2022年1月13日木曜日

雲の流れがはやい

雲の流れがはやく寒かったです
寒さは、まだまだ続きそう…

朝日新聞1月12日の朝刊「 キュー 穏やかで知的 名著めぐる議論」 

前略

 論客たちの名著分析はもちろんだが、それよりも各自が意見を戦わせることでさらに視界が開けていく感じがするのがよかった。
ヴァージニア・ウルフと大杉栄は同じことを言っていたとか、ひとつの言説の普遍性とか。
これは人選した製作者の眼力だと思うが、4人の論者たちの相性がよかったのだ。
攻撃的な論者は1人もいなくて、互いを尊重し、言葉を大事にして、明晰(めいせき)な議論が穏やかな雰囲気の中で進んでいく。
時折、高橋源一郎氏のおばあさんのいとこが甘粕大尉だったとか、小川公代氏が「自分に目覚めた時」を語るとか個人的なエピソードがこぼれるのも、視聴するぜいたくさを増した。
一方的に自分の考えを押しつけるコメンテーターを目にすることが多いので、論者たちの知的な振る舞いがこのテーマを語るにふさわしい尊いものとして映った。
  (ライター・島崎今日子)
 国立公文書館のTwitterに

建久10年/正治元年1月13日(1199年2月9日)、源頼朝が没しました。
前年の落馬が原因とされますが、『保暦間記』は安徳天皇の怨霊の仕業と述べています。
大河ドラマ
 #鎌倉殿の13人 では #大泉洋 さん演じる頼朝の最期はどう描かれるのでしょうか。
画像紅葉山文庫旧蔵書より。
 Miho Nonaka 野中美峰さんのTwitterに

アメリカで『枕草子』を教えていて辛いのは、とても分かりやすい英訳のせいか、
「何のかんの言ったって、これってただのブログじゃん」と学生たちに思われてしまうこと。


返信のなかで『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』を紹介している方がいました。
私もミア・カンキマキさんのおかげで清少納言について思い違いしていたと気がつきました。
また後日、紹介したいなと思います。
イスラム教について井筒俊彦氏の訳『コーラン』の解説を一部転記します( ..)φ
イスラム教について知る機会が少ないのですが、井筒氏の本を読んでいると誤解していたなと思います。

解説
 (前略)

 一 メッカとメディナ


 『コーラン』の啓示はメッカとメディナの二つの邑(まち)を中心として展開する。
これら二つの邑について、ある程度の予備知識がないと、『コーラン』の背景が全然わからないわけである。
 まず附図(P365 省略)によって、アラビア半島の略図を一瞥して戴きたい。
と言ってもさしあたり我々に直接関係があるのは半島の西側、紅海をへだててエジプトおよびエチオピアと相対する海岸沿いの一帯だけである。
 紅海に沿うこの長細い地域の南が古来「幸福なアラビア」の名で知られたイェメン、そこから北に向ってシナイ半島までがヒジャーズ。
問題のメッカとメディナは共にヒジャーズにある。
(『コーラン(下)』井筒俊彦訳 岩波文庫 1958年 1964年改版)
 さて、今度はもう少し視野を拡げてアラビア半島そのものを古代東洋全体の中に観察して見ると、このアラビアの西海岸のもっていた非常に多きな経済的重要性がわかって来る。
当時、ペルシア、バビロニア、シリア、エチオピア、インドなど代表的東方諸大国の間で盛んに交易が行われたいたことは周知の通りだが、その国際貿易の通路として一番大切な役割を果たしていたのが紅海に沿うこの西アラビアの陸地帯だったのである。
南アラビアの香料、皮革、貴金属、エチオピアの奴隷、シリアの刀剣、織物、油、アフリカの砂金、象牙、中国の絹など貴重な品物が隊商(キャラヴァン)に運ばれてこの地を南北に通った。
こういう国際貿易の中間市場として、西アラビアのキャラヴァン道のほとりに幾つかの邑が興り栄えた。
中でも最も強力だったのがメッカである。
メッカの商業、つまりその経済力は、この邑の主要住民であるクライシュという部族に完全に掌握されていた。
クライシュ族はいわばアラビア人きっての名門であり、大金持であり、商売については他の追従を許さぬ才能と、それを裏打ちするに足る烈しい欲望、現世的野心をもっていた。
このことは『コーラン』の至るところで、嚙むような皮肉とともに言及されている。
 メッカの群を抜く繁栄はクライシュ族の商才からだけ来るものではなかった。
メッカには「ザムザムの井戸」と呼ばれる名高い水場(みずば)があり、かつ邑の中心にはカアバと呼ばれる偶像教の大神殿があって、これらが相い寄ってこの邑をいやが上にも全北アラビアの中心地に仕立てあげたのである。
 水場(みずば)―― 一年中の大部分かさかさに乾燥しきってしまうアラビアで、湧き出す清水の有難さがどれほどのものであるか、それはもう言わずと知れている。
『コーラン』の本文を通読された方は、天上の楽園に「潺々(せんせん)と河川流れ」「こんこんと泉が湧く」ことが、まるで口癖のように繰り返し繰り返し謳われていることに気づかれたであろう。
あれは決してただの文飾ではない。
本当にそれこそアラビア人の理想郷なのである。
メッカのクライシュ族は数少ない水場の、しかもその最も重要なものを支配していた。
渇き切った隊商の人も動物も、この地を避けて通ることは絶対にできなかった。
 次にカアバの神殿。
今日、この神殿こそ全世界の回教徒の信仰の中心点として、いわば回教の総本山のようなものであるが、マホメット以前には邪宗の総本山だった。
アラビアの伝説によると人類の始祖アダムその人が在天の原型を模して造築したとも言い、また『コーラン』によると北アラビア人の遠祖アブラハムによって礎石を置かれたものとも言う(上巻、38頁参照)が、歴史的にはさきに述べた「神のお宿」つまり聖石の崇拝を中心として出来上った神殿であろう。
いずれにしてもマホメットが出現する百年前、西暦6世紀頃には既にクライシュ族が「カアバの守護役」という資格で、完全にその祭祀を一手に握っていた。
 この神殿に祀られていた偶像の数は数百にのぼったと伝えられている。
それほどの数があったか否かは別として、とにかくあらゆる部族がそれぞれ自分の信奉する偶像をここに安置していた。
だからこの神殿は年に一度、全アラビア部族あげての集会所だったのである。
あくまで部族を中心として「部族の中に、部族のために」生活するアラビア人が、ここでだけは一つの民族だった。
このようなことはメッカ以外のところでは絶対に考えられなかった。
だからこそメッカは政治的にも経済的にも、他に比類のない位置を保ち得たのである。
一年中の大半は互いに襲い襲われる掠奪のあけくれであったが、ただ「神聖月」(上巻、61頁、307頁、その他)という名で知られる神殿巡礼の時期だけは、あらゆる戦闘行為が宗教的に禁制で、どんな乱暴者もこのタブーばかりは破ろうとはしなかった。
北アラビアの隅々から続々と巡礼や参詣の団体が集まって来て神殿のまわりにテントを張り、普段は仇敵の間がらにある部族同士がこの時ばかりは親友としてつき合った。
砂漠のベドウィンもメッカに定住するブルジョワと仲よしになった。
年に一度の大市(おおいち)が立ち、群衆の雑沓のさなかに異部族の若い男女の恋が芽生えた。
古代アラビアの抒情詩は、この限られた僅かな時日の間燃え上がる激しい恋の歓びと、やがて束の間の快楽のあと、神聖月の終りと共に遠く互いに別れて行く別離の悲しさを唄っている。
 メッカの邑の繁栄と、クライシュ族の経済的勢力は、およそこのような特殊な事情によって裏づけられたものであった。
この神殿カアバの祭祀を彼らの手から奪取し、はっきり社会主義的な政策を打ち出すことによって富裕階級としての彼らの地盤をあやうくしようとしたマホメットの活動に、クライシュ族が部族の生死を賭けて反抗したのも、こう考えて見れば至極当然のことと言わねばならない。
 次にメディナ、その本当の名はヤスリブと言い、メディナ(より正しくはマディーナ)とは「都」の意、つまり「預言者(マホメット)の都」の意であって、これはマホメットがこの邑に移ってから後に新しくできた呼び名である。
地図に見られる通り、メディナはメッカの北方、歩いて約二日の行程のところに位置し、附近に本文にも盛んに出て来た有名な戦場のウフドの山があり、また海岸寄りにバドルの戦場がある。
 メディナの邑はメッカより地味は肥え、また同じく国際的交易路上にあって重要な位置を占めてはいたが、なんと言っても上述のような特殊な背景をもたぬこととてその経済的勢力はメッカに劣っていた。
しかし、宗教的見地から見て、この邑にはメッカにはない一つの大きな特徴があった。
それは濃厚なユダヤ的色彩である。
 メディナという邑は、地図の上でこそメッカのすぐそばであるが、その性格はあらゆる点でメッカときわだった対立を示していた。
メッカの住民であるクライシュ族はニザール族という代表的北アラビア人の一分派である。
ところがメディナのアラビア人は同じアラビア人と言ってもイェメン人、つまり南アラビア人である。
次にメッカの支配権は完全に純粋アラビア人の手に独占されていて、そこに他人の入りこむ隙など微塵もなかったが、メディナでは富裕階級は全部ユダヤ人であった。
ユダヤ人が完璧に組織化されたその経済的勢力によってメディナを支配していた。
従って、これは当然の結果であるが、メッカが偶像崇拝の一大中心地であるに反して、メディナは旧約的な一神教の雰囲気に包まれていた。
万有を無から創り出した創造主とか、唯一無二の神とか、啓示、とか聖典とか、そういう啓示宗教特有の概念は、メッカでこそ珍奇な、というよりいかにもうさん臭い考えであったが、メディナではむしろ常識であった。
このことが、マホメットの宗教的発展の上に、どんな重大な意義をもったかということは、中巻の解説でやや詳しく書いておいた。
いずれにしても、『コーラン』を通読する人は、マホメットの宗教活動の前半はメッカで、後半はメディナで、つまり簡単に言えば二つのまるで違った世界で展開されたものであることをいつも意識している必要があろう。
(『コーラン(下)』井筒俊彦訳 岩波文庫 1958年 1964年改版)

つづく…
今朝の父の一枚です(^^)v
マガモたちも寒い風に首をすくめていたました(*´▽`*)

アライグマが出没しているとの注意書きがありました。
よく話しをする方もアライグマを目撃したそうです。
かなり大きなアライグマだったそうで、
飼い主が手に負えなくなって捨てたんだろうと話していました。
噛まれると狂犬病などにかかる可能性もあるので、目撃しても近づかない方がいいです。

アライグマ回虫による幼虫移行症とは」(国立感染症研究所)