2022年1月6日木曜日

雪が降っていたけど…

歩き出したときは小雨。
しばらくすると雪が降り出した。
大阪は、ちらつく程度だったけど…

関東南部や東海 夜遅くにかけて雪や雨 積雪も 交通影響に注意」(NHK)
ヤブツバキの花から蜜が流れ出していました。
以前、ちょっとなめたことがあるけどほんのりと甘味を感じました。
メジロたちの越冬のためのエネルギー源になっているp(^^)q

サザンカとツバキの花粉媒介者はだれですか」(日本植物生理学会)
沖縄県 新型コロナ 6日の感染確認 過去最多980人前後の見通し」(NHK)

Shoko EgawaさんのTwitterに

沖縄は、本当に気の毒でならない。
水際対策と言いながら、米軍に関する対策が遅れた国の責任は大きい。
政府は全力で支援すべき。
今朝の朝日新聞の「天声人語」

 在日米軍という存在が、日本政府や自治体の手の届かないところにある。
そう痛感させた出来事の一つが、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落だった。
2004年、大学本館に激突して炎上し、地元の消防がかけつけた。
しかし火を消し止めた後、現場から締め出されてしまう。
▼米軍が黄色いテープを張りめぐらし、消防だけでなく警察にも現場検証を許さなかった。
中に入れたのはピザの配達ぐらい。
そんな理不尽さを許したのが日米地位協定である。
米軍の特権を認めるこの協定は、オミクロン株の抜け穴にもなったようだ。
▼日本政府はこの1カ月余り、外国人の新規入国を停止するなど水際対策を強めてきた。
しかし米軍関係者は地位協定により例外扱いで、米本土から直接、基地に入ることができる。
基地の中では年末から集団感染が起きていた。
▼それがオミクロン株かどうかの検査をさせてほしいという沖縄県の申し出も、個人情報保護を理由に断られた。
そうこうするうちに県内に感染が拡大し、政府はまん延防止等重点措置を使わざるを得なくなった。
▼水際対策は時間をかせぎ、医療体制などを整えるための手立てである。
そこに政府のコントロールの及ばない部分があることは、明らかに検疫体制の欠陥だろう。
しわ寄せは、基地のある地域を直撃する。
▼玉城デニー知事が指摘する通り「構造的な問題」だが、そこに切り込む姿勢は日米双方とも見られない。
当局者たちの頭の中に、黄色いテープが張られているのだろうか。
 2022.01.06
朝日新聞「折々のことば」 鷲田清一(2022.01.06)

 ヒューマニズムは、自分と関係のない場合にだけ、熱く語られる  (山田詠美)

 両親による幼子の痛ましいばかりの虐待に、人は悲嘆の声を上げる。
一方で、都内一等地での児童相談所の建設に、街のブランドが損なわれると猛反対する人もいる。
問題が自分に直(じか)に降りかかってくると、途端に他者への思いやりを失(な)くしてしまうと作家はため息をつく。
「他人に想像力を働かせれば、自分にも働かせてもらえる」のにと。
随想集『吉祥寺ドリーミン』から。
(「住宅顕信解説 池端秀一」つづき)

 香川県坂出市の鉄工場を経営していた松本久二氏、当時層雲の印刷を担当していた大阪の菅崎道雄氏、市バスの運転手をしていた下村鳴川氏。
彼等は句歴の長い層雲同人で顕信を何度も見舞い励まし続けたり、資料提供などの労を惜しまなかった。
松本氏も菅崎氏も今は故人となられた。
鳴川氏は現在の層雲事務室を担当なさっている。
 橋本あさみどりさん。
彼女は当時離婚したり、最愛の弟を亡くしたりして苦悩の中で『海市』に投句していて顕信の俳句に共感し、昭和61年8月に一度見舞っている。
(『住宅顕信 句集 未完成』春陽堂書店 2003年)
 北九州市の田中信一氏。
顕信とは僅か二回会っただけだが、一泊二日が二回なのでかなり長時間にわたって話し込んだ。
昭和60年に顕信が自費出版した句集『試作帳』に感動して顕信に会ったのだという。
十二歳も年下の顕信と会って、強烈な印を受けた。
「この男は身体は病んどるが、心は病んどらん。むしろ人間的に、精神的に自分の方がよっぽど病んどる」と思った。
自分の悩みを真正面から顕信にぶつけた。
顕信はそれに対して、一喝したり、励ましたりしている。
田中氏への手紙には顕信が病いの身体をおして、心をこめて書いた内容のあるものが残っている。
顕信はその田中氏に「僕が死んだら、小さくてもいい、ひとつ句碑をお願いします」と頼んでいる。
 そのことを顕信の葬儀のあと一幸氏、鳴川氏との小宴の席で聞いた。
それなら七回忌までに岡山市のどこかに建立しようということに決定したのだった。
また「もろうて来たったい」と、顕信の骨の入ったビニール袋を取り出したのには、皆度肝をぬかれたものだ。
 田中氏はその後、年に一度の『層雲全国大会』の宴会の席で菓子箱をまわし「顕信句碑のためのカンパ」をして何度も私のところまで届けてくれた。
「宴会の席なんかでそんなことをしないで欲しい」ときつく言ったものの、その心が嬉しかった。
一緒にどこに句碑を建てようかと岡山市のあちこち見て回ったこともあった。
田中氏にせきたてられなかったら、七回忌に句碑が間に合っていたかどうかわからない。
困った男ではあるが、その一途さに何度も心打たれた。
 先日久しぶりに田中氏に会ったとき、聞いたのだが、電話で田中氏が顕信にどの句を句碑にしようかと尋ねたところ、長い沈黙の後、顕信が「僕にはこれだという句がまだないのですよ。この一句というものが欲しい」と言ったという。
 その他、書ききれないほどの俳句仲間との交流があった。
自由律俳句の人は面白く親切な人が多いなと感心したものだ。
顕信死後、全ての人と会うことが出来た。
その中の幾人かは、今ではかけがえのない私の友人となっている。
(『住宅顕信 句集 未完成』春陽堂書店 2003年)

つづく…