政5年(1858)6月、日米修好通商条約の締結にあたり、全権として中心的な役割を担った。
しかし、その後、大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立、
いわゆる「安政の大獄」の一環として、謹慎処分を受け、文久元年(1861)7月に病死した。
(長文の説明があったので後で、続きを載せます)
今日は、平成31年4月24日なんですが…(^_-)
豊臣秀次とまわりを取り囲むのは一族39名
および殉じて自刃した家臣10名の合計49基の五輪石塔
(「瑞泉寺の由来」瑞泉寺HP)
処刑に祭し引導を授けたという地蔵菩薩立像(通称引導地蔵)と並んでいるのは
一族と家臣達の姿を写す49体の極彩色の京人形だそうです。
(2017年10月12日の記事)
こんな立札があったので見ると
三条大橋擬宝珠刀傷跡
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。
これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、
現在でもはっきり見て取れる刀傷です。
三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。
三条小橋商店街振興組合
町歩きに参考にする本には…
三条大橋
三条通の鴨川にかかる橋。
室町時代の造営にはじまるという。
豊臣秀吉が奉行増田長盛(ましたながもり)に命じて、1590(天正18)年に大改修、現在の橋の原型をつくった。
銅製の擬宝珠(ぎぼし)は天正時のもを残していたが、近年腐食が進み、模造品にかえられた。
きざまれた文字は往古の工事の様子を今に伝える。
江戸時代には幕府直轄の公儀橋で、東海道の始点(終点)となった。
近代にはいって数次の改修を経て、現在の橋の姿となった。
木製の裾隠(すそかく)しがついているため、主要部がコンクリート製であるにもかかわらず、古格をよく保っている。
長さは74m・幅15m。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)
「目付 海防掛 岩瀬忠震宿所跡 福井藩士 橋本佐内訪問之地」の続きですφ(..)
篤三郎(あつさぶろう)忠震は、文正元年(1818)11月、旗本設楽貞丈(しだらさだとも)の3男に生まれ、天保11年(1840)、旗本岩瀬忠正の養子となり、岩瀬家を継いだ。
徳川家の官学である昌平黌(しょうへいこう)に学んで、英才ぶりをうたわれ、官吏登用試験に合格した後、嘉永4年(1851)、昌平黌教授となる。
嘉永6年(1853)6月、ペリー来航の後、老中阿部正弘(あべまさひろ)により、幕府の人材登用が進められた際、重職である目付(監察)に登用され、外交政策を審議する海防掛(かいぼうがかり)に任じられた。
岩瀬が、実際に外交交渉を経験したのは、安政2年(1855)、下田方面で、ロシア使節プチャーチンとの間で、日露和親条約の修正にあたった時である。
安政4年(1857)には、前年に赴任していたアメリカ駐日総領事ハリスの要請により、通商条約の締結が計画される中で、下田奉行井上清直(いのうえきよなお)とならび、交渉全権に就任した。
この時までに、首席老中堀田正睦(ほったまさよし)をはじめ、岩瀬を含む大目付・目付ら幕府の中堅役人層は、日本を、欧米諸国が主導する国際関係の中に参入させる方針を採るようになっていた。
いわゆる「積極開国論」である。
安政4年12月には、ハリスとの交渉の結果、通商条約の草案が確定した。
老中堀田と岩瀬は、調印に先立ち、孝明(こうめい)天皇をはじめ朝廷の事前の許可(勅許)を得るため、翌安政5年正月に上京した。
その時の岩瀬の宿舎が、この瑞泉寺である。
堀田と岩瀬は、関白九条尚忠(ひさただ)らに対し、世界の大勢を説き、「開国」が必然であることを力説して、勅許を降されるように求めた。
しかし、欧米諸国を「夷狄(いてき)」、つまり文明の面で日本に劣る野蛮な国々と見る考え方に留まっていた朝廷は、3月20日に至り、勅許を与えることはできないと回答した。
岩瀬は、これを聞いて憤慨したが、やむえず、堀田に先立ち、江戸に帰ることになった。
いっぽう、同じ頃、岩瀬は、実子のない13代将軍家定の跡継ぎに、一橋慶喜(のち15代将軍)を送り込もうとする運動にも、積極的に加担していた。
岩瀬と同じ立場で運動していた有志の一人に、越前松平家(越前藩)の当主、松平慶永(よしなが)がいる。
慶永が信頼する家臣の橋本佐内は、上京して、朝廷の有力公卿たちを説得し、将軍の跡継ぎとして、一橋慶喜を指名する内々の勅書を降してもらうよう、政治工作にあたっていた。
志を同じくする岩瀬と橋本は、それまで面会をする機会がなかったが、岩瀬が京都を出立する前日の3月24日、橋本が瑞泉寺を訪問し、ここに両者の会談が実現した。
この瑞泉寺が、歴史的な遺蹟として、記念されるばき意味を持つのは、以上の経緯による。
岩瀬に続き、堀田正睦も4月20日、江戸に帰り着くが、将軍家定は、23日には彦根井伊家(彦根藩)の当主、直弼を大老に任じ、堀田らの「積極開国論」に賛同しない方針を示し、また自身の跡継ぎも、紀伊徳川家の当主、慶福[(よしとみ)のち14代将軍家茂(いえもち)]とする腹案を、すでに固めていた。
その2か月後、ハリスの強い要請により、井伊大老は、やむをえず勅許を得ないまま、条約の調印を認め、井上・岩瀬両全権は、神奈川沖に停泊するポーハタン号の船上で、日米修好通商条約を調印した。
安政5年6月19日のことである。
さらに、7月から9月にかけ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に、同様の条約が調印された。
この間に、外交政策を担当する正規の幕府部局として、7月8日、外国奉行が新設され、岩瀬は、初代奉行5人の1人に任命されている。
なお、堀田は6月23日、老中を罷免された。
しかし、井伊大老本人は、「積極開国論」を受け入れたわけではない。
井伊は、あくまでも当面の危機を避けるため、一時しのぎの方策として、調印を進めただけである。
また、もう一つの懸案事項である、将軍の跡継ぎ問題にしても、岩瀬ら役人層や松平慶永ら、大老・老中以外の者が介入することを甚だしく嫌った。
このため、岩瀬は、日仏条約調印直後の9月5日、閑職の作事奉行(工事監督官)に左遷され、翌年8月には、それも罷免されたのである。
その後、岩瀬は、澄田河畔の隠居所で鬱々とした日々を送り、万延元年(1860)3月、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後も、政局復帰を果たすことなく、文久元年(1861)7月11日、病死した。
明治のジャーナリスト、旧幕臣の福地桜痴(ふくちおうち)は、これを「憤死」と評した。
佛教大学歴史学部歴史学科教授 青山忠正
こんばんは~
返信削除>前から見たいと思っていた特別展を今朝のニュースで
そのニュース見ました。
その時に、エブリさんに一遍上人の本を読んだことを覚えているのに内容をわすれているという話をしたところでした。(^-^;
若い頃に、一遍上人の本を読んで、良かったと心に残ったことを覚えているのに内容は忘れてしまっています。
難儀な事です。(>_<)
kazeさんは、見に行かれたのですね。
曇り空でしたので美術館日和りですね。
>お店の方が「究極のエコです。後に残りません」と仰った(^^♪
甘春堂のお菓子、工夫されていて「なるほど」です。(^^)/
カイさんこんばんは(^^)/
削除Kazeも栗田勇さんの『一遍上人』や他にも読んでいながら記憶にありません…
>難儀な事です。(>_<)
今回、いい機会なので岩波文庫の『一遍聖絵』を持参して見比べていました。
>曇り空でしたので美術館日和りですね。
天気が悪い時には入館者も少ないだろうなと思って出かけました。
雨に降られるのを覚悟していたのですが
傘をさすことなく歩けました(^^)v
甘春堂のお店は、東店で抹茶セットをいただいたことがあるのですが、
本店は、畳に椅子があって寛ぐことができました。
これから博物館の後、本店で一服するのもいいなと思いました。