2019年5月5日日曜日

石清水八幡宮

今日は「こどもの日」
「国民の祝日」について”を見ると

こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

とあるように「母に感謝する」日なんです。

そして女が威張る日でもあるそうですよp(^^)q
女の家
 一方、男児の祝いとは逆に、
女の家・女の宿・女の夜などと称してこの日を
女の日とする伝承も広く分布している。
軒先に菖蒲・蓬の葺いてあるこの日だけは女に家の権利があるとか、
女が上座に座る日だとかいうのがそれである。
このような伝承は、かつて田植えを控えたこの時期に、
村の男たちが家から出払ってどこかに籠って禊(みそぎ)をしたあと、
田の神に仮装して訪れてくるのに対し、
女性はそれを迎え待遇する巫女(みこ)として家に籠っていたという、
古い信仰を背景にした習俗の名残りではないかと考えられている。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』
 田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
父と石清水八幡宮にお参りに来ました
昨夜、夜間特別拝観「石清水灯燎華」が行われたようです。

 5月5日は母の誕生日であるとともに祖母の命日でもあります。
もうじき父は伯母の一周忌に徳之島に旅立つのですが
4月に弁膜症の手術をした叔父は、
まだICUから出ることができずにいます。
伯母(一番下の叔父の奥さん)が先日、
自転車に乗っていて腰の骨をおったとのこと
気がかりなことが次々と起こっています。
先日、京都国立博物館で「一遍聖絵」を見てきました。
一遍聖絵の九巻に石清水八幡宮が書かれています。
  一遍聖絵 第九

 弘安九年冬のころ、八幡宮に参し給ふ。
大菩薩御託宣文云、
往昔出家名法蔵、得名報身住浄土、
今来娑婆世界中、即為護念々仏人
〔往昔出家して法蔵と名づけ、名を得て報身となり浄土に住す。
 今娑婆世界中に来たり、即ち念仏人を護念すと為す〕文。

  同御詠云、
   極楽にまいらむとおもふこゝろにて
    南無阿弥陀仏といふぞ三心

 因位の悲願、果後の方便、
ことごとく念仏の衆生のためならずといふ事なし。
しかあれば、金方刹の月をあふがむ人は、
頭を南山の廟にかたぶけ、
石清水の流をくまむたぐひは、
心を西土の教にかけざらむ。
 よどのうへのと申所におはしましゝ時、
大炊御門(おおいみかど)の二品禅門のうちわをもち給たりけるに、
とりえのいさゝかけがれて侍りける、
こゝろにかゝりて思給けれども、もちておはしたりけるに、
聖うちみたまひて、なにといふことなく扇をこひて、
こがたなにてえをけづりてかへしたまひたりけり。

八幡宮 石清水八幡宮。
 京都府八幡市高坊にあって、男山八幡宮ともいい、
 貞観元年(859)宇佐八幡を勧請、平安京の守護神。

法蔵 法蔵菩薩が四十八の大願をおこし、
 修行の結果、阿弥陀仏となる。

三心 至誠心・深心・廻向発願心。

果後の方便 成仏後の衆生済度。

金方刹 極楽浄土。

南山の廟 八幡宮。

よどのうへの 京都府向日市上植野、大山崎町下植野のあたり。
 木津・宇治・桂の三川が合流したところが淀。

大炊御門の二品禅門  大炊御門家は藤原北家師実流で、
 京極経実を始祖とし、弘安九年(1286)時、
 大炊御門を称し、藤原信嗣と冬嗣がいた。
 両人は冬忠の子で兄弟。そのうちの一人であろう。 
(『一遍聖絵』聖戒 編、大橋俊雄校注 岩波文庫 2000年)
奥に見えるのは「三ノ鳥居」
「一遍聖繪」の九巻(7~12/32)
↓赤で囲んだ部分について
『新版 絵巻物による 日本常民生活絵引 第二巻』には
国立国会図書館の9巻「7/32」を参照してください。)
 巫女
 第9巻 石清水八幡宮の境内の一風景である。
そこは本社ではなく、摂社で本社にならんで左脇にある。
その本殿の縁に二人すわっている女は巫女であろう。
石清水にはもと多くの巫女が居た。
そして祈禱をおこなっていたのである。
『後太平記』に八幡宮で四脚四面に調伏の桟敷をかきあげ、
巫女内侍(ないし)300余人、幣帛(へいはく)をさかさにたて、
毒蛇の血でこれをそめ、ちはやをかえし着、裳をあげて肩に結び、
鈴鐸をふり太鼓をならし、逆にまうては順にかえし、
調伏(ちょうぶく)の神楽をすすめ、
三日三夜も祈ったことが見えているが、
石清水の巫女はそうしたことをして神に仕えていたものであろう。
神殿まえ、拝殿との間の土の上一人は土下座し、
一人は長床几(しょうぎ)に腰をおろして祈っているのは、
神の託宣をきこうとして祈っているものであろう。
そして石清水のような社では祈るだけでなく、
調伏の神楽などをおこなっていることがわかり、
しかもその人数もおびただしかったのである。
そうした社としての石清水の地位は高かったと思われる。
巫女は『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』や
『下学集(かがくしゅう)』にはカンナギとよまれている。
また『神道名目類聚抄(しんとうみょうもくるいじゅうしょう)』には、
ミコ、カンナギのほかにイチドノともいっている。
『太平記』にはキネのことばもある。
そして神楽の舞姫なり、また八乙女(やおとめ)
神楽乙女などともいい湯立(ゆだて)をつとめるのものをユミコといい、
所によってはイチドノともいうとある。
今でも京都府南部の神社ではイチドンなどといっている。
巫女には大きな神社に仕えたものもあり、
また民間に居るものもあった。
神社に使えるものは神子の字を書いたものが多い。
民間のものは遊行を事とするものがすくなくなかった。
地方あるいては託宣や祈禱を事とした。
この絵は神社につかえた巫女を描いたものとして興がある。
ただ絵が小さくて持ちものその他の細部がわからないのが残念である。
(『新版 絵巻物による 日本常民生活絵引 第二巻』
 編者 澁澤敬三 神奈川大学日本常民文化研究所 平凡社 1984年)