2022年1月15日土曜日

曇り空から

歩き出した時は曇り空でした。
帰る頃に青空が見えてきました。
日差しが届くと暖かった(^^)v
今日から「大学入学共通テスト」なんだけど私の時は共通テストがなかった。
この時期、インフルエンザの対策も必要だったけど
新型コロナへの感染が一気に増えていて受験生は大変だ。
その上、こんな事件が起きるなんて、刺された受験生はどうなるんだろう…

東大 共通テスト受験生ら3人切られる 意識あり 少年を逮捕」(NHK)
「薬がないと命が…」 医薬品不足で苦しむ患者・家族は〟(NHK 1月14日)

成分が同じなんだからと思うでしょうが、
同じメーカーで成分も同じだと新しく処方された薬に体調が変になった経験があります。
先発薬であっても体に合わないことがあり、ジェネリック医薬品でないと困る人がいる。
その逆もある。
松本侑子さんのTwitterに

「みすゞは、夫に詩作を禁じられていた」
みすゞの投稿仲間の島田忠夫は書いています。
しかし、私の調査では、みすゞが結婚した大正15年から、亡くなる昭和5年まで、雑誌「愛誦」「蝋人形」に20作以上の詩が載っています!


番組テキスト「金子みすゞ詩集」で解説、NHK出版
村山由佳(時々もみじ)さんのTwitterに

『風よ あらしよ』ドラマ化、情報解禁となりました。
じつはつい先日、撮影を見学させて頂いたばかり。
吉高由里子さん、永山瑛太さん、稲垣吾郎さん、そして石橋蓮司さんがこちらへ歩いてみえた時は震えましたよ。
す、凄まじいオーラのウェーブ…!
どうぞ御期待ください。


Eテレ100分deパンデミックを見て伊藤野枝について知りたくなって『伊藤野枝集』を購入したばかり。
図書館で検索すると『風よ あらしよ』は、貸し出し中になっていた(T_T)
文庫本にはまだならないのかな?
ドキュランドへようこそ「メルケルが残したもの」(見逃し配信:1月21日まで
メルケルがひし形のポーズをとるようになったいきさつも紹介されていました。
なんか法界定印(ほっかいじょういん<禅定印(ぜんじょういん)>)に似ているなと思いました。
番組の最後の方で旧約聖書の言葉が出てきました。

静かにすれば救われ 信頼すれば力を得る」(イザヤ書 30章 15節)

全てのことには時がある」(コヘレトの言葉 3章1節)
解 説
 三 メディナのマホメット


 この遷行は、綿密慎重な計画にもとづいて、約2年も前から着々と準備されていたものである。
もともとメディナは、前にも書いたように、南アラビア人の邑(むら)で、メッカの北アラビア人とは何かにつけて敵対していたし、その上宗教的にはユダヤ教の邑と言ってもよいくらいだったので、マホメット一党の受入れには始めから好都合な条件が揃っていた。
彼は細心に、巧妙にあらかじめ下工作をととのえておいて、まず信徒たちを出発させ、自分は腹心の友アブー・バクル――これは後日マホメットの後を継いで第一代の教皇(カリフ)になる人である――とただ二人、クライシュ族の厳重な監視をくぐってメディナに入った。
時に西暦622年、7月16日。
これが回教暦第一年の始まりである。
(『コーラン(下)』井筒俊彦訳 岩波文庫 1958年 1964年改版)
 こうして無事メディナに「遷行」したものの、メディナの状勢も楽観できるようなものではなかった。
メッカとは違って、ここで成功するには抜目のない権謀術数の人でなければならなかった。
つまり傑出した大政治家であることがまず何よりも要求された。
が、この点ではマホメットは誰の期待よりも遙かに以上の手腕を発揮して見せた。
すなわち彼はここで始めて宗教集団であると同時にまた強固な政治団体でもあるような回教共同体を作り出すのに成功したのである。
言いかえると彼は後世の史家のいわゆる「サラセン帝国」なるものの基礎を見事に打ち建てたのである。
それはもはや、古代アラビア社会の伝統的基盤として神聖犯すべからざるものとされて来た「血のつながり」にもとづく部族共同体ではなく、共通の祭祀と、共通の利害関係にもとづく、広い、自由な共同体であった。
これこそマホメットの敢行した第一の、そして恐らく最大の社会革命的行為であった。
 しかし、まもなく意外なところから大きな障害が現われて彼の行手をはたと阻んだ。
ユダヤ人の問題である。
最初、彼はユダヤ人に対して非常な好意を寄せ、その強力な援助を大いに期待していた。
ユダヤ人の方でも友好的だった。
メディナへ移ってからの『コーラン』が著しくユダヤ教的色彩を帯びて来ることは中巻の解説でも詳しく説いたところである。
ユダヤ人との親しい交わりをそれは何よりも雄弁に物語っている。
 しかし、あまりにも見事なマホメットの政治的手腕、意外にもすみやかな回教共同体の成長、それはユダヤ人にとって彼らの経済的地位への危期の到来を意味した。
こういう事柄にかけては世界中の誰よりも敏感な彼らは、忽ち危険を嗅ぎつけ、抵抗工作にかかった。
しかも、彼ら独特の、狡猾で、執念深いやり方で。
つまり敵意を露骨にあらわさずに、裏にまわってそっと各方面に働きかけ始めたのである。
『コーラン』にはこの事情が実によく反映している。
「似非(えせ)信者」、露骨な無信仰者よりもっともっと罪ふかい人々として烈しい非難を浴びている似非信者というのは多くはこういうユダヤ人のことである。
 ユダヤ人に対するマホメットの宣戦布告は『コーラン』の中ではいろいろな形で出て来るが、その最初の、そして最も興味ふかい現われは第二章「牝牛」の136節以下に見られるキブラの変更である(上巻、42-43頁参照)。
キブラとは信者が礼拝する時にぬかずく方向である。
 メディナに移って来た当初、マホメットはユダヤ教徒のキブラを採り、エルサレムの方角に向って礼拝することにきめた。
これでユダヤ人に好感を与えるつもりだった、と近代の学者は解釈する。
しかしユダヤ人が俄然攻勢に出て来た今、彼らのキブラに従っていることは彼の面目をつぶすだけで、ほかになんの効果もない。
彼はしばらく思いまよったあげく、ついに意を決してメッカの神殿カアバを回教徒の祈りの方向ときめたのである。
この事情は『コーラン』第二章「牝牛」の136節以下に、ありのままに記されている。
そして、これを期として、従来異教邪宗の中心であったメッカの神殿が回教の総本山となったのである。
  新しいキブラの採用は単に祈りの方角をかえたというような形式的な出来事だったのではない。
それは、今後ユダヤ教への妥協は一切しないという決意であり、回教の独立宣言だったのである。
同時にマホメットはカアバの創始者として、すなわち回教の真の遠祖としてアブラハムを持ち出して来る。
彼によると、アブラハムは「純正信仰の人」である。
純正信仰とは、ユダヤ教でもキリスト教でもなく、それらの歴史的宗教の源にある、より根源的な一神教ということである。
つまり、回教こそユダヤ教やキリスト教よりも更に純粋な、唯一の真なる一神教だということである。
 さて、こうして回教の独立を堂々と宣言し、カアバを回教の中心点と決めるには決めたが、現実には勿論メッカは依然として仇敵クライシュ族の手中にある。
理論と現実とを一致させて、名実ともに回教を独立させるためには、どうしてもメッカを攻略し、その神殿を奪取しなければならない。
かくてマホメットは今までの守勢を棄てて攻勢に転ずる。
この頃の啓示は実に勇ましいものである。
 「これ、預言者よ、信者たちを駆りたてて戦いに向かわせよ。汝ら、忍耐強い者が二十人もおれば、二百人は充分打ち負かせる。もし汝らが百人もおれば、無信仰者の千人ぐらい充分打ち負かせる」(上巻、「戦利品」の66節)とか、「だが、(四ヵ月の)神聖月があけたなら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい。ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待伏せよ」(上巻、「改悛」の5節)といった具合。
 ところで、メッカのクライシュ族を打つ一番よい方法は、メッカを直接攻めることではなくて、彼らの隊商(キャラヴァン)を途中で待伏せて掠奪することである。
このゲリラ戦術を思いついたマホメットは、まず手はじめに神聖月のタブーを平然と破り、敵の油断に乗じて大勝利を得て敵味方を呆然とさせた。
この大胆不敵な行為には、メディナの邑も騒然となった。
『牝牛』第2章「牝牛」の214節はこの時に下ったお告げである。
神聖月のタブーを犯すことはもちろんよくない、しかし回教に敵対する邪宗徒の行いはもっとよくない、と言ってそれはマホメットの行為を認承した。
 この調子で一旦踏切ってしまったからには、後はゲリラ戦の連続である。
それらの合戦の詳細はここに物語る必要はないだろう。
ただ中でも名高い合戦にバドルの勝ちいくさとウフドの敗けいくさの二つがあることを指摘しておこう。
バドルの合戦は回教暦2年に行われたもので、これは回教軍の大勝利だった。
第8章「戦利品」(上巻、284頁以下)はその直後に下った啓示で、全篇この合戦の記憶にみちている。
ウフドの合戦は翌る625年、これは大敗北に了ったが、それもマホメットの手腕でなんとか無事に切り抜けた。
ウフドの合戦のことは第3章「イムラーン一家」(上巻、111頁-122頁)に詳しく出ている。
(『コーラン(下)』井筒俊彦訳 岩波文庫 1958年 1964年改版)

つづく…