2019年4月9日火曜日

花冷え…

今朝も青空だけど風が冷たい…
午後になっても風が冷たかったので花冷えかな?

(…略…)  
冴え返る寒さは「春寒」「春寒し」などともいわれる。
サクラの花の咲くころなら「花冷え」、
5月なら「若葉寒(わかばざむ)」である。
春の寒さの戻りをいい表す言葉は外国にもある。
たとえばロシアでは「マハレブ桜冷え」「カシの若葉冷え」、
ポーランドでは「庭師の冬」。
そしてお隣の韓国では「コッセムチュウイ」と呼ぶという。
コッは花、セムはねたみ、チュイは寒さの意味である。
(後略)
(倉嶋厚 )
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
去年の台風で枝が折れた桜
それでも枝垂桜のように花を咲かせています。
リハビリで歩いていて、こんな姿を見ると力をもらえますp(^^)q
一方京都では、
台風で根こそぎ倒れたサクラ満開に”(京都新聞)

台風で横倒しの桜に満開の花 けなげでたくましい姿が話題に」(NHK)
万葉集の歌で好きな歌はと聞かれると大伯皇女(おおくのひめみこ)
弟の大津皇子(おおつのおうじ)を歌った歌です。
二上山(ふたかみやま)を歌った歌が好きで、
よく二上山(にじょうざん)に登っていましたし、
心筋梗塞を発症した日にも二上山に登っていて
その記事をブログにアップしようとしていた時でした。
犬養孝さんの「大津皇子」を転記しますφ(..)
   大津皇子(おおつのおうじ)

 奈良盆地の西側、大阪府との境のところにふたこぶのきれいな山があります。
普通今日では二上山(にじょうざん)と言っております。
昔は二上山(ふたかみやま)と言いました。
その雄岳(おだけ)の山頂に、天武天皇の皇子、
大津皇子のお墓があるんです。
(『万葉の人びと』犬養孝 PHP研究所 昭和53年)
 この頃は、大津皇子があそこに葬られたのは嘘だといって疑う説もありますが、
『万葉集』には、
「葛城(かづらき)の二上山に移し葬(はふ)りし時」
とあるから、
私は二上山に葬られたと思う。
  さて、その大津皇子の悲劇はまことに複雑怪奇で、
到底短い時間にお話しきれることではありません。
そこで、ここでは、

  百伝(ももづた)ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
  今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻三―416)

 この歌を中心にお話しますが、
しかし、一応、大津皇子という方についてお話しておきます。
 天武天皇と奥さんの大田皇女との間には、
姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)、弟の大津皇子が生まれた。
姉の大伯皇女は、西暦661年の新羅征討の時に、
瀬戸内海の岡山県の邑久郡(おほくのこほり 現、おく)のそばで生まれたから大伯皇女といいます。
そして大津皇子は、663年に博多湾岸那(な)の大津(今の博多)で生まれたから大津皇子というわけです。
  近江大津宮に都が移った西暦667年に、
二人のお母さんの大田皇女はお亡くなりになります。
このことはたいへん大事なことなのですね。
なぜかというと、姉七つ、弟五つの時、母親が亡くなったので、
二人は生涯、たいへん仲の良い姉弟となったからです。
 さて、大津皇子は壬申の乱の時には10歳で、
もうすでにお父さんのいくさに参加している。
このことは大津皇子の英雄的な風格を作る上に、
大事な役をなしたと思います。
この壬申の乱が終わって、天武天皇の時代となった。
お姉さんの大伯皇女は、伊勢の皇太神宮の斎宮となって行かれる。
天武天皇の8年5月5日には、天武天皇に、異母兄弟の皇子が多いので、
そのうち主な皇子、草壁・大津・高市・忍壁(おさかべ)の4皇子のほか、
天智天皇の二人の遺児、志貴皇子・川島皇子を加えて、
6皇子を思い出の吉野離宮に連れて行って、
そこで誓盟を立てさせるんです。
「おまえたち、一人でも志の違う者があったら、
 壬申の乱の二の舞になるが、どうだ」
というわけです。
そこでみんな、
「ご安心ください。我々は心をそろえて尽くしますから」
とみなみな誓った。
それで天武天皇もほっと安心された。
 翌、天武天皇の9年、
天武天皇と皇后の鸕野皇女(うののひめみこ)との間に生まれた草壁皇子を皇太子にしました。
ところが、それから2年たった天武天皇の11年に、
大津皇子に〝政司(まつりごと)を執らす〟ということになります。
人間は、煩悩には勝てないのですね。
どうしても、かわいい子とそうでない子ができてしまう。
天武天皇は、大津皇子がかわいくてしようがなかった。
というよりも、大津皇子という人は、
人柄がお父さんに生き写しみたいな人なんじゃないでしょうか。
『日本書紀』と、当時の漢詩集『懐風藻』とに、
大津皇子をたいへんほめて書いてあります。
大ざっぱに言ってみますと、大津皇子は男性的で、頭が良くて、
言葉がハキハキしていて、文が上手で、武が上手、よく剣をうち、
漢詩が盛んになったのは大津皇子から起こるといい、
物にこだわらず、豪放磊落(らいらく)で、人望が高いというのです。
本当にすごい人ですね。
大津皇子はこういう青年です。
そしてこの青年の前に石川郎女(いらつめ)という女性が現れて、
二人は熱烈な恋愛をして、その間にすばらしいいい歌を残しています。
 さて、西暦686年、9月9日に、天武天皇はお亡くなりになる。
そのお亡くなりなる前後に一番心配しているのは皇后の鸕野皇女です。
つまり、草壁皇子のためには大津皇子のようなすぐれた皇子は生かしておいては困るわけですね。
そこに、この悲劇の大きな原因があったのではないでしょうか。
  時に、大津皇子は24歳。
こうしたとき、新羅僧行心(ぎょうしん コウジンと読む説もある)という者が現れます。
この行心というのは、人の骨相をよくみるんです。
彼は大津皇子の骨相を見て、
「あなたは大変な方だ。
 天皇にならなくては、この世に生きてはいられないでしょう」
といって、暗示を与えるんですね。
そこで大津皇子は、
「ようし、俺は天皇にならなければこの世に生きていられない人間なのか!」
というわけで、これから謀反を起こそうとされるわけです。
皇子は、ただ一人の相談相手である姉に会うため、
伊勢へこっそり行かれるんですね。
そして伊勢から帰った来たあとの10月2日、
実は、大津皇子は、親友であった川島皇子という天智天皇の皇子に、
自分が考えていることを全部打ち明けてあったのですが、
その川島皇子が10月2日に、そっくり密告してしまったのです。
そこで皇子はただちに逮捕されて、
翌10月3日に死刑になってしまいます。
その死刑になって殺される前に詠んだ歌が、

 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
 今日のみ見てや 雲隠りなむ


 という歌なのです。
 大津皇子が、磐余(いわれ)の池で涙を流してお作りになった歌だと『万葉集』に書いてある。
その磐余の池というのは、香具山の東北の一帯で、
こんにち、桜井市池之内や池尻という地名がのこっています。
「百伝(ももづた)ふ」というのは「い」の枕詞。
「い」は〝五十〟のこと。
五十鈴川の「い」ですね。
五十はやがて百に伝わる。
そこで「百伝(ももづた)ふ」という。
〝磐余の池で鳴いているところの鴨、
 今日という今日を最後にして、
 自分は死んで行かねばならないか〟
こういう歌なんですね。
  きのうも鳴いていた鴨、おとといも鳴いていた鴨、
それがもう一瞬で見られなくなる。
この場合の鴨は、いわばなつかしい大和平野の象徴であり、
またこの世のすべてのものの象徴みたいなものではなかったでしょうか。
 さて、遠くの方には、二上山が見えている。
大津皇子はまさか自分が殺されて、
あの二上山の上に葬られるであろうとは思わなかったでしょう。
いつも見慣れた二上山も、
これが最後かと思ってこの歌をうたったのだろうと思います。
この歌は人間が殺される最後の最後に、
もうすべてを悟ったというような歌ではないですね。
この歌は少しも悟ってなどいません。
悟ってないけれど、もうを死を覚悟している24歳の青年、
そこにこの歌の、何ともいえない悲愴な響きがありますね。
 さてこの死刑場はどこかというと、
「訳語田(おさだ)の家」といって、
桜井市戒重(かいじゅう)という辺りです。
そこで自ら首をしめられて亡くなったのです。
この皇子には奥さんがいました。
その奥さんというのは、天智天皇の皇女である山辺皇女(やまのべのひめみこ)です。
彼女が夫の死刑を知った時の姿を『日本書紀』では、
「裸足になって、髪を振り乱して死刑場まで走っていって、
 夫の後を追うて死んだ」
と書かれています。
こうして大津皇子は、この世からいなくなりました。
その後お姉さんの大伯皇女は斎宮(さいぐう)をやめられまして、
11月16日に大和へ帰って来ました。
そして、ほんとうにくやしいという心持ちを二首の歌に歌っています。
 大津皇子は殺されました。
ではもう大逆犯人だからと、
その辺に粗末に葬ってしまったかというと、そうではない。
これが鸕野皇女の頭のいいところだと思います。
罪を憎んで人を憎まず、
という形にもっていかなければならなかったのではないかと思います。
そこで、丁寧に葬るわけです。
すなわちこれから少なくとも三ヵ月は、
殯宮(あらきのみや)の儀が行われたのではないかと思います。
なぜかといえば、
「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし」
という言葉が『万葉集』に出ています。
これは恐らく、殯(もがり 埋葬までの間、死体を安置して種々の儀礼を行うこと)、
殯宮の儀から二上山の山頂に本葬した時のことをいうのではないかと思います。
その時、お姉さんが詠んだ歌というのがある。
その中に、馬酔木(あしび)の花の歌が出ています。
馬酔木はやはり、旧暦の1月でなければ咲かないから、
私はこれは殯宮の儀を丁寧にやり、
そのころ二上山に葬ったのだと思います
なぜ、二上山に葬られたのかは、わかりませんが、
それは敬して遠ざける(敬遠)ためだと思うのです。
この二上山に移葬した時に、お姉さんの詠んだ歌、

  うつそみの 人にあるわれや 明日よりは
  二上山を 弟世(いろせ)とわが見む (巻二―165)

〝もうあきらめている、
 弟とは幽明境(ゆうめいさかい)を異(こと)にしている。
 生き身の人間である私は〟
と、こういっている。
〝でもあきらめきれない。
 明日からはせめてあの二上山を弟と思って眺めよう〟
弟世(いろせ)というのは、血を分けた兄弟、
弟のこと、弟と思って眺めようというのです。
このような実に愛情のこもった、
そして悲痛な歌をうたっているんです。
 大津皇子の事件はこれで終わっているわけですが、
振り返ってみますと、やはりこれは陰謀に乗せられたのではないでしょうか。
律令国家建設途上の一つの悲劇といえましょう。
けれどもこのことに関連してつくられた歌は、
どの歌もまさに一流中の一流の歌です。
読んでみると、日本の言葉のすばらしさということをしみじみ思いますね。
そして日本の言葉に対する信頼感を、
ひとしお感じさせてくれるような歌ばかりです。
そして、どうでしょう。
24歳の大津皇子の霊魂は、あの吹きさらしの山頂で、
いつまでも休まることができないと思う。
その証拠には、今日この話を知っているすべての人の胸の中に、
大津皇子の亡き御霊は今も生きているのではないでしょうか。
大和へ来た青年諸君がまず何と言うでしょう、
「二上山はどれですか」とまず聞かれますね、
ということは、24歳で非業の死を遂げた、
しかもすばらしい歌を残している、
その大津皇子の霊魂が、
人々の胸にそれぞれ生きているからではないでしょうか。
(『万葉の人びと』犬養孝 PHP研究所 昭和53年)