2022年8月23日火曜日

処暑

 朝、戸を開けると少し涼しい感じがして処暑らしいかなと思ったけど…
公園を歩いていると風がほとんどなく汗が吹き出しました。
天気が変わりやすい、天気予報通りにはならないと思うのは、山を歩いていた経験からです。
青空が見えていたと思ったら、急に空が真っ暗になり雨が降り出したことや、
山小屋に到着したとたん近くに落雷があったことも。
前日まで台風のことがニュースにならなかったのに
急にスピードを上げて接近してきたこともあります。
そんな経験から、どんなに晴れていても空を見上げ、雲の動きなどに注意していました。

ことしの記録的な暑さや大雨 原因は 今後の天候は」(NHK)
秋の味覚といえばサンマなんですが、
最近、不漁で庶民の食卓から遠ざかっているかも…
サンマ初水揚げ 1キロ5万円 去年の5倍以上も 北海道 根室」(NHK 8月18日)

気になる記事が

【アニサキス症】食中毒激増!背景に2つの理由……」(東洋経済ONLINE 8月20日)
予防策として
①内臓は生で食べない
②加熱する
③冷凍する
④包丁で細かく刻む・しっかり噛む
⑤養殖魚を選ぶ
⑥よく見て食べる
などがあるそうです。
  さんま
 サンマ(秋刀魚)を焼く煙が月の光にぬれてたなびく。
こんな情景は珍しくなったが、サンマはやはり秋を感じさせる。
分布域は北太平洋の東西にまたがり、いくつかの集団に分かれて暮らす。
親潮にのって三陸沖を南下する群れが秋の味覚としてもてはやされる。
 関西ではサイラと呼ばれ、古くから庶民に人気があった。
塩ものや灯油の原料にされたようである。
サイラはサンマの学名の種小名(生物の学名を二名法で表すとき、属名につづいて、その種の特徴をあらわす語)として、今でも国際的に通用する。
(『四季の博物誌』 荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
 サンマの一生は流れ藻のゆりかごから始まる。
卵は海に漂う海藻や木片などにところかまわず産みつけられるので、生まれつきの放浪を余儀なくされる。
直径2ミリ前後の卵には、付着糸があってこれが物にからみつく。
孵化した子魚は体長7ミリ足らずで、背中には青緑色の迷彩を施し、腹側には銀白色の化粧をしている。
消化管はでき上がっているが、口から肛門まで直走する簡単なものである。
大きくなっても胃は形成されず、短い腸管だけで食物の消化と吸収の役をこなす。
食いだめがきかず、いつもほどほどに食べながら泳ぐ。
だから不格好な太り方はしない。
 サンマはサヨリやトビウオに近縁で、幼少のころから、水面近くではねたり物をつつくくせがある。
なかには海に捨てられた輪ゴムにまで、頭を突っ込むいたずら者がいるらしく、そのまま成長して、後頭部に輪ゴムをはめたサンマがときどきとれる。
産卵期が近づくと、もっと執拗に漂流物にまつわりつくようになる。
この習性を利用したのが、古くから佐渡に伝わる「手づかみ漁法」である。
海面にムシロを浮かべその下に海藻をぶら下げておくと、多数のサンマが体をすり寄せてくる。
ムシロの穴から海中に手を入れると、興奮したサンマが指の間に食い込むので、難なくつかめるという。
少年が一度は夢に見るような話である。
 太平洋側を南下する育ちの早いサンマの一部は秋から冬に、多くは春に反転して北上する途上で、四国から関東に至る海域で産卵する。
日本海では、大きいものは秋に、中くらいのものは春に産卵する。
あごの先端がオリーブ色をしているのが雌である。
とがったあごに口紅をつけ、輪ゴムのネックレスしたサンマは、集魚灯の光が輝く舞台で秋風の笛に合わせて躍るピエロの役にぴったりである。 (岩井 保)
(『四季の博物誌』 荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)
処暑の頃に地蔵盆が行われます。

地蔵盆【じぞうぼん】
 送り盆の後に

 月遅れのお盆の最後は送り盆で、京都では8月16日の夜に東山大文字などで知られた五山の送り火が行われる。
これは文献の上では慶長8年(1603)に行われており、四百年以上も続く行事である。
京都市中の人たちは、先祖供養のための護摩木(ごまぎ)を奉納し、これが山に運ばれ送り火が点火される。
(『日本の歳時伝承』小川直之 角川ソフィア文庫 2018年)
 京都市中では五山の送り火が終わると、町内ごとの「地蔵盆」となる。
現在は22、3日あるいはこの近くの日曜日に行われる場合が多く、子どもたちにとっては夏休み最後の行事となっている。
さらに28日には「大日盆(だいにちぼん)」といい、大人たちが町内の大日尊をまつる。
「河内音頭(かわちおんど)」発祥の地といわれている大阪府八尾(やお)市常光寺(じょうこうじ)の盆踊りは、地蔵盆の期日の行われ、富山市八尾町(やつおまち)の盆踊り「おわら風の盆」は、9月1日から3日までである。
これは町練りをすることから「回り盆」とよばれ、元禄(げんろく)年間(1688~1704)から始まったという。
また、念仏踊りであるエイサーが行われる沖縄諸島、翁(おきな)と媼(おうな)などが家々をまわるアンガマが出る石垣島など、琉球諸島のお盆は8月下旬の旧暦7月13日からで、この時期に里帰りする人も多い。
 月遅れのお盆が終わった後も、旧暦のお盆が通常の8月下旬にあり、盆に関連する歳時は9月上旬まで続く。

(「沖縄のお盆 一族が再会する夜」みちしる 2012年)
 地蔵盆

 「地蔵盆」は大阪府や京都府、兵庫県、滋賀県など近畿地方の人にとっては、馴染(なじ)み深く、大人たちにとっては懐かしい行事でもある。
文化庁文化財保護部刊『盆行事』Ⅲによれいば、京都市の上賀茂(かみがも)神社に近い上賀茂中大路(なかおおじ)町では8月22日、3日に地蔵盆を行う。
この町内では町内の集会所の脇に石造の地蔵尊(じぞうそん)と大日尊をまつり、この地蔵尊は「安産地蔵」として信仰を集めている。
地蔵盆はその数日前の地蔵尊の化粧直しから始まる。
石の地蔵を水で洗い、改めて全面に真白く白粉(おしろい)を塗り、22日には絵具で顔や衣装(いしょう)、光輪などを描く。
いわゆる化粧地蔵である。
化粧が終わると金襴(きんらん)のよだれかけを懸け、お堂には几帳(きちょう)を下げて飾る。
地蔵尊の前には供物として水や酒、紅白の重ね餅(もち)をあげ、ロウソク台を置き、両脇には花を供える。
こうして地蔵尊の準備が済むと、お堂の前にはその年に子どもが生まれた家が奉納した提灯(ちょうちん)を吊り、他の町内との境には、子どもたちが絵を描いた大きな角行灯(あんどん)を道に渡し、小さな角行灯を町内の随所に吊る。
 23日には、町内の人は「六地蔵巡り」を行う。
これは六ヶ所の地蔵尊をお参りしてまわることで、この時には思い思いのものを各地蔵に供える。
すると参拝者には、マンダラと呼ばれる赤い紙に地蔵尊の姿を印判したお札が授与される。
 この日は、子どもたちは朝から地蔵尊をまつる集会所に集まり、町内の人が用意した福引やスイカ割りなどで遊び、お菓子や絵本などのプレゼントをもらう。
夜になると太鼓打ちやゲーム、盆踊りなどが行われて地蔵盆は終わる。
 京都市中の地蔵盆では、「畚降(ふごお)ろし」といい、福引の景品を民家の2階からザルのようなものに入れて下に降ろし、子どもに与えることも行われ、現在は子どもたちにとってはレクリエーションとなっている場合が多い。
しかし、戦前までは23、4日が地蔵盆で、地蔵堂に提灯や行灯を吊り、地蔵尊に鏡餅やカボチャ、里芋(さといも)、ホオズキなどを供えた。
23日の夕方には子どもたちがここに集まり、百万遍念仏を唱える所もあり、子ども中心の信仰行事であった。
 こうした地蔵盆の姿はまだ各地に見られ、福井県小浜(おばま)市西津(にしづ)では子どもたちが地蔵をまつっている。
地蔵盆の前になると子どもたちが石の地蔵を海で洗い、ベンガラや絵具で化粧を行う。
この地蔵をお堂に納め、お堂に行灯や五色の紙の幡(はた)を飾る。
8月23日には町内の子どもたちがお堂に集まり、「なーむ地蔵大菩薩(だいぼさつ)、唐辛子、辛子、山椒(さんしょ)と味噌(みそ)と唐辛子、参らんと通さんぞ」などと太鼓と鉦(かね)を叩(たた)きながら囃(はや)し、道行く人に参拝を促す。
夜には町内の人たちがお堂で念仏をあげて地蔵盆が終わるが、小浜の地蔵盆は子どもたちが中心で、年長者が「大将」となって行事を指揮している。
(『日本の歳時伝承』小川直之 角川ソフィア文庫 2018年)

京の地蔵盆」(京都をつなぐ無形文化遺産)

小浜西津の地蔵盆 心ときめく極彩色のお地蔵さま」(野口さとこ サライ 2017年8月20日)

地蔵盆のうた」(西津小学校5年生 YouTube)
今朝の父の一枚です(^^)/
今年生まれた子のようです。

 地蔵会のすぎし風の木風の川  斎藤梅子

 村外れにお地蔵さんがまつられた光景は懐(なつ)かしい。
世の人みんなの苦を除き福利を与える菩薩(ぼさつ)だ。
ことに子供や旅人を守ってくれる。
それに報いて子供らは、お地蔵さんに香華(こうげ)を供える風習がある。
 地蔵盆、地蔵会(え)は京都では8月23日、24日(古くは陰暦七月)の地蔵菩薩の縁日に行う会式である。
この日が過ぎると風景は微妙に変化する。
それは長い間の経験から肌身で感じてきたことだろう。
そして、ただいま眼前の木や川へそよぐ風にも秋の兆(きざ)しを見て詠んだ叙情の一句。
 1929~ 徳島県生まれ。「青海波」創刊主宰。
 句集『藍甕』『朱夏』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)