青空が広がっていましたが、冷たい風で冬のようでした。
この時期、植物たちはどう感じているのかな?
又吉直樹のヘウレーカ!「なぜ植物は春がわかるのか?」
再放送は今夜(午前0時25分~)にあるのですが、
その中で吉野弘さんの詩「風が」の一部が流れていました♪
風が桜の花びらを散らす
春がそれだけ弱まってくる
ひとひら ひとひら 舞い落ちるたびに
人は 見えない時間に 吹かれている
先日、息子さんに会った時は
お母さんが年末に体調を崩してから
外出をされないと心配されていたのですが
今朝、久しぶりに公園に来られたそうです。
思わず拍手を送りました。
私も毎朝、胸が痛かったり、腹痛や下痢になったりして
散歩に出かけるのが不安になるけど
こうして草木を見たり、野鳥や虫たちに出会っていると
気分が晴れることを話しました。
お母さんも出かけてきてよかったと笑顔で話されていました。
『田辺聖子の古典まんだら(上)』の中から
「天皇も庶民も歌を詠んだ 万葉集」より
大津皇子と大伯皇女について書かれた箇所を転記しますφ(..)
壬申(じんしん)の乱という、
日本の国を二つに分ける大きな戦争があって、
大海人皇子は、天智天皇の皇子である大友皇子を倒して、
天武天皇として即位します。
天武天皇の正式な后は、天智天皇の娘です。
その頃は、叔父と姪、叔母と甥のあいだの結婚は許されていました。
許されないのは同父、同母の兄弟姉妹間の愛でした。
(『田辺聖子の古典まんだら(上)』新潮社 2011年)
天智天皇は自分の息子に跡を継がせたかったのですが、
政治上大きな存在である弟の大海人皇子に脅威を強く感じていました。
自分の娘を二人も大海人皇子の嫁にしたのは、
弟を懐柔しようとしたのでしょう。
姉は大田皇女。
妹は鸕野讃良(うののさらら)皇女、すなわち後の持統天皇です。
大田皇女は大伯(おおく)皇女と大津皇子を産むのですが、
二人を残して若くして身罷(みまか)ります。
一方、妹の鸕野讃良皇女が産んだのが草壁(くさかべ)皇子です。
大津皇子は体力も優れていて、文武両道の達人です。
漢詩を作るのもとてもうまい。
性格も魅力的だったのでしょう。
たくさんの人たちが大津皇子のもとに集まります。
しかし鸕野讃良皇女は自分の産んだ草壁皇子を帝位につけたいと願っていました。
彼女にとって、大津皇子は目の上のこぶです。
やがて天武天皇が崩御するのですが、みんな喪に服しているさなか、
大津皇子はわずかばかりの供を連れて密かに伊勢を訪れます。
たった一人の姉である大伯皇女が、天武天皇即位とともに、
14歳で斎宮になって、伊勢神宮に仕えていたからです。
『万葉集』の詞書にも、「ひそかに伊勢の神宮に下りて」とあります。
帝の喪中に、近親の皇族が都を離れて伊勢に行く。
後でどんな誤解を受けても弁明できません。
いったい何があったのかわかりませんが、
ただならぬ決意を秘めていたことは間違いありません。
久しぶりに会った姉弟のあいだで、
どんな話が交わされたのでしょうか。
大津皇子はやがて朝まだきに発っていきます。
それを見送った大伯皇女の哀切な歌です。
わが背子を大和へ遣(や)るとさ夜深(ふ)けて暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡(ぬ)れし (105)
「あの人を大和に帰した。
その後姿を見送って私は暁の露に肩が濡れるまで立ち尽くしていました。
「背子(せこ)」は、恋人や兄弟など親しい男性を女性からいう詞です。
大伯皇女の歌はもう一首あります。
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (106)
「秋の山を旅するのは二人で行っても寂しい。
それをあの子は一人越えていった。
どんなに心細く寂しことでしょう」
大津皇子は都に戻るとすぐに謀反を企てたかどで処刑されます。
身内に不幸が起きたときには、
斎宮はその任にとどまることはできません。
大伯皇女は斎宮の任を解かれて大和に向かいます。
どんなにその足は重かったことでしょう。
見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに (164)
「私は会いたいと思っているあの人はもうこの世にはいないのに、
どうして帰ってきたのだろう。
馬が疲れるだけだというのに」
大和と河内の境にある二上山頂きに葬られた大津皇子を大伯皇女は悲しみ悼みます。
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)とわが見む (165)
「私はこの現し世の人だが、
あの子はもう黄泉の国の人になってしまった。
これからずっと二上山をあの子だと思って眺めましょう」
大津皇子はみんなに好かれていたのです。
石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性がいました。
草壁皇子も彼女のことを愛していたのですが、
恋の勝利者は大津皇子でした。
大津皇子が石川郎女に贈った歌は、
大津皇子の短い青春を象徴しています。
あしひきの山のしづくに妹(いも)待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに (107)
「君を待っている間、山のしずくに濡れてしまったよ」
どのような情景なのかはわかりません。
これも刑死する運命を暗示する歌ではないか。
皇子ともあろう者が山のしずくに濡れるということはあり得ないという人もいますけれども、
少々理詰めにすぎる解釈ではないでしょうか。
大津皇子はちょっとしたアバンチュールを楽しんで、
石川郎女を人目のない山に誘い出したのかもしれません。
石川郎女の楽しい返歌が残されています。
万葉乙女のとても生き生きとした可愛らしさがよくでています。
吾(あ)を待つと君が濡(ぬ)れかむあしひきの山のしづく成らましものを (108)
「私を待って山のしずくに濡れたんですって。
私、その山のしずくになりたかったわ」
(『田辺聖子の古典まんだら(上)』新潮社 2011年)
『田辺聖子の古典まんだら』は、文庫本が出ています。
まず、田辺さんの本を読まれると古典の面白さがわかると思います。
午後から注文していた本が届いたので受け取りに行きました。
すると
“いま よみがえる花鳥画の木版画[小原 祥邨(古邨)展]”
が、今日から開催されていましたヽ(^o^)丿
古邨展を見たかったのですが
東京の太田記念美術館だったので諦めていました。
作品は買う余裕はないけど、
東京での「公式図録」を購入できました(^^)v
追記)
朝9時から叔父の手術と聞いていました。
長い一日、先程、午後5時に無事終わったと連絡がきました。
父もホッとしています。