2022年1月16日日曜日

霜が降りた朝は…

霜が降りた朝は、指先が痛くなるほどですが
風がなく歩いていると暖かくなります。
今年の受験生は可哀想ですね…
新型コロナの感染拡大だけでなく、昨日は、無差別に切りつけられる事件
今朝は津波警報・注意報が出ていた。

大学入学共通テスト 県立大宮古短期大学部は試験取りやめ」(岩手NHK)

各地の津波観測情報 奄美大島と岩手では1メートル超の津波観測」(NHK)

日本への津波 専門家「噴火に伴う空気の振動“空振”原因か」〟(NHK)

父が徳之島で浜を歩いていた時に膝下程の津波でひっくり返ったそうです。
津波は、高さが低くても油断できません。
父の話をもとにネットで検索するとチリ地震(1960年5月24日)の津波のようです。
過去の地震・津波被害」(名瀬測候所)
トンガ 現地被害は不明 大規模噴火でネットや電話つながらず」(NHK)
遠く離れた日本でも津波の被害が出るほどなのですから、現地の人々の無事を祈るばかりです。

小笠原諸島の海底火山「福徳岡ノ場」から発生した大量の軽石でも大きな被害が出ています。
第2章プレート運動と活断層
 ◆コラム 伊豆半島は南の島だった


 日本列島を取り囲むプレートをみると、本州の中で伊豆半島だけがフィリピン海プレートにのっています(本章扉絵を参照<省略>)。
伊豆半島は、もとから日本列島の一部ではありません。
かつては南の海にあった海底火山の集りでした。
(『地震はなぜ起きる?』鎌田浩毅 岩波ジュニアスタートブックス 2021年)
 伊豆半島は約2000万年前に誕生した海底火山の集まりです。
海底火山が誕生したころは本州から400㎞以上も南へ離れていました。
しかし伊豆半島ののるフィリピン海プレートが、本州ののるユーラシアプレートの下にしずみこみ、北上しました。
すなわち、海底で火山活動をくり返しながら、移動の途中で一部は海の上に顔を出す火山島になったのです。
 その後も噴火をくり返した伊豆半島の原型は、約100万年前に本州と激突。
その後も北上を続けて隆起(りゅうき)し、約60万年前にはっきりとした半島になりました。
 この時の隆起の証拠が本州側に残っています。
神奈川県北西部にある丹沢(たんざわ)山地です。
伊豆半島より先に誕生して本州と激突した地塊(ちかい)です。
その後、伊豆半島に押されて大地がせい上がって、関東山地と丹沢山地が誕生しました。
 この際に、フィリピン海プレートによって押し上げられた力によりゆがんだ地層も存在します。
なお、フィリッピン海プレートのしずみこみは現在も続いているため、伊豆半島は今でも丹沢山地を少しずつ押し続けているのです。
 なお、世界最高峰のヒマラヤも、かつては小さな大陸だったインド半島が大陸に衝突して隆起したことがわかっています。
(『地震はなぜ起きる?』鎌田浩毅 岩波ジュニアスタートブックス 2021年)

(「解 説  三 メディナのマホメット」つづき)

 回教暦5年、マホメット軍は最大の危期に見舞われた。
今度はユダヤ人の巧妙な策謀によるものであった。
前述のような事情で、マホメットの猛烈な攻撃を受けることになったユダヤ人たちは、その圧迫に堪えかねて次第にメディナを去り、北方のハイバルに逃れてそこに集結した。
ここで彼らは、いかにもユダヤ人らしい復讐の案をねったのである。
それは未だかつて誰も思いつかなかったような大聯合軍を組織して、一挙にマホメットを押しつぶしてしまおうというきわめて大がかりな計画だった。
まず四方のユダ人に呼びかけてこれを糾合し、これにメッカのクライシュ軍全員を加え、さらに北アラビア各地に散在する諸部族をも集めて打って一丸となし、なおエチオピアの傭兵軍まで入れ、しかもその総指揮官としては、クライシュ族きっての名将アブー・スフヤーンをこれにあてるという案で、この計画がまた筋書き通りに実現したのである。
これがすなわち『コーラン』第33章(中巻、最後の章)で問題になっている諸部族聯合軍である。
(『コーラン(下)』井筒俊彦訳 岩波文庫 1958年 1964年改版)
 この大軍に攻められては、マホメットの軍には到底勝ち目はなかった。
勝敗は戦わずしてすでに明らかだった。
ところがここでもまたマホメットの奇抜な思いつきがまんまと功を奏したのである。
思いつきとはメディナの周囲に深い溝を掘りめぐらすことである。
後世の目で見ればいかにも初歩的な築城技術にすぎないが、アラビアではこれは始めての試みであった。
攻め寄せて来た聯合軍は完全に度胆を抜かれてしまった。
彼らは3週間ほどメディナをとり囲んでいたが、食糧はなくなり、疲れきって、そのままかこみを解いて帰って行った
 この成功によってマホメットの立場は非常に有利になった。
彼はいよいよ大胆になり、翌年、すなわち回教暦6年、神聖月を利してメッカに乗込もうとした。
途中、メッカに近いフダイビーアというところで、一行の進路をはばもうとして出て来たメッカ軍と出遇ったが、ここでもまた彼は政治的才能を発揮して、有利な協定を結ぶことに成功した。
この協定およびその結果については第48章「勝利」に詳しい。
協定の内容は次のごときものである。
マホメットの一行は今度はこのまま引き返すこと。
しかし来年、三日間を限り、クライシュ側はメッカを立ち退いて回教徒に神殿の参詣を許すこと。
但しマホメットはそのままメッカに永住することなく、またメディナに帰ること。
 表面はいかにも気の弱い妥協のようだし、実際回教徒の中にはこれに非常に不満な者も少なくなかったが、実はこれこそマホメットの外交的な「勝利」だったのである。
回教暦8年、西暦630年、彼は多年の念願かなって、平和裡にメッカに入り、神殿カアバの鍵を要求し、正面入口に鎮座するフバル神をはじめ無数の偶像を粉微塵に叩きこわしてしまう。
散乱する邪神の残骸のただ中に立って、彼は参集した信徒たちに「今や異教時代は完全に終った」と宣言した。
 この時は、協定によって約2週間で彼はメッカを去ったけれど、もうこうなっては天下の帰趨は決したも同様である。
ついにマホメットは全アラビアの「王(マリク)」になった。
彼の興した回教は世界宗教としての歩みを既に始めていた。
 それから2年、回教暦10年、西暦632年、マホメットはメッカに正式の巡礼を行った。
これが彼の最初で最後の巡礼であった。
その翌年6月8日、愛妻アーイシャの胸に抱かれたまま、彼は静かに息を引きとった。
 マホメットは東洋史に現われた一個の魁偉な人物、カーライルのいわゆる「英雄」である。
この人の波瀾にみちた生涯の中から、『コーラン』の本文に直接関係のある幾つかの事柄を選んで僕は以上簡単な説明を書きつらねて見た。
どっちみち、ごく外面的な略図でしかない。
本当はマホメットの一代記を一段一段『コーラン』の文句と結びつけ、さらにそれの精神史的意義を探らなければいけないのである。
そういう精神史的な掘り下げがなければ、どこにマホメットの真の独創性(オリジナリティ)があるか、なぜ彼の興した宗教があれほどの速度と力とをもって世界三大宗教の一にまで発展したか、いわゆる回教の秘密なるものの正体はつかめない。
しかしそれは本書の役割を遥に逸脱する別の大きな仕事である。
 口語訳を試みた僕の第一の願いは、『コーラン』というこの聖典を、何よりもまず一個の生きた人間記録(ヒューマン・ドキュメント)として広く一般の読書人に提供して見たいということであった。
いかめしい鎧をつけた聖典に表口から近づくのではなく、マホメットという魁偉な人間のこの世に生きた記録として、いわば裏口から、彼の人間性の側面から、この聖典を把握して見たいと思った。
そしてまた口語訳という形では、それが唯一つの許された行き方ではないかと思うのである。
 勿論、全世界の3億の信徒にとっては、『コーラン』は絶対の真理であり、神の言葉であり、聖なるが上にも聖なる啓典である。
しかし彼らと信仰をわかたぬ我ら異教徒にとっても、この聖典は貴重な古代東洋の文献として、実にユニークな人間記録として高い価値をもち、かつ尽きぬ興趣と共感を我らの胸に喚び起すのではないだろうか。
 このような見地から『コーラン』を見る時、たしかに、我々の目の前には文字通り赤裸(せきら)の心が投げ出されている。
これは一人の類まれな人間がこの世に生れ、生き、悪戦苦闘したなまなましい記録である。
悲しみも喜びも、愛も憎しみも、夢も希望も、欲望も、一切がありのまま、短所も欠点もすべてあけすけに、むきだしにそこにころがっている。
しかも雑然たるそれら一切の混乱の中から、何ものにも屈せぬ強靭な意志と、純粋無雑な宗教心が高く高く聳え立っている。
もし僕のこの拙い口語訳を通じて、幾分なりとも原文のこういう面が伝えられたなら、それで今の僕は満足である。
  1958年4月1日   訳者
(『コーラン(下)』井筒俊彦訳 岩波文庫 1958年 1964年改版)
今朝の父の一枚です(^^)v

歩くひと』の第1話は「鳥を見る」でした。
主人公が「ちょっと歩いてくるよ」と出かけた時に、バードウォッチングをしている男性に出会います。
フィールドスコープを覗かせてもらうと
あ、あれは なんという 鳥なんでしょう

ああ、あれはシジュウカラだねえ。
このあたりで いちばん多く見られる鳥だなあ。


名前は 聞いたことがあったのに はじめて見ました。

こちらの公園に来て初めて出会った野鳥もシジュウカラだったと思います。
最初に見つけたのは母でした。