2022年8月4日木曜日

いっとき…

空が黒くなりだし、一時、パラパラと降り出しました。
それでもすぐに止んでくれたけど
一方、東北や北陸では…
新潟 山形 記録的大雨 北陸では線状降水帯 厳重な警戒を」(NHK)

新潟大学医学部小児科学教室のツイートに
新潟県内の大雨により、大学病院や関連施設周囲の道路が非常に通りにくくなっており、
一部の道は通れなくなっていることもあります

画像1画像2
受診の際には気をつけていらっしゃってください
また、受診が難しい場合には外来にご連絡ください(ご無理をされないでください)
そして新潟大学医学部小児科学教室のツイートに

"BA.5" が流行してから子どもの感染者が急増し、入院が必要になる、重症化する子どもが増えてしまっています。
以前から使われている新型コロナの重症度の定義や一般の方の持っているイメージと実際に起きていることの相違が大きく、
入院が必要な子どもも定義上「軽症」にかなりの数が入ってしまいます。


(画像「症状のある子どもの新型コロナのイメージと実際の比較」)

以前、紹介したと思いますが

安川康介@米国内科専門医
さんのツイート

「若者は重症化しないからワクチンは必要ない」と言う人がいます。
日本の「重症」の定義は人工呼吸器や集中治療が必要な状態です。
30代、40代でも中等症になる方はそれなりにいて、僕も多く診てきました。
軽症や中等症といってもピンとこない方もいるので、スライドを作ってみました。


(画像「一部の方が抱く新型コロナ感染症のイメージ? 医者が持つ実際のイメージ」)
数か月前に除草作業があったのだけど
猛暑が続き雨もほとんど降らなかったのに草が繁茂している。
「恋草」という言葉があります。

こひくさ【恋草】
恋心の繁く手のつけられないほどなのを、草の生い茂ることにたとえていう語。
恋という草。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)
辞典に引用されていた用例に
巻第四 694
  広河女王(ひろかはのおほきみ)が歌二首
   穂積皇子(ほづみのみこ)の孫女、上道王(かみつちのおほきみ)が女(むすめ)なり

 恋草(こひくさ)を 力車(ちからくるま)に 七車(ななくるま) 積みて恋ふらく 我が心から

(『萬葉集(一)旧版』青木生子 他 校注 新潮社 昭和51年)
刈っても刈っても生い茂る恋草を、荷車七台に積むほど恋の思いに苦しむのも、私自身の心から出たことなのです。

恋を草に譬(たと)え、車を持ち出して恋の重荷にたえかねるさまを表わしている。
戯歌であろう。
◇力車 人力で引く荷車。大八車。
◇七車 「七」は数が多い意。「八」のようにほめる意は認められない。
(『萬葉集(一)旧版』青木生子 他 校注 新潮社 昭和51年)
刈っても刈っても生い茂る草以上に厄介なのは…

7月25日の安川康介さんのツイートに

サル痘に関して最初にツイートした5月19日の時点では報告数は9人でしたが、
すでに1万6千人以上が感染(実際の感染者数はこの数よりかなり多いことが予想されます)。
やはり感染は拡大してしまいました。
コロナ然り、人の移動が容易になった現代だからこそ他国での感染症により注意する必要があります。


現代のように人の移動が少なかった時代でも
三 疫病と天皇
 1 大陸から持ち込まれた痘瘡
(とうそう)

 マラリアや住血吸虫は蚊や貝などを中間宿主にして伝染する。
その条件が整わないと流行しない。
一方、結核や痘瘡(天然痘)は人から人に伝染する病気である。
この病は人が動くにつれて広がる。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
 慶運3年(706)の疫病は全国的な広がりをみせたが、このときの疫病は何であったのだろうか。
中国の疫病史によると、706年、707年に諸国で疫病が流行している。
世界の疫病史から考えると、痘瘡であった可能性が高い。
 痘瘡の歴史は古い。
紀元前のエジプトのミイラに痘瘡の跡が残っているが、痘瘡の始まりは中央アジアだといわれている。
それが東西に広がって、中国大陸を経たものが日本に伝わった。
『類聚国史』には「『検古記』によると、養老(ようろう)年間に疫病がしばしば流行して、病死者も多かった」とある。
しかし、『続日本紀(しょくにほんぎ)』では和銅6年(713)から養老7年(723)までの間、疫病の記録はまったくない。
史書に記録がなくても疫病が発生しなかったとはいえない。
 事実、日本と交流があった新羅(しらぎ)では714年に疫病がはやり、たくさんの人が死んだ記録がある。
痘瘡である。
日本では養老4年に九州で隼人(はやと)の反乱があり、東北地方の蝦夷(えみし)の反乱で士卒が疲弊していた。
もし大陸から伝染病が持ち込まれていれば、疫病が発生しても不思議ではない状況にあったのである。
 戦争と飢饉(ききん)と疫病は深い関係がある。
近年では太平洋戦争直後の混乱期には食糧不足のもとで発疹(はっしん)チフスをはじめ、さまざまな伝染病が流行した。
養老7年の疫病もそれであった。
養老年間は隼人の反乱に加え、寒気と旱魃(かんばつ)のために飢饉つづいて、たくさんの病死者が出た。
 続く聖武天皇の御代、天平(てんぴょう)年間に痘瘡が全国的に流行したが、これについて項を改めて語ろう。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)

各地にさまざまの病気」(NHKアーカイブス 1950年)

ロシアによるウクライナ侵略で新たな感染症が流行するかもしれません。
今朝の父の一枚です(^^)/
黄色いくちばしの子がひまわりのてっぺんであたりを見回している。

画像は、キジバトではありませんが(^_-)

(「庭に来る鳥と湖の鳥と 大原富枝 人なつこいキジバト」つづき)

 今年は彼らも考えたと見えて、てっぺんより少し下の、枝がこまかくさし交している下を選んで巣づくりをした。
さすがのカラスも今年は枝にさえぎられて悪戯(いたずら)は出来なかった。
 それにしてもこのごろのカラスの増えたことにはびっくりする。
近くのアパートの屋上の給水塔を足場にして、例の声でうるさく騒ぐ。
しかし、今日は眺めても全然いない。
五、六羽も群れているときと、全然姿を見せないときがある。
どういう生活をしているのだろうか、数日うるさく騒ぐと思うとぱたって現れなくなる。
利口な鳥だそうだから、考えるところがあってのことだろう。
 今年の春のキジバトは二羽とも無事に孵(かえ)った。
母鳥は餌を漁って来ては、巣に帰ると待ちかねているひなの小さいくちばしを自分の口の中に深くくわえこみ、乳状のものを吐き出してあたえる。
なるほど、これがはぐくむということであろう、と私は感動した。
母も子もそのときのなんと真剣で一心不乱であることか。
 赤ん坊を捨てたり、殺したりすることのあまりにも多すぎるこのごろの人間社会の風潮を見ていると、小鳥のけなげさがいとおしくなる。
都会の近郊のあのはげしい開発ぶりを見ると、小鳥の世界だって決して生き易いはずはないのである。
それでも彼らは自分に出来るだけの努力をして、ふなを育てる。
人間はもう少しつつましやかになるべきではないだろうか、と考えてしまうのも、彼らの生きる姿の真剣さを見るときである。
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)