2019年4月2日火曜日

青空が広がっていて

今朝は、真っ青な空が広がっていて
1時間ほどしか歩いていませんが
雲を見たのはこの雲だけでした。
午後近くになって昨日のように天気が怪しくなった…
冬に逆戻りですね…
元号が「令和」と発表されて
初めて国書から引用されたと報じられています。
でも、文学部や教養課程不要論などが言われている日本では
将来、元号にもキラキラネームが登場するでしょうね。
(別に悪いとは思いませんが(^_-)-☆)
今までにも大伴旅人の歌は紹介していますが
旅人は神亀4(727)年頃、63歳で大宰府に赴任しています。
旅人の歌で好きなのは妻を偲ぶ歌です。
   神亀(じんき)五年戊辰(ぼしん)
   太宰帥(だざいのそち)大伴卿(おおともきやう)
   故人(こじん)を思(しの)ひ恋ふる歌三首(一首抄出)
(うつくしき 人(ひと)のまきてし しきたへの 吾(あ)が手枕(たまくら)を まく人(ひと)あらめや (巻三・438)

  天平(てんぴやう)二年庚午(かうご)の冬十二月、
  太宰帥大伴卿、
  京(みやこ)に向かひて道に上(のぼ)る時に作る歌五首(一首抄出)
吾妹子(わぎもこ)が 見(み)し鞆(とも)の浦の むろの木(き)は 常世(とこよ)にあれど 見し人そなき (446)


  故郷(こきやう)の家に還(かへ)り入りて、
  即(すなは)ち作る歌三首 (一首抄出)
(ひと)もなき 空(むな)しき家(いへ)は 草枕(くさまくら) 旅(たび)にまさりて 苦しかりけり (451)
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
   歌 意
いとしい人が枕にした(しきたへの)私の腕を枕にする人があろうか。(438)

我が妻が見た鞆の浦のむろの木は変わらずにあるが、それを見た人はもういない。 (446)

人もいないがらんとした家は、(草枕)旅にまさって苦しいものだったなあ。 (451)
   《鑑 賞
 大伴旅人の妻大伴郎女(おおとものいらつめ)が大宰府で亡くなったのは、
赴任後数カ月たった神亀5(728)年初夏の頃だったらしい。
山上憶良の「日本挽歌」がその死を悼んだ作だとすれば、
彼女は楝(おうち センダン)の花を見て亡くなったのである(巻五・798)。
勅使石上堅魚(いそのかみのかつお)による弔問の儀が終わった後、
記夷(きい)城(大宰府の南方の山)での遊覧で、
旅人は、散ってゆく橘を慕って鳴く霍公鳥(ほととぎす)に身をなして、
亡妻の悲しみを歌っている(巻八・1472)。
438歌は、妻の死から数十日を経て作ったと左注に記すので、
なおしばらく後の作となろうか。
「枕(ま)く」という語の反復は、
まだ妻の体温の記憶が濃厚に残っていることを感じさせる。
題詞に「故人を思ひ恋ふる」とあるように、
他の挽歌と大きく異なって、
一見、愛を誓う相聞歌のようにも見える。
しかし「まきてし」という回想、
「まく人あらめや」という反語による強い否定に、
妻の死の不可逆に対する深い嗟嘆(さたん)が読み取れよう。
 なお題詞に「三首」とあるが、神亀5年の作は当該歌のみで、
他の二首は、左注によれば、
天平2年、大納言となって京へ向かおうとする時の歌である。
439歌
(かへ)るべく 時(とき)はなりけり 都(みやこ)にて 誰(た)が手本(たもと)をか (わ)が枕(まくら)かむ
(帰京すべき時になった。都でいったい誰の腕を枕にすればよいのか)
と当該歌との強いつながりが、二年の歳月を超えて同じ題詞下に収めたのであろう。
ただそのために、出立に際しての二首と、
道中や帰京後の歌とは、時間的に連続しながら、
天平元年に横死した長屋王を悼む歌などで分断される結果となった。
 道中の作は、鞆の浦(現在の福山市鞆町)での三首と、
敏馬(みぬめ)の崎(神戸市灘区)での二首からなる。
446歌は鞆の浦三首の冒頭。
「むろの木」は、今も備後地方でモロギと呼ばれるている杜松(ねず)だとも、
高さ30メートルにもなるイブキ(柏槙 びゃくしん)だとも言う。
いずれにしろ旅人は、その木に「常世」に相応しい年月と聖性とを感じているのであろう。
原文「天木香樹」も、神仙世界を連想させる。
鞆の浦第三首(448)には
(いそ)の上(うへ)に 根延(ねば)ふむろの木(き) 見し人を いづらと問(と)はば 語(かた)り告(つ)げむか
(磯の上に根を伸ばすむろの木よ。おまえを見たあの人がどこにいるのかと尋ねたら教えてくれるだろうか)と歌ってもいた。
当該歌は、そうした聖なる樹木の永遠と、
それを見た妻の不在とを対照させる。
植物を見ることは、その生命力で、
自己の生命を賦活しようとすることでもあった。
その願いは空しく、自然と人間とは、
同じ時間の中にありながら、乖離してゆく。
その構成は、人麻呂「泣血哀慟歌」の
去年(こぞ)見てし 秋の月夜(つくよ)は 照(て)らせども 相見(あひみ)し妹(いも)は いや年離(としさか)」(巻二・211)に通じよう。
  451歌は、帰宅しての詠三首の冒頭。
家と旅とを対比させるのは、羈旅歌(きりょか)の類型である。
家は建物ではなく、家族のいる所、また自分のいるべき所の意。
旅人にとって、そこは慕わしい場所である。
当該歌はそれを逆にして、妻のいない家は旅よりも苦しかったと歌う。
 「吾妹子(わぎもこ)が 植ゑし梅の木 見るごとに 心むせつつ 涙し流る」(第三首 453)。
家のそこかしこに残る妻の記憶が、旅人を苛(さいな)むのである。
しかしそれはすでに京に出立した時に予想したことであった。
(みやこ)なる 荒(あ)れたる家(いへ)に ひとり寝(ね)ば 旅にまさりて 苦しかるべし」(440)
 伊藤佐千夫は、「むろの木」に絞って歌う鞆の浦三首を、万葉集中随一の連作と述べた。
しかしそれにとどまらず、旅人の亡妻挽歌は、
11首全体が、緩やかな連関をもってつながれている。
時を経て変わる、あるいは変わらない情をつづってゆくことは、
長男家持の所謂「歌日誌」にも通ずる方法として、注目されよう。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
  梅花の歌三十二首 幷(あは)せて序(一首抄出 序略)
わが園(その)に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より 雪の 流れ来るかも (巻五・822)
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
   歌 意
我が園に梅の花が散る。(ひさかたの)天から雪が流れてきたのだろうか。
   鑑 賞
「梅花歌三十二首」の中の一首。
冒頭の序に、天平二(730)年正月十三日、
旅人邸における宴の歌と記す(当該歌の作者名は「主人」)。
その序の文言や構成から、この趣向が、
(しん)の王義之(おうぎし)の蘭亭(らんてい)集序や、
それを追う王勃(おうぼつ)ら初唐詩人の詩序に倣うことが知られる。
当該歌の梅花と雪の見立ては、
旅人自身の「初春侍宴」詩(懐風藻)の「梅雪残岸に乱れ」にも見える。
また「雪の流れ来るかも」は、詩語「流雪」を翻読した表現。
さらには、この見立てが、楽府(がふ)「梅花落」に通ずることにも注意される。
寒中に独り咲く梅を歌う「梅花落」は、六朝・初唐詩人によって、
北方の辺地に遠征した夫を思う妻の情、
またその男の望郷の念など、様々に変奏された。
それを踏まえつつ、海彼(かいひ)の文雅(ぶんが)に倣って遊ぶことは、
大宰府官人たちの京への憧れと疎外感を、表現し、かつ慰撫する試みだったと思われる。
旅人の意図は、宴の参加者全員には理解されなかったかも知れないが、
「員外(ゐんぐわい)故郷(ふるさと)を思ふ歌」(847~848)へと連続する構成に、それは明らかであろう。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)