公園で話を聞くとかなり降ったそうだ。
病気をする前は、気圧の変化に敏感ではなかったのに…
昔、女子から鈍感でデリカシーがないとよく言われたのになぁ(^^;
風が吹いていたのだけど、なんか、生暖かくて気持ちいい風ではなかった。
空を見ていると西の方が暗くなってきたので、これは降るなと早めに帰ることにしました。
車を運転していると大粒の雨が降り出し、すぐに止みました。
「近畿 大気非常に不安定で大雨おそれ 土砂災害など十分注意」(関西NHK)俄雨(にわかあめ)
急に降りだし、短時間でやむ雨。
「急雨」「驟雨(しゅうう)」。
「俄」は、だしぬけに、急に。
夏の夕立や冬の時雨などが、この種の雨である。
突然に降ってくるので、傘の用意のない人が雨宿りのできそうなところへ駆けこむ。
一般的には「村雨(むらさめ)」という語に代表される雨であり、上がるのも早い。
いつまでも降りつづく雨が、地雨(じあめ)。
ハワイでは、「俄雨」を「パイナップル・シャワー」と呼ぶ。
島根県隠岐地方では「すぐれ」、つまり時雨。
妻も濡る青き蕃茄(ばんか)の俄雨 山口誓子
(『雨のことば辞典』倉嶋厚・原田稔編著 講談社学術文庫 2014年)
蕃茄(トマトの別称)今日は「京都五山送り火」(KBS京都)
第6章●京都の名産品、伝統行事の謎
<9>京都四大行事に「大文字焼」という行事はない
京都ほど年中行事の多い都市もないだろう。
ほとんど毎日、町のどこかで祭りや伝統行事が催されているといっても過言ではない。
その中でも特に代表的な行事を「京都四大行事」といっている。
葵祭、祇園祭、時代祭の「京都三大祭」と、あと一つは何だろう。
真夏に大文字焼という行事がある。
大文字焼は山の斜面に「大」の文字を象(かたど)って薪(まき)を並べ、それに点火する盆の送り火のことで、奈良市の高円山(たかまどやま)や高知県の四万十(しまんと)市(旧・中村市)、秋田県の大舘(おおだて)市など各地で催される。
その発祥地は京都だといわれているが、肝心の京都に大文字焼という行事はない、というとやや語弊があるかもしれない。
(『地図・地名からよくわかる!京都謎解き街歩き』浅井建爾 実業之日本社 2014年) 東山三十六峰の一つ、如意ヶ嶽(にょいがたけ)西峰の大文字山で行なわれる送り火が特に有名なので、マスコミなどで大文字焼と紹介されることもあるが、それはあくまでも俗称で正式名称ではない。
京都の人に「大文字焼」というと、冷たい視線を浴びせられるかもしれない。
「大文字焼? 清水焼の間違いではありませんか」と皮肉る人がいるかもしれない。
というのも、送り火が行なわれるのは大文字山ばかりではないからだ。
正しくは「五山の送り火」といい、これが京都四大行事の一つなのである。
送り火の起源は定かでないが、江戸初期には年中行事として定着していたとみられる。 お盆に迎えた精霊を、お盆の行事を終えたあと再び、冥土(めいど)へ送り返すために焚く火が送り火である。
京都では、5カ所の山で送り火の行事が行なわれることから五山送り火というのだ。
送り火が行なわれる5カ所の山では、それぞれ異なった文字と図形が京都の夏の夜空を焦がす。
五山送り火の「五山」は、臨済宗の「京都五山」とは無関係である。 8月16日、先祖供養と無病息災の願いを記した護摩木(ごまぎ)が、送り火に使われる資材として保存会の人たちの手によって山上へ運ばれ、夜8時ちょうど、如意ヶ岳西峰の大文字山に点火される。
この大文字山の送り火を皮切りに、10分後の8時10分に松ケ崎西山(万灯籠山<まんとうろうやま>)に「妙・法」の文字が浮かび上がる。
8時15分には西賀茂船山の「舟形」の図形と、金閣寺大北山(大文字山)に「大」の文字(左大文字)が、8時20分には北嵯峨曼荼羅山(まんだらやま<水尾山>)に「鳥居形」の図形が点火される(図-51<省略>)。
炎上時間は約30分。
宗教的行事として始まった五山送り火だが、今ではすっかり観光行事になった感がある。
京都には欠かせない夏の風物詩として、地元の人や観光客は五山の送り火を心待ちにしている。 ところで、送り火の文字の大きさはどれくらいあるものだろうか。
街から眺めると小さく見えるが、これが意外に大きいのである。
送り火の代名詞にもなっている如意ヶ岳(大文字山)に描かれる「大」の文字は、総延長が約360mもある。
だが、大北山(左大文字)の「大」の文字は175mとやや小さめだ。
また、五山送り火の見物ポイントは賀茂川や高野川の堤防、船岡山公園頂上など各地にあるが、五山すべての送り火を同時に見ることができる絶好のスポットとなると、市の中心部に建っている高層ビルの屋上ということになる。
(『地図・地名からよくわかる!京都謎解き街歩き』浅井建爾 実業之日本社 2014年)大文字の送り火と京都タワーが事件の現場となるのが、
北森鴻さんの「鮎躍る夜に」(『支那そば館の謎』 光文社)。
送り火に鮎が躍るとは…ミステリーなので種明かしはしません(^_-)-☆
一方、実際にあった大文字事件が『京都の平熱―哲学者の都市案内』に紹介されています。
ネットで検索するといろんな記事が出ています。西へ
加茂街道からの眺め
下鴨本通に戻って、洛北高校前の次の停留所は府立大学前である。
府立植物園に近接してある。
北東から南西に向けて疎水が流れ、古風な洋館が似合う道筋である。
そしてバスはいよいよ賀茂川を渡る。
渡ったところ、賀茂川沿いに出町から上賀茂まで通じているのが加茂街道だ。
上賀茂神社への長い長い参道である。
春はピンクの、夏は濃緑色(こみどりいろ)のトンネルになる。
賀茂川の両河畔には木造の家が続く。
とくに出町から北大路まで、賀茂川の東河畔の二階建ての家の並びは、春は賀茂川の流れと桜の畦を前景に、比叡山を後景に、絵描きでなくても筆を取ってみたくなる眺めだ。
(『京都の平熱―哲学者の都市案内』鷲田清一 講談社学術文庫 2013年) 加茂街道を北大路から少し上がったところ、そこが八月十六日の「送り火」のときには絶好の見場所となる。
南東に「大文字」、北東に「妙法」、北に「船」、西に「左大文字」が見える。
以前、京都は学生に甘い街だと言ったが、「送り火」では京都のひともさすがに頭にきた事件がある。
それも二つある。
京大の学生たちが送り火の前夜に大文字に登り、茂みに影をひそめていた。
そして送り火の当夜、午後八時の「大」の字の点灯と同時に、持ち込んだ懐中電灯をいっせいに点けた。
ひとびとが大文字山を見やったときに漆黒の闇のなかから浮かび上がったのは「大」ではなく「犬」だった。送り火とは盆に還ってきた祖先の霊を送る行事である。
だから「大文字焼き」などと他国のひとが言うと京都人はひどく気分を害する。
それが「犬」になった。
京都人の怒りはいかばかりであったか。
当時の京大総長が公的に謝罪したのかどうか憶えていない。
もう一つの事件がその事件を忘れた頃に起こった。加茂街道北大路北詰の見通しのいい場所で「送り火」の点灯をいまかいまかと待つひとびとの前で、最初の火が点いた。
点いたとたんに火は消えた。
わたしはなにかの失敗かとおもったが、次の火がなかなか点かない。
加茂街道と大文字山を結ぶ線の途上に府立大学グランドがあるが、そこから気球が上がったのだだった。
気球は大文字の「大」をすっぽり覆うようにゆっくりと空に上がっていった。
順に火が点いてゆくところ、そこが大文字の見所なのに、このときは「大」は下から少しずつ姿を現したのだった。
これら大学生による「不敬行為」にもついに京都のひとは甘かったのかどうか、これも覚えていない。
(『京都の平熱―哲学者の都市案内』鷲田清一 講談社学術文庫 2013年)今朝の父の一枚です(^^)/
白い花のサルスベリを写していました。
新しき猿又ほしや百日紅 渡辺白泉(はくせん)
前書に「終戦」とある。
戦中の昭和14年には「憲兵の前で滑って転んぢやつた」「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の作があり、一貫して戦争を憎んだ。
「京大俳句」弾圧事件で検挙され、長く沈黙を余儀なくされていた。
戦後になって解放されての自由な一句だが、<猿又ほしや>とは笑ってしまう。
猿股(さるまた)は西洋褌(ふんどし)とよぶこともあるが、戦争時を含めた戦前までの男子は褌を締めるのがごく当然だった。
男女13歳か15歳に行う褌祝(へこいわい)、兵児(へこ)祝というのは成年式の祝いで、褌は成人男性の象徴ともいうべきもの。
それと軍国主義とが重なって、作者にとって褌は嫌悪(けんお)すべき代物(しろもの)であった。
そのためにズボン風の猿股こそいまわしい束縛から解放される下ばきであった。
それもすべすべしたサルスベリを照応させての新しいサルマタだ。
戦争は国民に絶大な犠牲を強いたが、庶民の望みはささやかなサルマタだった。
1913~1969 東京生まれ。「句と評論」同人。
句集『渡辺白泉全句集』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)