2022年1月29日土曜日

曇っていたけど

今朝は、太陽がぼんやり見えるほどの曇り空でした。
気分を変えようと久しぶりにマクロレンズで出かけると
そんな時に限って久しぶりにエナガに会えた…(^^;)
風がなくてあんまり寒さを感じなかったけど
中学生くらいの二人連れの女の子に会うと、一人は半袖のTシャツだった٩( 'ω' )و
ウクライナ情勢 米国が国連安保理の会合提案もロシアは反対」(NHK)
北京冬季オリ・パラが終るまでは動かないと思うけど
思い出すのがソ連時代
1956年の「ハンガリー動乱」と1968年の「プラハの春

そして1962年の「キューバ危機

そしてオリ・パラが終わったらいっそう緊張が強まると思うのが
ウクライナ情勢 台湾 蔡総統 “推移の注視を” 中国をけん制も」(NHK 1月28日)
今朝の「折々のことば」(鷲田清一) 

 比較的感動が少ない人生を歩んでいる人に、なぜか「感動好き」が多い。  五味太郎

 大人は感動が好きで、何かといえば子どもに感動を与えたがると絵本作家は言う。
しかもその感動は類型的で代わりばえがしない。
感動とは本来、不意を襲うもの、そしてしばらくは訳の判(わか)らないもの。
ましてや前もって設定などできないもの。
自分を戸惑わせるのではなく安心させるそんな安っぽい感動の輪を拡(ひろ)げようとするのは何とも「気持ち悪い」と。
大人問題』から。
五味太郎さんが「ふいを襲われた」体験を語っている

 距 離

五味太郎 東大寺の大仏との出会いはショックでした。
中学三年の頃ですか、14、5のガキが仏様見たいとは思いませんものね、無理やり連れて行かれてなんとなく大仏殿に入って、ふっと見上げたらあれでしょ。
びっくりしましたよ。
ふいを襲われたわけです。
ですから今もかの廬舎那仏(るしゃなぶつ)は、僕にとってきちんとした仏様です。
(後略)
(『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦』五味太郎・山折哲雄 アスペクト 2011年)

山折哲雄さんとの対談から「共存」を転記します( ..)φ
 共 存

山折哲雄 日本の近代にとって、20世紀は夏目漱石の時代だったと思うんです。
唐突な言い方になりますが、「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という、いわば人類的な黄金の戒律を裏切り続けてきたのが人間だという、その痛烈な認識を文学作品にあらわした、これが漱石です。
その点ではやっぱりすごいと思う。
漱石の世紀だったと思う。
 ところがこれからはあらためて、「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」というのはどういう意味かというのを考えなければならない。
そういう時代に我々はきていると思います。
それを象徴するような作家がはたしているのか。
僕は、それが宮沢賢治だと思うんです。
だから、21世紀は夏目漱石の時代から宮沢賢治の文学の時代へと移る、今、境目にきているかなという感じですね。
 そう思って賢治の作品を読みますと、まさに「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という黄金律を自分の生活の場で実践するとすればどういうことができるのか、ということを考え続けた男が賢治だったいうのが見えてくる。
『グスコーブドリの伝記』にしても『銀河鉄道の夜』にしても『よだかの星』にしても、とりわけ『なめとこ山の熊』、こういう作品に、まさにその問題があらわれていると思うんですよ。
もしかすると賢治というのは、日本という世界をもう少し飛び離れて、世界的に受容されていく、そういう人間観を提示した人かもしれない。
(『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦』五味太郎・山折哲雄 アスペクト 2011年)
五味太郎 『なめとこ山の熊』なんていうのは、なぜああいうクライマックスなのか、たぶんあの精神のメカニズムは外国の人には表面的にはわからないような気がするんです。
僕たちの風土の中では何となくわかるというか、あの現象も納得できる。
 非常に興味深いことだけれど、なるべく多くの言葉に翻訳したら、あのストーリーを受け入れる風土というのが、どのくらいあるんだろうか。
山折 私はね、今のところないと思います。
けれど地球環境問題ということを突き詰めていくと、人間と動物界、人間と植物界との究極の関係はどうあるばきかということを考えなければいけないところにきていますよね。
そういうときに、あの『なめとこ山の熊』というのはものすごく示唆的なんですね。
 私流に翻訳して言えば、熊捕りの名人が最後に熊のために自分の身体を投げ出して食べさせる。
熊と人間との関係はギヴ・アンド・テイク、まったく平等な関係だという世界ですよね。
それを、我々はあまりにも近代的な考え方で、犠牲の精神の具現化というふうに捉えてしまうけれども、賢治が考えていたのはそんなレベルの話じゃないと思うんですよ。
人間が動物のために犠牲になるという考え方は、動物を対等に扱っていないことになる。
 人間は動物を殺して食べる、動物もまた人間を襲って人間の肉を食らう、そのことを受け入れる。
狩猟段階の人間というのは、そうだったのだと思うんですよね。
五味 食べたり食べられたり。
 アフリカに行ったときに聞いたのですが、マサイ族っていまだによく食べられているんですって、ライオンやヒョウに。
おいしくないんだそうです。
人間ととくに食べたくない、とくには狙っていないらしいのですが、狩りがうまくいかないときに、あいつでもいいやっていう感じで人間が襲われちゃうらしいんです。
山折 まさに食物連鎖の世界ですよね。
それが本当の、動物と人間の共存の世界。
狩猟社会というのは、すごい社会だと思います。
 それが、農耕遊牧の社会になることによって、全然別の倫理観ができあがってしまう。
人間は動物を殺して食べもいいけれど、動物は決して人間を襲って食べてはいけないという倫理を、我々が勝手につくった。
その歴史が二千年、三千年続いているわけで、それをどう清算するかという問題ですよね。
そりゃ、いまだに僕は熊に襲われて食われたいとはついぞ思いませんよ。
やっぱりこっちが殺して肉を食べたいと思っている。
だから狩猟社会の人間にはとてもなれっこありませんけれど、その問題を一種の思考実験として賢治はやろうとした。
思考実験にとどまらず、そういうライフスタ入りをつくりあげようとして、中途で挫折したなという感じですね、賢治という人は。
五味 なるほどね。でもそれは諦観、諦めではないですよね?
山折 それが先ほど無常セオリーというものに結びつくかもしれませんね。
多くの人間が滅びるときは一緒に滅びようと。
『なめとこ山の熊』の最後のところで、その猟師が言いますよ、「俺はお前たちを捕って食べてそれで生活してきた、だから最後は俺の身体をお前たちにやろう」と。
諦観ですね。
非常に高貴なニヒリズムと言ったらいいかな。
それが人間の最後に残された誇りではないかと思います。
(『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦』五味太郎・山折哲雄 アスペクト 2011年)