2022年8月18日木曜日

涼しいのはいいのだけど…

雨が降りつづいていました。
東屋の温度計を見ると21度を少し超えている。
今までと比べると10度ほど低い。
各地では大雨による災害が各地に出ています。

北~東日本中心に激しい雨 東北では災害の危険性高まるおそれ」(NHK)
 究極の短歌・俳句100選ベストセレクション (2)「人生の岐路」
正岡子規の絶筆三句のうちの一句が取り上げられていました。

糸瓜咲(さい)て痰(たん)のつまりし仏かな

あとの二句が

痰一斗(と)糸瓜の水も間にあはず

をとゝひのへちまの水も取らざりき
(『<ちくま日本文学全集> 正岡子規』筑摩書房 1992年)

岸本尚毅さんが「糸瓜(へちま)っていうのは痰の薬になるということを前提に読むといいんですね」と話しておられました。
 へちま

 ヘチマ(糸瓜、天糸瓜)がぶらんと風にゆれるようになると、夏休みも終わりになる。
 もともとインドあたりの熱帯原産で、明の時代に中国に伝わり、わが国にきたのは江戸時代の初めごろという。
長く伸びるつるに、大きな葉をつけ、各葉のつけねには先が三つまたになった巻きひげがあって、これでからみついて数メートルの高さまでよじ登る。
日よけ棚によいので、多くの家庭で親しまれているが、関東から西へゆくほど多く見られるようだ。
実の長さが50センチほどの「だるま」という品種がもっともふつうだが、長さ1~2メートルもの不気味に長い「長へちま」や食用の品種もある。
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
 つる植物は四つの種類にわけられる。
支柱の周りに螺旋(らせん)状に巻きつくまきつき植物(フジ、アサガオなど)、何かある物体に接触するとき、変形した葉、枝、花茎でそれをつかむ巻きひげ植物(ブドウなど)、かぎの助けを借りて上昇するよりかかり植物(ホップなど)、小さな根(根の吸盤)で上昇するはい上がり植物(キヅタなど)の四つである。
ヘチマは巻きひげ植物の一つであり、ダーウィンによると、巻きひげ植物はつる植物の中で、もっとも典型的なものとされている。
インゲンマメのように巻きつき植物では、65センチの高さに達したときの茎の全長は1メートルもあるのに、巻きひげ植物のエンドウは、茎がわずか長いだけで同じ高さに達し、極めて効率的に高く上昇することができる。
しかも強い風などに対しても、よりよく安定できるというのである。
 初夏のころ、縁日などで買った苗を庭に植えておくと、いつのまにか伸びて塀をのぞくほどになり、黄色い花が朝ごとにふえ、雌花も咲くころは、夏休みの小学生の観察日記の対象となる。
理科教材に取り上げられていて、発芽、生育過程や雌花と雄花の区別を教えるのが目的らしい。
 成熟したヘチマの実を水に漬けておくと、果肉が腐って見事なへちまたわしがとれる。
この網目は、果肉内を繊維が横走するウリ科の果実に特有の構造が織りなしたものである。
この繊維があまり発達しない品種があり、これが食用ヘチマで、鹿児島県下では、昔から野菜として煮て食べる。
香りと淡い甘味があってうまい。
普通のヘチマも10センチほどの若い実はまだ繊維が発達していないので、皮をむいて天ぷらやみそ汁の実にもなる。
花びら、若葉も食べられる。
秋の霜にはまだ早いころ、地上30センチあたりでつるを切り、一升びんに切り口を差し込んでおくと、数日でへちま水がとれる。
へちま水は化粧料のほか、せきどめ、たん切り、利尿の薬効がある。
 今では、へちま水をとって家庭薬にすることも忘れられたので、子規の「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」の意味も、若者にはわからないことだろう。
  (星川清親)
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)

高校1年の時に一人で沖縄に帰省したことがあります。
そのときにヘチマの味噌汁などを食べさせてもらいました。
瓜に似た味で美味しかった。
大阪に帰ってきて、ヘチマを食べたことを友だちに話すと、不思議そうな顔をしていました(^_-)
(「いざ仰ぎ見ん大文字」つづき)

 ところで有名なわりに、五山の送り火の起源や由来はよく判っていない。
たとえば大文字については、平安時代、麓の寺が火事に遭(あ)った際、本尊・阿弥陀如来(あみだにょらい)が山に飛んで難を逃れた。
そのとき仏像が放った光を象(かたど)って火を点したのを、弘法大師が大の字に定めたという説が最も一般的。
また銀閣寺に伝わる「大文字記」には室町時代、足利義政(あしかがよしまさ)が息子の早世を悼(いた)んで点火させたのが始まりとあるし、江戸初期に能筆家・近衛信尹(このえのぶただ)の描いた字に従って火を点したともいわれている。
(『京都はんなり暮し』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)
「妙」は鎌倉時代、付近の村が日蓮宗に帰依(きえ)した記念に始められ、「法」はそれから約三百年後、江戸時代に始まったそうだ。
また船形は麓にある西方寺の開祖・円仁(えんにん)が唐留学の帰路に乗った船を模して始められ、鳥居形は弘法大師が石仏千体の開眼供養(かいげんくよう)を営んだ時に点火されたと、どちらも平安時代が起源と伝えられている。
 しかしどの説も正史に記録はないし、左大文字のように起源が全く不明なものもある。
 戦国時代には鴨川で松明(たいまつ)を投げて霊を送る盆行事があり、公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)は慶長八年(1603)七月十六日の日記に、「鴨川に出て、山々の送り火を見物した」と記している。
これらから送り火は庶民の間から発生した盆の行事が、長い歳月を経て形式化したと考えるのが自然だろう。
 私が住む銀閣寺近辺では、送り火翌日の早朝、町内会主催の大文字山登山がある。
送り火の燃え残りを半紙に包んで水引で縛ったものを戸口に吊るすと、厄除け・盗難除けなるといわれており、清掃かたがた、それを拾いにいくのだ。
残念ながら早起きが苦手な私は、五時出発と聞いただけで見送る側と決め込み、一度も参加したことがない。
しかしその代わり、せっかく近くにいるのだから、最低年に一回は個人的に大文字山に登ることにしている。
 大文字登山というと特別なことに聞こえるかもしれないが、一番簡単なコースなら麓の銀閣寺から三十分で登ることが出来る。
このため、毎日の散歩道にしてらっしゃる近所の方もいるし、トレーニング中の京都大学アメフト部やラクビー部とすれ違うこともある。
わかりやすい道なので、時間と体力に余裕があれば観光の折にもおすすめだ。
 山を登りきったところは大の字の一画目。
少し開けたスペースになっており、小さな大師堂がある。
ここから見下ろす京都市内はまるで箱庭のようで可愛らしく、いとおしい。
どんな平日に登っても、家族づれあり、犬の散歩中の方(だいたい犬のほうが疲れた顔をしている)あり、大学生のグループありと、実に様々な人たちが思い思いに目前の光景を楽しんでらっしゃる。
一度など、リュックからお道具を取り出して、野点(のだて)をしてらっしゃる方までお見けした。
 かように大文字は、送り火の日以外でも、京都の人々の心のよりどころなのである。
(『京都はんなり暮し』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)

私は地下鉄「蹴上駅」から日向大神宮で天の岩戸をくぐったりしたあと大文字山を目指していました。
こちらからのルートもわかりやすい道です。