2019年5月2日木曜日

寒いと思ったら…

 出かける時に寒いと思ったけど
次第に暑くなってきました…(^-^;
今朝の朝日新聞「天声人語」の書き出しです。

「十八になる私の子供は内向的でハキハキしません。
ギターのプロになるのだと申します。
どうしたらよいでしょう」。
50年前、本紙の人生相談の欄に投稿が載った。


忌野清志郎さんが2009年5月2日
虹を渡り銀河系遥か彼方へ」行ってから10年になるのですね。

当時、東京都立日野高校で清志郎さんの担任だったのは、
美術教師の小林晴雄さん。
「何年か好きなことをやらせてみましょう」。
息子の将来を案じる母をそう説得した。
清志郎さんの代表曲の一つ「ぼくの好きな先生」のモデルになった人だ。

「令和」関連の催しが多く、みんなウキウキしているのだけど
昭和から平成になるときはこんな感じじゃなかったと思う。
昭和天皇が亡くなり世の中は、
自粛ムードで歌舞音曲なんて不謹慎だったような…
上皇さまが生前退位されたおかげで
経済効果が上がっていると思うのは変かな?

女性宮家の創設 保守層中心に慎重論 議論見通せず
女性天皇や女性宮家に反対されている方は
天皇制がなくなってもしかたないと思っているのだろうな
その意味で天皇制廃止論者と言えるかもしれないね。
「へそくり」の語源になった雑草がある。
畑に見られる雑草、カラスビシャクである。
カラスビシャクの芋は栗に似ているが、
茎がとれたくぼみがへそのように見えるので「へそ栗」の別名がある。
この芋は漢方で「半夏(はんげ)」と呼ばれ、吐き気止めの薬になる。
そこで、農家の主婦は畑の草むしりをしながら、
この「へそ栗」を薬屋へ売って小銭を稼いだ。
これがへそくりの語源だという。
(『身近な雑草の愉快な生きかた
 稲垣栄洋、 三上 修 ちくま文庫 2011年)
昨日の記事で日本書紀より「武烈天皇の暴虐」を転記しました。
武烈天皇の崩御の年齢は検索すると諸説あるようですが
これから転記する本では
在位の2年に妊婦の腹を割き、胎児を取り出したのが12歳。
崩御した8年は18歳だとしています。
(忌野清志郎さんのエピソードも18歳)
このような天皇を正史の中に書かないといけなかったのかなと思います。
継体天皇の擁立について転記したいと思いますφ(..)
古代天皇家の交替劇 ●継体・欽明 水野 祐
継体天皇の擁立事情
 記紀の所伝によると、
仁徳天皇の皇統を継ぐ最後の天皇は武烈天皇である。
この天皇は歴代天皇中、希代(きだい)の暴君であったとされる。
在位はわずか8年であるが、
崩御時に18歳であったとされるこの天皇は、
ほぼ毎年一回ずつ暴虐行為を行ったということが「武烈紀」に記されている。
すなわち、(表を省略 昨日の記事を参照してください。)
(『人物群像・日本の歴史 第1巻 古代の大王』学研 1997年)
 右の表で明らかなように、この伝説は全く作為されたものである。
なぜこの天皇に限ってかかる暴君伝説が集中的に現れるのかに意味がある。
それは始祖仁徳天皇が聖帝として讃えられるのに対し、
この皇統を断絶する武烈天皇を暴君とするのは、
中国の王朝の興廃の理由に似せて、
合理的に仁徳王朝の断絶の所以(ゆえん)を説くところに目的があった。
それは明らかに、武烈天皇についで天皇位につく継体天皇が、
大和以外の地、越前三国[えちぜんみくに(福井県坂井郡)]から
擁立されることを合理化するための伏線にほかならない、
伝説的作為であった。
 大伴大連金村(おおとものおおむらじかねむら)が越前三国から、
河内国樟葉宮[(くすはのみや)大阪府枚方市樟葉(くずは)]に迎え入れて、
断絶した仁徳王朝の跡を継承させた男大迹(おおと)王は、
確かに伝説上でさえ、
前王朝とは直接血縁関係にない天皇であったことは明確である。
 奈良時代に選定されたと思われる歴代天皇の漢風諡号(しごう)で、
この天皇を「継体」と命名したのは、
当代の有識人の間には、明確に、
この天皇で皇統が改まっているという認識があったことを意味する。
すなわち、「継」は血縁関係なくして継承する場合に用いられる漢字であるから、
武烈天皇までの天皇と、
継体天皇とは血縁関係がないことを知っていての命名ということになる。
 しかし古代の天皇としての資質は、
存外厳重な慣習法的不文律があって、
簡単に豪族の政治的権力よって、
恣意(しい)的に皇位継承が可能であったわけではない。
継体天皇を擁立したのは、
確かに当時最大の権力者であった大伴大連金村に違いないが、
そこにこぎつけるまで、彼は非常に苦心したようである。
 古代天皇の資質としては、まず出自(しゅつじ)の神聖性と、
天皇としてふさわしい雅量(がりょう)と容姿とである。
武烈崩ずると金村は直ちに継体擁立を策したのではなく、
まず仲哀(ちゅうあい)天皇五世の孫にあたる
丹波国桑田郡(京都府北桑田郡・亀岡市)にいた
倭彦(やまとひこ)王に白羽の矢を立て兵仗[(ひょうじょう)武器]を整え、
乗輿[(じょうよ)天皇の車馬]を用意し、
警護の兵をつけて迎えに行ったが、
倭彦王はその様子に恐怖し、山谷に逃れ行方不明になったとある。
これでは天皇になる資質に乏しいので断念して継体天皇擁立となったということである。
(『人物群像・日本の歴史 第1巻 古代の大王』学研 1997年)
【継】[繼]ケイ つぐ・まま
②腹ちがいの間柄にある。まましい。「継母・継子」
(『岩波 漢語辞典』山口明穂、竹田晃編 岩波書店 1987年)
今朝の父の一枚です。
クマバチのオスです。
クマバチのオスとメスの見分け方」(動画)