2019年4月3日水曜日

晴れていると思ったら…

今朝も青空が広がっていると思ったら
黒い雲が日差しを隠して寒くなりました。
昨夜のNHK「サラメシ」の中で
台湾料理店「福臨門(ふくりんもん)」(渋谷区本町)のご主人が
大杉漣さんのとの思い出を語っていました。
再放送は明日、午後0時20分からです。
サイレンの音とヘリコプターの音、黒い煙が上がっていました。
ニュースを検索しても見つけることができなかったので
幸い死傷者が出なかったようです。
大伴旅人の亡き妻を偲んで詠んだ歌を転記しますφ(..)
(ゆ)くさには 
二人(ふたり)(わ)が見(み) 
この崎(さき) 
ひとり過(すぐ)れば 
心悲(こころかな)しも  
  巻三・450 大伴旅人(おおとものたびと)
(『NHK日めくり万葉集vol.3』中村勝行編 講談社 2009年)
大宰府に赴任する行きしなに
妻と二人で見たこの崎を
帰りはひとりで過ぎると
心悲しいことだ

 この歌は天平二年(730)、
大伴旅人が帰京の途で作った五首のうちの一首。
大宰府での任を終えて京に向かった旅人は、
寄港した鞆(とも)の浦(現在の広島県福山市)で三首、
敏馬(みぬめ)の崎(現在の神戸市灘区)で二首、
いずれも大宰府で亡くなった妻を偲ぶ歌を詠んだ。
――大伴旅人が大宰府長官の任を終えて都に帰る途上、
敏馬の崎を見て詠んだ歌です。
旅人は、大宰府で長年連れ添った妻を亡くしていました。

[選者 大岡信 (詩人)]
 旅先で愛妻が亡くなったことに対する追悼の想いを詠んだ歌が、
この人にはたくさんあります。
とても良い歌が多いですね。
――現代を代表する詩人、批評家の大岡信さん。
万葉集は、日本の宝物だと言います。

[大岡]
 万葉集の歌人は大勢いますけど、
作風からいえば、大伴旅人はとても好きな歌人です。
この歌はごく自然な情景にそっと持ってきて、
それに悲しみの情をそそるような背景が見事に捉えられている。
亡妻挽歌の造りとしてはたいへん自然です。
偉大な歌人だったと思わせますね。
――大伴旅人が妻を亡くしたのは、
六十代も半ばにさしかかる頃でした。
この歌は、一人都へ帰る悲しみを旅の途上で詠んだ五首の一つです。
悲しみは、帰郷後に妻のいない家を詠んだ歌にも表れています。

  我妹子(わぎもこ)
  植ゑし梅の木
  見るごとに
  心むせつつ

  涙し流(なが)
        (巻三・453 大伴旅人)
 [大岡]
 我妹子が植えたこの梅の木を見るたびに、
心がむせて涙が流れるというんですから、
この人は愛情が非常に強くて、
激情に誘われるようなところがあったことがわかります。
そういう点で、個人的な感情の表現の仕方が非常に素直で、
うまくできた歌です。
 亡くなった妻のことを嘆く人の歌はたくさんありますが、
それらを並べてみても、こんなふうに感情が素直に表れた歌風は、
万葉歌人の中でも珍しいんじゃないでしょうか。
(『NHK日めくり万葉集vol.3』中村勝行編 講談社 2009年)
大伴旅人とその妻
 大伴旅人が太宰帥(だざいのそち 大宰府の長官)として赴任したのは、
神亀(じんき)四年(727)の暮れ頃と推定される。
63歳という高齢でもあり、妻を伴って赴任したのである。
長旅の疲れや、慣れぬ土地での疲れがあったのであろうか、
翌年の初夏と覚しき頃に旅人の妻は逝去した。
(『NHK日めくり万葉集vol.3』中村勝行編 講談社 2009年)
 巻八の1472の石上堅魚(いそのかみかつお)の歌の左注に
「右、神亀五年戊辰、太宰帥大伴卿の妻大伴郎女(いらつめ)
 病に遇(あ)ひて長逝す。
 ここに、勅使式部大輔(しきぶのだいふ)石上朝臣堅魚を大宰府に遣はして、
 喪を弔(とぶら)ひ并(あわ)せて物を賜ふ……」
と見えるように、妻は大伴郎女と呼ばれる女性であった。
 妻の死以前に旅人が詠んだ歌は、
実は巻三・315、316の吉野行幸時の一組の長反歌しかない。
妻の死後、「神亀五年六月二十三日」の日付をもつ巻五冒頭の、

  世間(よのなか)は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり  (巻五・793)

を初めとして、堰を切ったように短歌ばかりを詠んでゆくのである。
 なかでも、十数首にわたる旅人の亡妻挽歌は切々として人の心を打つ。
石上堅魚の歌に和(こた)えた旅人の歌は
橘の 花散る里の ほととぎす 片恋しつつ 鳴く日しそ多き
という歌であった。
片恋しつつ鳴くほととぎすは旅人自身の投影であろう。
 天平二年(730)十二月に旅人は帰京する。
赴任する時には妻と共に見た旅の景物を、
ひとり見つつ帰らざるを得ない悲しみを旅人は450など五首の挽歌に残している。

  人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり  (巻三・451)

 帰京後も旅人の悲しみが癒えることはなかった。
   (坂本信幸)
(『NHK日めくり万葉集vol.3』中村勝行編 講談社 2009年)
【「大宰府歌壇」】
 神亀五年(728)、九州大宰府で二つの個性が出会った。
新たに太宰帥(だざいのそち)となった大伴旅人と、
すでに筑前守として赴任していた山上憶良である。
(『NHK日めくり万葉集vol.3』中村勝行編 講談社 2009年)
 旅人は64歳、名門大伴氏の直系に生まれ、順調に出世を重ね、
57歳の時にはすでに従三位、公卿に列していた。
対する憶良はすでに69歳、42歳まで無位だったが、
その年に遣唐使の一員に選ばれ、そこから身を起こして、
ようやく中級官人の最低ライン、従五位下に達してここに至る。
生まれや育ちを全く異にし、その時も大きな身分差がありながら、
深い教養を持つ二人は、漢詩文と歌とを組み合わせ、
融合するという試みをすることで、意気投合したらしい。
 きっかけは、赴任早々、旅人が任地で妻を亡くしたことであった。
深く同情した憶良は、
漢文・漢詩・和歌(『日本挽歌』巻五・794~9)という
三部からなる長大な作品群を製作し、旅人に贈っている。
 憶良は、その後、長歌を中心に、
現実を直視しつつ生きることの意味を模索する作品を作り出し、
一方、旅人は、夢に遊ぶこと、
酒で悲しみを紛らわすことを歌う短歌を残してゆく。
対照的でありながら、基底に、
年老いて僻遠(へきえん)の地にあることの悲哀を含むことで共通もしている。
 その思いは、二人だけでなく、
大宰府の官人たちの多くに共感されるものだった。
創作は、「梅花宴」を開いて、都の風流を追懐したり(巻五・815~46)、
松浦(まつうら)川の神事を仙境に見立ててともに遊んだり(巻五・853~63)と、
集団による詠作へと広がってゆく。
旅人・憶良を中心とするこの約二年半の営みを、
「大宰府歌壇」と呼ぶこともある。
  (鉄野昌弘)
(『NHK日めくり万葉集vol.3』中村勝行編 講談社 2009年)