今日から新年度が始まりますね。
元号も「令和(れいわ)」と発表されました。
“新元号は「令和」 出典は「万葉集」”
大伴旅人の宴席での歌の序というのは意外でした。
旅人は好きな歌人なのでいいなと思うのですが、
旅人の境遇を考えると、不遇な人生を歩んでいると思います。
そんな不遇な人に光が当てられたのはいいなと思います。
これからの時代、そういう人たちに光があたるようにと願っています。
まず、「令和」の出典を転記したいと思いますφ(..)
画像は、梅の花の時期を終っていますので(^^ゞ
万葉集第五巻
梅花(ばいくわ)の歌三十二首 荓(あは)せて序
天平二年の正月の十三日に、
帥老(そちのおきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。
時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、
気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。
(『萬葉集二 新潮日本古典集成』
青木生子他校注者 新潮社 昭和53年)
梅は鏡前(けいぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く、
蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(くゆ)らす。
しかのみにあらず、曙(あした)の嶺(みね)に雲移り、
松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、
夕(ゆふへ)の岫(くき)に霧結び、
鳥は縠(うすもの)に封(と)ぢらえて林に迷(まと)ふ。
庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。
ここに、天(あめ)を蓋(やね)にして地(つち)を坐(しきゐ)にし、
膝(ひざ)を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。
言(げん)を一室の裏(うち)に忘れ、
衿(きん)を煙霞(えんか)の外(そと)に開く。
淡然(たんぜん)自(みづか)ら放(ゆる)し、
快然(くわいぜん)自ら足る。
もし翰苑(かんゑん)にあらずは、
何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ。
詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す、
古今それは何ぞ異(こと)ならむ。
よろしく園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して、
いささかに短詠(たんえい)を成すべし。
(現代語訳)
天平二年正月十三日、帥の老の邸宅に集まって、宴会をくりひろげた。
折しも、初春の佳(よ)き月で、
気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。
梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、
蘭は貴人の飾り袋の香(こう)のように匂っている。
そればかりか、明方の峰には雲が行き来して、
松は雲の薄絹をまとって蓋(きぬがさ)をさしかけたようであり、
夕方の山洞には霧が湧き起こり、
鳥は霧の帳(とばり)に閉じこめられながら林に飛び交うている。
庭には春生れた蝶がひらひら舞い、空には秋来た雁が帰って行く。
そこで一同、天を屋根とし地を座席とし、
膝を近づけて盃(さかずき)をめぐらせる。
一座の者みな恍惚として言を忘れ、
雲霞の彼方(かなた)に向かって胸襟を開く。
心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。
ああ、文筆によるのでなければ、
どうしてこの心を述べ尽(つく)すことができよう。
漢詩にも落梅の作がある。
昔も今も何の違いがあろうぞ。
さあ、この園梅を題として、しばし倭(やまと)の歌を詠むがよい。
(注)
〇この序は、王義之(おうぎし)の「蘭亭集序」や初唐の詩序などの構成・語句に学ぶところが多い。
〇太宰府管内の日向・大隅・薩摩の三国、壱岐・対馬の二島は、
12月中旬に朝集使(ちょうしゅうし)を太宰府に遣わす習い。
梅花の宴は、この朝集使たちと太宰府官人および旅人の知人を集めて行ったものらしい。
◇帥老 「老」は自称と見る説もあるが、尊称であろう。
序をまとめたのは旅人配下の書記か。
◇珮後 「珮」は帯の飾り。ここは匂い袋か。
「後」は「鏡前」の「前」と対にするための文飾。
以下、対句が目立つ。
(『萬葉集二 新潮日本古典集成』
青木生子他校注者 新潮社 昭和53年)
(「[解説2]万葉集という文学作品―時代を追って 山崎福之」より)
(…略…)
さらに特徴的なのは、大伴旅人と山上憶良の二人である。
万葉集巻五は大半を二人の作が占めている。
大伴旅人は神亀(じんき)5年(728)ころ、帥として大宰府へ赴任する。
それは、有力豪族の長の一人が都を留守にすることになったとも言える。
そして旅人の太宰帥(だざいのそつ)在任中の神亀6年2月に長屋王(ながやおう)の変が起こって、
高市皇子(たけちのみこ)の子で皇位継承の可能性もあった長屋王と、
その子膳部(かしわで)王は謀反の疑いありとされて自害してしまう。
推測の域を出ないが、結果から見ればこの一連の動きは藤原氏の画策したことであったかもしれない。
(『万葉集(二)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2013年)
この都での政務に与(あずか)れないという政治的な不遇に加えて、
大宰府まで同道していた妻大伴郎女(いらつめ)の死によって、
旅人の心は現実逃避に向かう傾向を強めたと思われる。
讃酒歌13首(338―350)には、仏教の無常観、
道教の隠遁思想の影響を見ることができる。
また天平2年(730)正月の帥邸での盛大な梅花宴歌32首(815―846)には、
舶来の白梅を観賞、賞嘆し、
詩賦の世界に韜晦(とうかい)する旅人の姿勢が窺えるのである。
同年12月には大納言となって都に帰還するが、
帰路の作には亡き妻の追憶に沈む孤独な心情が痛切に吐露されている。
旅人は翌3年に薨じている。
その梅花宴に筑前守(ちくぜんのかみ)として列席していたのが、山上憶良であった。
憶良は日本挽歌(794―799)や貧窮問答歌(892・893)などの長短歌をはじめ、
沈痾(ちんあ)自哀文(896の次)や
「俗道(ぞくだう)の仮(かり)に合ひて即(すなは)ち離れ、……」
と題する七言古詩とその序文(897の前)などの詩や散文を数多く残した。
そこには、万葉集において他に類を見ないほど中国文学、
仏教思想の色濃い影響を見ることができる。
また思子等歌(802・803)や罷宴歌(337)などからは家族を思う人間味溢れる心情をくみ取ることができる。
憶良は旅人とも親しく交わったと見られ、
二人の歌は周辺の人物の作と合わせて、
「筑紫歌壇」と呼ばれる歌群をなしている。
奈良朝前期の歌の世界は両人によって豊かな実りを得たと言うことができ、
二人の相次ぐ死を以て第三期を画することも頷けよう。
(『万葉集(二)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2013年)
今朝の父の一枚です。
台風で傷つけられた桜の樹の根元から
若い芽が出ているのを写していました。
一緒に画像を見ながら「力強いな」とつぶやいてました。
「樹木がヒコバエを発生させる条件について」(日本植物生理学会)