今朝も風がほとんどなく、そのうえ日差しが刺さる…
蒸し暑さで汗が吹き出しました(-_-;)
大阪は、蒸し暑いとぼやくだけなんだけど…
「関東甲信 あすにかけ非常に激しい雨のおそれ 災害に注意を」(NHK)Ⅳ 雨はどうして降るか?
雲があっても雨が降るとは限らない
空気中の水蒸気が変わった形になって地上に落ちてくることを降水現象といっている。
雨、雪、霧、氷霧などはその代表的なもので、その他にも、霧氷、凍雨、雪あられ、雹(ひょう)などさまざまなものがある。
(『新しい気象学入門 明日の天気を知るために』飯田睦二郎 ブルーバックス 昭和55年) いずれにしても、夏の前に春があるように、降水現象があるときには必ず雲が覆っている。
といって、雲があったからといって必ず降るということではない。
いまにも降り出しそうな雲がきても少しも降らないこともあり、降りそうもない雲から激しく雨が降ってくることもある。
また一見同じように見える雲からの雨の降り方にしても、にわか雨があったり、小雨、地雨、長雨、しぐれ、強雨、豪雨などいろいろな降り方をする。
なぜこのようなちがいが生ずるのだろうか。 一部の教科書には、雨は低気圧の中心に向かって吹き込んだ空気や、湿った暖かい空気が山を越えるときに上昇し、上昇した空気が膨張して冷えるため、その空気中の水蒸気が凝結して水滴となり、落下したものである、とある。
しかし、低気圧や前線がきたとしても雨が降らないことはいくらでもあるし、天気図上で小さく弱そうに見える低気圧でも大雨が降ったりすることはいくらでもある。
また、雲によって雨が降ったり降らなかったり、あるいは激しく降ったり降らなかったりするのはなぜか。 といっても、なぜ雨が降るかが多少なりともわかってきたのは第二次大戦後のことで、今でも完全に解明されたとはいいきれないというのが本当のところである。
ともあれ、雲からなぜ雨や雪や雹が降ってくるのだろうか、その仕組みをさぐってみることにしよう。 雲粒は凝結核に水蒸気が凝結したもので、その大きさは平均すると数十ミクロンぐらいのものである。
ところが雨滴になると、その大きさは小さいものでも半径が0.1ミリある(表36<省略>)雲粒の約10倍、つまり1000個の雲粒が集まって1個の雨滴になっているわけである。
大きな雨滴になると100万個ぐらい集らなければならない。
一方、雲粒が成長する速さは、粒の大きさや核の状態、そしてその時の湿度の状態など周囲の条件にもよるが、実験によれば、普通には半径1ミクロンの核が、半径10ミクロンの雲粒になるには1秒かかり、半径100ミクロンの雲粒になるにはおよそ8分程度かかる。 これに対して、同じ条件で雲粒がさらに成長し続けて、半径1ミリの雨滴(普通の雨)になるには3時間、半径5ミリの大粒の雨滴になるには5日から6日かかる。
となると、我々が実際に経験する雨とは程遠いことになる。
事実、どしゃぶり雨を降らす夏の夕立を見れば明らかなように、雨粒が作られるのに、それほど日時がかかるとは考えられない。
つまり、雨滴の成因を考えるとき、雲粒の成因とはちがった仕組を考えなくてはならないことになる。
ではどうして短時間に雲粒から大きな雨滴が生まれるのであろうか。
実は雨滴のでき方には2種類あるのである。
一つは冷たい雨であり、他の一つは暖かい雨で、それぞれの成因を異にしている。
(『新しい気象学入門 明日の天気を知るために』飯田睦二郎 ブルーバックス 昭和55年)
「天気の変化」(10min.ボックス)昨日、一部転記した『ぶぶ漬け伝説の謎』の「狐狸夢」の冒頭にあった裏寺町にある店。
学生時代によく飲みに行った店を思い出しました。
上の画像は2006年に「居酒屋 静(しずか)」で写したものです。
当時のブログはサービス停止でなくなりましたし、画像サイズもケチっていたので不鮮明です(^^ゞ
心筋梗塞を発症して以来、アルコールがだめになったので飲みに行けませんが
柳小路を通るたびに思い出します(「大徳寺~今宮神社~牛若丸」2018年11月2日)。 中原中也「ダダ」との出会い
今夜 ここでの 文学談議
裕福な医家の長男、中原中也は青春の2年間を京都で過ごした。
小学校の頃は「神童」。
名門山口中学に入ると短歌に熱中、3年で友人と歌集も出版した。
一方で成績は急降下し落第。
「一月(ひとつき)読んだら分かる教科書を中学は一年かけて教える。そんな馬鹿らしい勉強はせん」
(『京ものがたり 作家・スター35人が愛した京都ゆかりの地』朝日文庫 2015年)
世間体を気にした父親が、京都の立命館中学に編入させた。
1923(大正12)年、15歳だった。
その秋、一冊の詩集と出会う。
死の前年に書いた「詩的履歴書」には「寒い夜、丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激」と記されている。
既成の秩序や常識に反抗し破壊するダダイズムにひかれ、猛烈な勢いで詩を書き、ダダイストを自称した。
「近代文学と京都」をテーマに研究している立命館大学教授の瀧本和成は「ダダイズムは既成の文法を拒否した。そこに和歌ではできない新しい表現方法と意味を発見した」 間もなく3歳年上の劇団員、長谷川泰子と出会う。
中也の詩を泰子が「面白いじゃないの」と言ったのがきっかけだ。
翌月4月、中也の下宿で同棲を始める。
泰子は「2人の生活は気がめいることも多かったが、中也の詩を読むと自然に涙が流れた」と後に著書につづっている。
中原中也記念館館長の中原豊は「男女の関係と同時に、中也は自分の詩を理解してくれる専属読者を得た」という。 仕送りは60円。
大卒の銀行員の初任給が50~70円、巡査が45円の頃。
母は「帰省のたびに痩せる」中也を心配し、仕送りを70円、80円と増やした。
同棲は伏せたままだった。
泰子の著書によると、小男の中也は「お釜帽子に髪を長くなびかせ」「マントは肩の所でひだをとり、飛び切り上等の生地で仕立て」ていたという。
4月の春、フランスの詩に詳しい富永太郎に出会う。
富永と一日中話し合うため下宿を引っ越したほど傾倒した。
フランスの象徴詩を学び、ダダイズムから抜け出していく。 若き中也の足跡が残る場所がある。
にぎやかな四条河原町の交差点から数分、柳小路の中ほどにある居酒屋「静(しずか)」だ。
戦前「正宗ホール」と呼ばれた飲み屋の建物が使われているとみられる。
内部は中也が訪れた当時と変わっていないらしい。
友人の一人、京大生正岡忠三郎の日記(24年5月1日)に「正宗ホールにDadaistが来て…更に宮川町に無銭遊興をやろうとして断られ」とある。
山口時代に酒の味を覚えた中也は、年上の友人に対等の口を利き、文学論を戦わせていた。
中学4年を終え、詩人として身を立てるため、泰子を連れて東京に移り住む。
京都は、早熟な中也の「出会いと飛躍の場だった」(中原館長) 静のおかみ、加藤恵子(75)によると「正宗ホールと隣接していて、戦争末期に閉鎖した正宗ホールを姑が買い取って広げたと聞いている」。
壁、テーブル、天井などあらゆる場所に落書きがあるので有名な店だ。
中也が京都で最後に住んだ下宿は上京区にある。
中也は左京区を皮切りに2年間で7回ほど転居しているが、建物が現存するのは最後の1カ所だけだ。
(2014年12月16日)
(『京ものがたり 作家・スター35人が愛した京都ゆかりの地』朝日文庫 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)/
トチノキの実を拾っていました。
先日の実は、トチノキの根元に埋めたそうです。
この実も家に持って帰りましたが、また、トチノキの近くに埋めてあげるそうです。
落ちた実が、踏まれて潰れているのをみかけます。
栃[トチ]
…前略…
栃と食べ物といえば、私個人として絶対忘れてほしくないのは『栃蜜(とちみつ)』だ。
蜜蜂は、例えばレンゲの花ばかりが咲いている野原で飼えば『レンゲの蜂蜜』をつくる。
同じように山奥の栃の花ばかりが咲いているところで飼うと栃蜜をつくる。
レンゲが少しすっぱさが残るのに比べ、栃蜜は甘味が濃く香りも良い。
低血圧で寝起きの悪い私は、朝、パンにつける栃蜜でやっと目が覚める。
栃蜜の香りが良いのは栃の花の香りが良いからだ。
栃の花の香りといってもピンとこない人も、マロニエの花の香りといえば、ひょっとしたら想像がつく人もいるかもしれない。
パリのマロニエの並木は世界的に有名で、「五月のパリはマロニエの花の香で満たされる」などと詩や小説、そして歌に語りつがれる。
マロニエは栃とほとんど同種で、マロニエのことを日本名では『西洋栃の木』と呼んでいる。
マロニエはふさふさした白い穂のような花を咲かせるが、日本の栃も同じ時期に同じような花を咲かせる。
…後略…
(『森の博物館』稲本正 小学館 1995年)