今日は、父と妹と三人で秋季彼岸会にお参りに行きました。
法要が終わり休憩所で少し休憩してからお墓に向かうと
イチョウの種子が台風で落ちることなく実っていました。
お墓参りが終わって墓所を出ると
手水の前で外国人旅行客がガイドさんから作法の説明を受けていました。
父と妹と別れてテクテク歩き出しましたp(^-^)q
赤穂義士墓所(天王寺区六万体町 吉祥寺)【大阪市顕彰史跡第195号】
吉祥寺は寛永7(1630)年に開山した曹洞宗寺院である。
第十一代住職・縦鎌(じゅうれん)和尚が
播州赤穂から迎えられたことから赤穂浅野家との繋がりができた。
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は
参勤交代の折りなど度々この寺を訪れており、
山号の「万松山」も高輪泉岳寺の「萬松山」にあやかって長矩から与えられたものである。
長矩は江戸城中での刃傷事件(元禄14(1701)年)により、即日切腹となった。
長矩の墓はその後早い時期に芸州の浅野本家によって建立されたと伝えられる。
大石内蔵助・主税らの墓は、討入り(元禄15年)の後に義士たちと別れ
浅野本家に討入りの報告に向かった寺坂吉右衛門が、
途中、吉祥寺に立ち寄り、義士たちの遺髪・遺爪等を供養のために託したのが契機とされている。
織田作之助の生れた生玉前町あたりですが、空襲で殆どが焼けてしまい
当時を偲ぶものはありません。
「種吉」のモデルは作之助の父・鶴吉
織田作之助の父親「鶴吉」は、京都出身で腕の良い板前だった。
もともとは士族の出で、織田信長の家系に連なる一族だと語っていたというが真相は分らない。
大阪へ出て、あちこちの料亭で働いた後、
1907(明治40)年ごろ、現在の天王寺区生玉前町に仕出屋「魚鶴」を開いた。
作之助はこの仕出屋時代に生れた。
「安くてうまい」と評判の店はかなり繁盛していたらしいが、
鶴吉は『夫婦善哉』の種吉と同様に商売上手とはいえず、やがて店を失うことになる。
一家は店のあった表通りから、上汐町(当時は上塩町)の路地裏に引っ越した。
その横丁には実際に「種やんの一銭天婦羅」という店があり、
種吉の名前はこの「種やん」から拝借したものらしいが、
人物像などは父親の鶴吉がモデルである。
(「名作旅訳文庫6大阪 『夫婦善哉』『アド・バルーン』織田作之助」田中達也 JTBパブリッシング 2009年)
源聖寺(げんしょうじ)坂
この坂は、登り口に源聖寺があるので、その名をとっている。
付近一帯は、寺町として長い歴史を持つ。
齢延寺には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東畡、同南岳父子の墓があり、
銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくる
<お千代、半兵衛>の比翼塚が建てられている。
救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)
この観音様は、法隆寺夢殿の救世観音菩薩を模して鋳造されました。
この仏様より前に、二つの同じお仏像が造られ、
一体は一心寺、もう一体は京都の清水寺に納められました。
ところがこの二体の仏様は、第二次世界大戦の折、物資供出により、
戦争で使う銃弾の材料にされたのです。
ご自身の兄弟をこうした形で失うという悲しみを超えられたのですから、
尚一層大きな力で、我々の悲しみ、苦しみをしっかり聞き届けて、お救い下さることでしょう。
ナニワの台所「黒門市場」
「黒門市場」は、大阪ミナミを代表する商店街。
「日本橋一丁目交差点」の東から南に向かう総延長580メートルのアーケード街で、
鮮魚・精肉・青果をはじめさまざまな食料品、衣料品、飲食…など約150店が立ち並んでいる。
明治末期まで近くにあった圓明寺という寺の「黒い山門」が目印だったのでこの名が付いた。
現在も活気のある市場の雰囲気を味わいながら買い物ができるのが魅力だが、
スーパーマーケットなどのなかった昭和初期には、まさに「ナニワの台所」だった。
早朝から午前中は白衣の板前さん、午後は一般の買い物客、
夕方以降は料理屋などの玄人衆…と一日中買い物客が途切れなかったという。
蝶子の実家の上汐町からは直線距離で1キロも離れていない。
ただ、実際に黒門の路地裏で所帯をもったのは、
蝶子のモデルとなった千代ではなく妹の登美子だった。
(「名作旅訳文庫6大阪 『夫婦善哉』『アド・バルーン』織田作之助」田中達也 JTBパブリッシング 2009年)
多くの都市伝説を生んだ千日前
「楽天地」の跡地は、その後さまざまな変遷を経て現在に至っている。
1932(昭和7)年に「歌舞伎座」がオープン。
1958(昭和33)年の歌舞伎座移転後は、
ショッピングモール「千日デパート」として営業していたが、
1972(昭和47)年、火災により多数の死傷者を出す(千日デパート火災)。
跡地は長らく放置され、
1984(昭和59)年ようやく「プランタンなんば」として営業を再開。
2001(平成13)年からはプランタンに代わり
「ビックカメラなんば店」がキーテナントとして入居している。
このように千日前は、都心の繁華街、一等地でありながら、
同時に火災や死者の記憶が濃い土地でもある。
とくに千日デパート火災後は、幽霊を見たといううわさが絶えず、
さまざまな都市伝説が生まれた。
実際、江戸時代にはこの場所は刑場であり、墓地だったという歴史もある。
現在は、千日前通りに面して「三津寺墓地」が残るだけで、
それ以外はまったく面影をとどめない。
(「名作旅訳文庫6大阪 『夫婦善哉』『アド・バルーン』織田作之助」田中達也 JTBパブリッシング 2009年)
高校、大学時代の友人は、千日デパートの焼跡の警備員のアルバイトをしていました。
前任者が幽霊を見たと言って辞めたので、その後に大学生だった友人が働いていました。
夜の警備で回っていましたが館内は電気がつきません。
壁をライトで照らすと爪痕が浮かび上がってきたそうです。
友人は幽霊は見なかったのですが、かなり恐かったそうです(´。`)
大阪の象徴、千日前の「法善寺」
さまざまな小説、映画、歌…などに取り上げられ、
最も大阪らしい名所といえるのが千日前の「法善寺」。
江戸時代、南に隣接する「竹林寺」(今はない)と共に
千日ごとに念仏供養を行っていたので、別名「千日寺」と呼ばれた。
「千日前」とは「千日寺の前」という意味で、地名の由来にもなっている。
戦災で本堂を焼失し、金比羅堂と不動明王だけが残った。
幅2メートルもない石畳の路地を挟んで向かい合う二つの小さなお堂は、
夜になると軒先にずらりと並んだちょうちんや灯明の明りが揺れ、
何ともいえない風情がある。
特に不動明王は、水を掛けて願をかければかなう「水掛け不動さん」として有名。
多くの参詣者や観光客が水を掛けるため、びっしりと分厚い緑のコケに覆われている。
この水掛け不動の前の路地は「法善寺参道」。
広く知られている「法善寺横丁」は、参道より一本北側の路地になる。
いずれも古くから飲食店や寄席などが立ち並んでいた小路だが、
決して老舗ばかりではなく新しく洒落た店もけっこうある。
(「名作旅訳文庫6大阪 『夫婦善哉』『アド・バルーン』織田作之助」田中達也 JTBパブリッシング 2009年)
今日はここのオムライスが食べたくてきました(^。^)
畳敷きの店内に次々とお客さんが来られますが
ゆったりと食べる事ができて嬉しかったです。
若い人が多かったですし、外国からの観光客も多かった。
ただ、膝の悪い人は支店に行かれた方がいいと思います。
オムライス 洋食からの偉大な発明
オムライスも大阪の店、北極星の発案である。
ケチャップライスを薄焼き卵で丸くくるんだ料理が出来上がった。
時は1926年(大正15)、胃の悪い常連客がオムレツとライス(白ご飯)を注文し、
毎日同じものを出すのは気の毒と、その場で考案された料理という。
発明には高い技量が必要というのは、この例を見るとよく分かる。
薄焼き卵で量の多いご飯をくるむのは、素人には難しい。
しかも、今まで誰もやったことのないことを、
客を前にしてその場で素早くやってのけるのは、
プロの洋食料理人であっても容易ならざることと想像する。
卓抜の技がつくりだす紡錘形の美しいフォルムは、見とれるほど美しい。
その場で客と会話し、
「オムレツとライスやさかい、オムライスにでもしとこか」と即座に名前も決まった。
北極星は、ホルモン料理し、牛の内臓などの料理をホルモンとして広めた店である。
大阪にはかつて、こうした食のアイデアマンがたくさんいたようだ。
大阪の食の発明と言えばインスタントラーメン、
レトルトカレー、即席カレールウなどが話題に上りがちだが、
そうした工場生産品だけでなく、料理人という市井の知恵にこそ着目したい。
(『大阪の教科書 大阪検定公式テキスト(旧版)』橋爪神也監修 創元社編集部編 2009年)
賑やかな場所に出てきました(^^ )
四天王寺前夕陽ヶ丘駅から心斎橋駅まで歩いたのですが
地図を持っているのに途中でいつもの悪い癖が出て
道に迷ったりしたので万歩計は16000歩以上になっていました(゜o゜;)
今日は「中秋の名月」ですね。
ところで今日は「仏滅」なんですよね。
たまたま仏滅になったのでしょうか?
どうも中秋の名月の日は、毎年、仏滅になるそうです。
そのことを書いた本に出会ったのですが、
歩き疲れたので明日転記します(^_-)