朝、顔を洗う時に水道の水が冷たく感じました。
公園についていつもより涼しく感じたのは
公園が静かになったからかな?
晴れているのにクマゼミのあの元気な声があまり聞こえなかった。
自然災害は日本だけでなく…
「フランス 猛暑が一転 大雨被害 観光地のコルシカ島で死者も」(NHK)「旧統一教会問題で政府・与党 臨時国会の早期召集 応じない構え」(NHK)
〝国葬の責任者・森昌文氏が “乱倫パーティ” に参加報道……〟(Yahoo!ニュース)
国葬も閣議で決定。
国会を開くと答弁のしようがないのと違うかな?
岸田首相も故安倍元首相、菅前首相のように国会軽視し、
時間がたてば国民は忘れるといことなんだろうな!
首相は、「聞く力」といっていたけど、萩生田氏は「聞かない力」と本音を言っていたなぁ
「韓国で旧統一教会“大規模抗議デモ”……」(テレ朝) 笑わない数学「虚数」
ピタゴラスは教団の教祖だったそうです。
世界の真理を求めて活動する数多くの弟子たちを率いていた。
「ピタゴラスの定理」は、学校で習うのですが
弟子のヒッパソスがとんでもないことを発見してしまった。
この事によってヒッパソスは処刑されたとのこと…
(ネットで検索するといろいろ記事が出ています)SWITCHインタビュー 達人達「三上丈晴×渡部陽一 EP2」
日本で一番怪しい?雑誌「ムー」の編集長三上丈晴さんが最後に話していたのが、
現代社会に渦巻くフェイクニュースや陰謀論について
「陰謀論 陰謀論」って言うようになったのは ここ数年のこと。
ムーの場合は40年以上前から“陰謀は語っている”。
…
一般の人は、陰謀史観に関して免疫がない。
知識がない。安易に飛びついちゃう。信じちゃう。
吹聴しちゃうのは、変な話、ムーを読んでないから。
「ムー」を読んでれば、例えば 「この陰謀論が」っていったときに
「ここ違ったな」とか「それ 違うじゃねえか」みたいな。
ある種 ただ単に肯定だけじゃなくて、検証の結果 「これは虚構だった」と。
「これ ある種のフェイクというか偽情報だったよね。でも これなぜ 出してきたんだろう?」。
偽情報を出すということは明らかに意図がある。その意図は何だろう。
フェイクなり陰謀の論説を個人的に分析する、解釈する。
ムーを読むことで、陰謀論やフェイクに対する免疫ができるそうですよ(^_-)-☆
元々は学習雑誌からスタートしている。8月15日は、敗戦、お盆と重なっているのですが
カトリック教会などでは、大事な祝日です。
宗教は、霊感商法のように信者を不安に陥れるのでなく
人々の心に寄り添いやすらぎを与えるものだと思っています。
昇天のマリヤ
マリヤの死
聖母マリヤは60歳(他の伝承では72歳)にオリーブ山の麓、ゲッセマネの近くでヨハネに看取(みと)られながら世を去ったという。
マリヤが息をひきとった場所に建てられたのが、のちのドルミチオ教会である。
しかし別の説では迫害を逃れて赴いたエフェソスの地で歿したとも伝えられている。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年) マリヤの死が主要な画題となって教会や御堂に安置されるようになったのは、フォラギネの「黄金伝説」やコーベルガーの「聖者の生涯」などが書かれ、広く読まれるのようになってからである。
はじめは臨終の床に横たわっているマリヤを十二使徒やその他の弟子たちが見守っている場面を造型していたようである。 被昇天
ところが死に直面しているマリヤにたいし、天にいるキリストがじっと見つめて彼女に配慮を示しているものから、しだいにもっと具象的に宗教的意図を受け取って帰る図式に変っている。
少女の姿であらわされているマリヤの魂をキリストが両手にしっかり受け取っている。
あるいは天使たちに天上へキリストのもとに運ばさせそれをキリストが受け取っているという絵もある。 神の意志を貫いたマリヤにたいし、このような過程を経て、キリスト神によって昇天させられる。
しかもマリヤの魂を受け取って昇天させるのではなく、肉体のままで昇天するという大胆な表現に飛躍する。
突如マリヤは立ったままで掌を合せながら、使徒たちのもとから天使に支えられながら、雲に包まれて昇天してゆく。
この雲を「証の雲」と呼んでいる。
キリストは復活後に自ら昇天したのに比べ、マリヤはキリストによって昇天させられたので「被昇天」という呼び方もあるが、いかにもこと細かな解釈である。
マリヤの昇天で充分である。
証の雲は信仰者の証しが雲のごとく多いという意味である。 昇天のマリヤ
中世ゴチック晩期(ドイツルネサンス)の彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの作品に「昇天のマリヤ祭壇」がある。
ヴュルツブルクからローテンブルクにゆくロマンティシェシュトラーセに沿ったタウバー渓谷のクレークリンゲンの教会に大切に守り伝えられてきている。
救世主は予定も準備段階もなしに突如急速にこの世界にあらわれ、審判し、救いをもたらすと中世の人々は信じてきた。
「愛する御母マリヤ、どうぞお立ち上がり下さい。もはやここに長く留まらず、永遠の喜びへとお供いたしましょう」とキリストにうながされ、マリヤは跪(ひざまず)く。
やがて天使たちに支えられながら、マリヤは天に昇ってゆく(コーベルガー「聖者の生涯」)。 このリーメンシュナイダーの昇天のマリヤはこの聖なる瞬間を造型し、激しい動きと静寂と軽みを同時に表現している。
驚き見上げる使徒たち、聖書の預言の言葉を思い返してうなずく者、荘厳な光景に掌を合せる者、その姿はさまざまである。
天使たちは光のマンドローラをつくってひたむきにマリヤを天上へとひき上げてゆく。
気高く若々しい処女であり母であるマリヤは手を合せたまま静かに昇ってゆく。
この姿はそのまま人間の祈りのように高みへと昇ってゆく。
この祭壇彫刻は農民戦争とあとにつづく三十年戦争などの間、激しい破壊がなされたとき、白布を巻いて村の人々が大切にひそかにかくして守られてきたものである。 宗教は司祭、牧師、神学者だけでなく、画家、彫刻家の敬虔なイマジネーションやその創作力によってより一層新しい意味や内容が発見され、高い価値へと飛躍することがある。
信仰においてどのように拙い造型であろうと、信仰者はそれを大切にするが、突如として美が開かれ聖なるものと妙なる融合をなすとき、人間は新たな意味と生命を獲得する。
その一瞬に彫刻家は己れを賭け、たゆまず鑿(のみ)をふるうのである。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年)
つづく…今朝の父の一枚です(^^)/
昨日までの雲と今日の雲は違うねと妹と話していました。
Ⅲ 雲はどうしてできるの?
雲はなぜ浮かんでいられるか
青空に浮かぶ雲、羽根のように軽そうな雲もあれば、どっしりといかにも重そうな雲もある。
雲粒は小さな水滴や氷晶からできている。
したがって重さがあるはずである。
重さがあるのに、いつまでもどうして浮かんでいられるのだろうか。
実は、雲の中では雲粒は落ちているのである。
しかし、きわめてゆっくりである。
空気との摩擦のためである。
摩擦力は表面積つまり半径の二乗に比例し、また重力は半径の三乗(体積)に比例するから、半径が半分になると、摩擦抵抗は四分の一であるが、重力は八分の一となる。
それゆえ、小さい雲粒ほど重力の影響が小さくなり、ゆっくり落ちることになる。
この様子を示したものが表36(省略)である。
表は水滴の半径と落下速度との関係をみたものであるが、直径0.05ミリの雲粒は1秒間に約8センチ、1時間に約290メートルしか落下しない。
この程度の落ち方なら、水平方向や上下方向の空気の流れの大きさを考えると、ほとんど落ちないことになる。
まして雲の中には上昇気流があるので、この程度の落下速度は相殺されて問題にならないのである。
たとえば、毎秒数センチ程度の比較的弱い上昇気流があれば、直径0.05ミリの雲粒は浮かんでいられるだろうし、普通の場合に見られる毎秒1メートル位の上昇気流であったとすれば、0.3ミリ程度の雲粒は長時間にわたって浮かんでいることができるのである。
すなわち雲が浮かんでいられるのは、この上昇気流に支えられているためだといってもよい。
(『新しい気象学入門 明日の天気を知るために』飯田睦二郎 ブルーバックス 昭和55年)