まだ降らないと思うけど
最近の天気は変わりやすいので
50mmマクロレンズ(MF)で出かけました。
ここ二日出会えなかったカルガモの親子が
元気にしていたのでホッとしました(^^)v
昨日に続き『竹と暮らし』より
「竹はどのように使われてきたか」を転記しますφ(..)
竹はどのように使われてきたか
これは、竹やササが日本の隅々に生い茂り、
これを活用したことからも分かる。
まさに日本の生活文化史は、
数千年の昔、竹から始まったともいえる。
それが、近年になって、工業化、都市化が進行する中で、
竹は急激に身の回りから姿を消し始めた。
長い伝承の歴史の中で、洗練された技芸も、竹に対する豊かな知識も、
愛着すらもが奪い去られつつある。
(『竹と暮し 小学館創造選書59』
上田弘一郎編著 小学館 昭和58年)
竹と日本人がどう関わり合ったか、あるいは、
今なお〝ドッコイ生きている〟様子を眺めることは意義深いことである。
そして、知れば知るほど、その多様な関係や意外な事実に驚かされる。
では、古代からの推移を最近の出土事例によってみるとしよう。
縄文時代(1万年~2300年前)のもので、
各所に出土している竹加工品に多いものは、「竹籠(かご)」類である。
たとえば、青森県八戸出土の「漆塗り竹籠[現在の籠胎(ろうたい)漆器]」や
熊本県曽畑貝塚や福井県鳥浜遺跡から出土した竹の編みものがある。
弥生時代(2300~1700年前)に入ると、出土物としては、
大阪八尾市山賀遺跡から魚捕りの「筌[うえ(もんどり)]」があり、
名古屋大学研究生の植松なおみ氏の調査では、
東北から九州まで35の遺跡から51の竹籠類が出土していることがわかった。
いずれも生活必需品で、生活文化は竹籠からといえよう。
その編み方は「網代(あじろ)編み」、「もじり編み」、
「笊(ざる)目編み」、「六つ目編み」と変化してきたようである。
当時、素材の竹やササが、身近に育っていたと思われるが、
竹籠類は通気、通水性がよく、用途に応じた形に変えられ、
軟らかで壊れにくく、運ぶのに土器よりも軽い。
この有用性の活用は、古代人の知恵だと思う。
大昔は竹を裂くのに、小刀や鋸(のこ)はなく、
竹を石や木の棒で打ち砕いて「ひご」をつくり、
これで編んだのだろうと推測されている。
古墳時代(1700年~1500年前)になると
出土品には「矢柄(がら)」や「櫛(くし)」、
あるいは「竹玉」などの祭祀具がある。
ニニギノミコトの妃、コノハナサクヤヒメが皇子分娩(べん)のとき、
へその緒を「竹べら」で切ったというのは、
金物のない時代に清浄な竹の活用であり、嘘とは思えない。
『古事記』によると、雄略天皇(478年)のころに、
「笙(しょう)」や「笛」の記事がみられ、
天武天皇のころ、矢竹を「弓の矢」として、
太宰府から筑紫へ送ったとある。
そのほか、竹が日常生活において重用されていたことについては、
『古今要覧稿』に
「弓材、矢、旗竿(さお)、竹槍(やり)、筧(かけい)、傘(かさ)骨、
扇骨、笛、網代(あじろ)、花尊(はないけ)、杓(しゃく)、箸(はし)、
火縄、筆管、烟管(きせる)、釣竿、簾(すだれ)など用途多くして、
その徳は君子に比するのみならず、
凡草衆木に優れて実に、天下の良材である。
また、籜(たけのかわ)は履物そのほかに、
竹の葉、竹筎(ちくじょ)、竹瀝(ちくれき)を薬用に竹の根を産乳に用いた」
とあることからも理解されるよう。
古代に用いた実物は、各所で発見されているが、
奈良朝時代(1200余年前)の代表的な竹製品は、
正倉院の所蔵品にうかがえる。
その一部を紹介すると、竹稈(かん)そのものの利用には、
「竿(かん)」、「笙[しょう(呉竹生)]」、
「横笛」、「簫[しょう(甘竹簫)]、
「尺八」などの楽器や「筆軸」、「矢柄」など、
編物の竹加工品には、「華籠(けご)」、
「最勝王経帙(さいしょうおうきょうのちつ)」がある。
これらの素材として、ハチク、メダケ、トウチクなどが用いられ、
いずれも千年以上、虫がつかずに保存されてきた。
竹製尺八には、各種のものがあるが、
なかでも、目だつのは刻彫尺八である。
華籠(けご)は、竹籠に生花を盛り、
散華供養(さんげくよう)に用いられたものであるが、
天平勝宝7年(755年)、聖武天皇の生母、
藤原宮子の一周忌斎会(さいえ)に用いられたといわれている。
最勝王経帙は、巻子装の経典を数巻ずつ、
まとめて包む簾状のもので、竹工芸の進歩を物語っている。
(『竹と暮し 小学館創造選書59』
上田弘一郎編著 小学館 昭和58年)
続きを後日、転記しますφ(..)