2022年1月20日木曜日

大寒

暗い空で風が強く寒さが身に沁みました…
今日は大寒…
俵万智さんのTwitterに(1月19日)

明日は二十四節気の大寒。
息子に離乳食をはじめたのも、こんな寒い季節だった。

大寒の朝のスプーンのひいやりと
みどりごが飲むりんごの果汁

機嫌のいい母でありたし
無農薬リンゴひとかけ
摺りおろす朝

記憶には残らぬ今日を生きている
子にふくませる一匙の粥
(かゆ)
  寒

「光の季節」と「気温の季節」の歩みは、年に二回、大きくたもとを分かつ。
それは冬至と夏至である。
夏至以後は光の変化は日一日と冬に向かうのに、暑さの方はそれ以後が本番である。
だから二十四節気でも、夏至の後に小暑(7月7日)、大暑(7月23日)という「暑」の期間を作っている。
同じように冬至が過ぎると、太陽は夏に向かうのに、寒さはいよいよきびしくなる。
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
 昔から「冬至、冬なか、冬はじめ」といわれ、二十四節気では冬至の後に小寒(1月5日)、大寒(1月21日)があり、小寒から立春前日(節分)までが「寒の内」である。
ただし「寒の内」に対応する「暑の内」という言葉は使われないで、むしろ「土用」の方が人々になじまれている。
しかし暑中見舞いは、寒中見舞いより一般的である。
寒中見舞いは、年賀の直後だからあまり行われず、時おり年賀欠礼した人たちから、「寒中お見舞い申し上げます」などという便りがとどく。
そして「暑中御見舞い」が、立秋(8月8日)から「残暑御見舞い」とかわるように、立春(2月5日)以後の寒さは「余寒」「残る寒さ」にかわる。
 しかしその残暑も余寒も「残り」とか「余り」と呼ぶのにはひどくきびしすぎる。
気象台の記録で、これまでの日本の最低気温のレコードを第5位まであげてみたのが次のページの表(省略)で、いずれも北海道である。
また明治35年1月25日~26日の最低気温が1位、2位3位を占めている。
このときの寒波は、日本陸軍の有名な八甲田山の悲劇を起こしている。
この年の1月23日に、青森歩兵連隊の一大隊220名が、八甲田越えの雪中行軍しているうちに、吹雪におそわれ、12名を残して他は全部、凍死してしまったのであるが、遭難は1月24日~25日を中心に起こっている。
なお気象庁の区内観測所の記録では、昭和6年1月27日の北海道の美深で氷点下41.5度をはじめ、氷点下40度以下の気温観測が、数例ある。
そして、これらはみな北海道の上川、空知の地域である。
このあたりは、日本の「寒極」といえよう。
(後略)
   倉嶋 厚
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
(「解説 杉浦日向子『合葬』を読む 小沢信男」つづき)


 太平洋戦争末期、勤労動員世代の私どもは工場に通っていました。
おなじ動員仲間の女学生とほのかに仲よくなった幸運児もいたし、大本営発表のインチキを嗤って分析する秀才もいたし、特攻要員の予科練へさっさと入った暴れ者もいたし。
どのみちいずれ死ぬのだろうことに半ばおびえながら、日々を明るく過ごしていたのでありました。
(『合葬』杉浦日向子 ちくま文庫 1987年)
 たまたま陣中へ戻ったばかりに、官軍の包囲下に一緒に閉ざされた少年。
有為多感の彼が、なぜこうあっさり諦めたか。
ここらがおそらく本篇の鍵ではないでしょうか。
 包囲されたとはいえ、天野八郎はじめ幹部たちは大方ちゃんと落ちのびているのだし。
仲には内田魯庵の父のように戦端ひらくと聞くや上野山中へかけ入り、東照宮の御神体をかかえて退散し、数日後に百姓姿で帰宅した、という例さえあります。
大人たちは出処進退の心得、つまりは要領がある。
 それにひきかえ少年たちは、時代の狭間(はざま)に身動きもつかず挟まれる。
そのひとつのシンボルとして彼はうつせみの命を上野山中に散らすのです。
為すべき洋々たる未来を望む大局観をあたら抱きながら。
 戦無派の作者にどうしてこういうテーマが、と怪訝なくらいですが。
「職掌を尽くして死を潔くせよ」などとぬけぬけ言う指導者は、思えばいつの時代も絶えぬものだし。
今日の管理社会の若者たちの挟まれ方もよほど強烈だろうし。
作者は虚実皮膜の間を暢達に遊んで、人生の門口における一種の普遍性に届いたのでありましょう。
 ともあれ彰義隊を描いて、この一篇のフィクションが捉えた哀切は、類書多数にぬきんでて鮮烈であることを、はばかりながら保証します。
 おわりに、上野戦争の現存の遺跡を二三紹介するならば、上野公園内の両大師のならびの寛永寺旧本坊表門に、当時の弾痕が大小いくつも空いております。
谷中へゆけば、経王寺の山門、大雄寺の椎の木にも弾痕がみえます。
東日暮里の羽二重団子の店内には、たぶん幕軍の焼玉らしき砲丸が飾ってあります。
 なお公園内の清水堂下の黒門は、20年ほど前の新造で、弾痕のようなものはドリルであけたニセモノにつきご注意を。
当時の弾痕だらけの黒門は南千住円通寺に移され、ぼろぼろに朽ちかけていたが、つい先ごろ新品同様に修繕してしまいました。
 御徒町の下谷電報電話局の屋上にも彰義隊士の墓があります。
この局は明治後期に開局し、大正13年に新館増設工事をはじめたが、地中から人骨と刀の鍔などが出て、以来人身事故がつづき、それが奇妙に17日で、また宿直員が馬の嘶きをきいたり主従の亡霊をみたり。
そこで委細に調べたら、ここは御徒士組の藤田某の屋敷跡で、負けて山から逃げ戻っていたのを二日後に残党狩りで郎党と馬もろとも焼打ちで殺された、ということが判明。
あつく法事を営んで、以後順調に工事完了したといいます。
命日の17日にはいまも局員が花と線香をあげております。
大正の頃までは怨霊もまだ生き生きしていたわけです。
 じつは筆者居住の大塚の路地の脇にも、彰義隊士慰霊の観音像が佇んでおります。
十余年前に表通りへマンションを建設するので掘り返したら、人骨が二人分ほど出てしまい、労災もやっぱりあったりして、これも彰義隊残党とみなされたのでした。
 都合のいい処理の仕方という気もしますが、ここらは川越街道筋だし、本篇の少年が切腹した納屋の同類が、ここにもあったとしてもふしぎはないでしょう。
 近年はこんな噂が全く聞かぬのが、むしろふしぎなくらいです。
ビルひとつ建たぬ日はないのに。
狂乱地価の昨今は、彰義隊士もナウマン象の牙も一切かまわず埋立地へ捨てているのではあるまいか。
 では彼らは浮かばれないか。
いや、だから本篇が現れて、百二十年前の少年戦士たちの魂魄を一種の普遍性へ救済しているのでしょう。
すなわち題して〝合葬〟です。
(『合葬』杉浦日向子 ちくま文庫 1987年)
今朝の父の一枚です(^^)v
立派なネクタイをしているシジュウカラ

帰ってきて画像を編集しようとすると画像編集ソフトが壊れたとのメッセージ(-_-;)
アイコンをクリックしてもすぐに消える…
再インストールをしないといけないのかな?と
その前にCドライブのエラーチャックをするとエラーがみつかる
再起動してしばらく待つと画像編集ソフトが起動した(^^)v
喜んだのもつかの間…
食後、録画していた番組をダビングしようとすると最後にエラー…(-_-;)
クリーニングをしてもだめ(T_T)
仕方がないので電気店に行ってレコーダーを取り寄せてもらうことにしました。
ダビングしたかった番組は

クローズアップ現代+
茨木のり子 “個”として美しく~発見された肉声~」(見逃し配信:1月26日まで

(茨木のり子さんの言葉)
韓国のことわざで美しいなというのはですね
行く言葉が美しくてこそ 返る言葉も美しい
というのがあるんですね
自分がしゃべる言葉が美しい言葉であれば
相手からもまたきれいな言葉が返ってくるという
これなんか本当に好きですけどね

茨木さんと親交のあったホン・ユンスク(洪允淑)さんの詩

 地上に残るもう一つの物語      

心の翼をうけて海を渡る
“あの人の棲む国”
言葉と風習が異なり
国と国は解くべき
悩みも多々あり
幼き日の数々の傷の記憶も
鮮やかだけど
ふたりには同じ空があり
同じ太陽を仰ぎ見る


最後に梯久美子さんが解説されていました。
茨木さんの取材されているとのこと、本になったらいいなぁ

人生を変える“言葉” 韓国で出会った茨木のり子」(NHK 12月28日)

番組の中で翻訳家のチョン・スユンさんが出ておられました。
今読んでいる『言の葉の森 日本の恋の歌』をいつか紹介できたらなと思っています。