でも、なんか再び降り出しそうな空だったので
MFの50㎜マクロで出かけましたp(^^)q
土曜日に放送されたブラタモリ
2018年9月24日に歩いた三津寺墓地が紹介されていました。
σ(^-^;がぶらぶら歩いたのは
織田作之助のことが気になって歩いたのですが(^^ゞ
ちなみに「大坂七墓」の一つ「南浜墓地」に
「大塩家先祖墓」があります(2018年11月10日)。
●大阪七墓「昔と今」巡り(湯川 敏男 大阪検定客員研究員)
今月は『平家物語』で、講師が能楽師の安田登さん
いつものは講師以外の方が朗読をされるのですが
今回は、安田登さんの朗読?に
琵琶奏者の塩高和之さんが伴奏をされています♪
安田さんのブログのCATEGORYに
「100分de名著」があるので読まれると面白いですよ!
町歩きの参考にしている 『京都<千年の都>の歴史』より
「六波羅と西八条」を転記したいと思いますφ(..)
六波羅と西八条
洛東、鳥部野の入り口東山区轆轤(ろくろ)町には、
六波羅蜜寺がある。
平安中期の僧で、阿弥陀仏の名号を唱えて民衆を教化した
市聖空也(いちのひじり くうや)の創建と伝える。
院政期に入って、この地に伊勢平氏の正盛(まさもり)が阿弥陀堂を造り、
その子忠盛(ただもり)の代になって一町四方の邸宅を造った。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
正盛は嘉承(かじょう)3年(1108)、
西国で乱行を続けた源義親(よしちか)の追討を果たして凱旋、
武名をあげた。
同年3月、延暦寺の衆徒(しゅと)[諸大寺の僧侶たち、
大衆(だいしゅ)とも、武装すればいわゆる僧兵]・
日吉社の神人(じんにん)らが
日吉社の神輿(延暦寺の鎮守神の乗物)を押し立てて入京を試みる。
これを阻止する軍兵に、正盛率いる平氏が起用された。
以後頻発する延暦寺や興福寺の衆徒による
強訴[ごうそ(示威行動をともなう訴訟]の暴発をくい止めるため、
そのつど平氏を主力とする軍兵が、
西坂本(一乗寺付近)や宇治に派遣される。
忠盛は、院の近習(きんじゅ)、
院の親衛軍の首領格として白河・鳥羽両院のあつい信任をえ、
また富裕な受領として、院のための造寺・造塔に貢献した。
その子清盛は、保元・平治の乱という二つの内乱を
勝ち抜いて政治の実権を握り、六波羅を一大軍事集落にした。
平家の六波羅は、北は六波羅蜜寺のある五条末、
つまり平安京五条大路(現松原通)を京外東方に延長したライン、
南は同じく六条末で、南北約500メートルにおよび、
東西は現鴨川東岸約100メートルの地点から東に約600メートル以上、
積算して「廿余町」の面積がある。
この空間には一族親類や従者、
上京した地方武士の家々が密集して立ちならび、
細かく数えれば「屋数三千二百余宇」におよぶ[延慶(えんぎょう)本『平家物語』]。
それまで都のうちにも近傍にも、
このような一門とその関係者が大挙、
凝集して住まいするゾーンは存在しなかった。
その中心は清盛の泉殿で、忠盛はそれを継承したものである。
権力を握った平家にはもう一つ拠点があった。
西八条である。
JR京都線で京都駅から大坂方面に向かうと、
すぐに北側の車窓に森と芝生の原っぱからなる梅小路公園が見える。
左京のほぼ南西隅だが、当時は事実上京外になっていた。
最盛期には、120メートル四方の町六つ分がまとまった大きな空間に、
大小50余棟の建物がならんでいた。
中心は八条坊門(左京八条一坊11町)のそれ。
清盛は太政大臣を経て、
仁安(にんあん)4年(1169)表向き政界から「引退」し、
一門の代表権と六波羅泉殿を嫡子重盛(しげもり)に譲って、
摂津国八部(やたべ)郡福原(現神戸市兵庫区平野)の別荘に住んだ。
清盛の妻時子(ときこ)も六波羅を出たが、西八条に留まった。
清盛は政治上の重大局面などで福原から上洛したときは、
必ず時子のいる西八条に入っている。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)