途中で黒い雲が出てきて風も吹きだした…
「非常に激しい雨のおそれ 西・東日本で土砂災害など警戒」(NHK)
昨日、六波羅発掘調査の現地説明会に参加したので
故・森浩一さんの『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』より
「武家政権と六波羅」を転記しますφ(..)
(出版元の「学生社」は、以前、検索できたのですが
最近、見つけることができません)
武家政権と六波羅
六波羅の地に愛宕寺ともいわれた珍皇寺や
六波羅蜜寺のあることはすでに述べた。
これとは対照的に、六波羅の地上に
往時の建物は何一つのこらないとはいえ、
平氏政権が拠点をおき
「一族親類郎従眷属(けんぞく)住所」
(延慶本『平家物語』の平家都落事)のあった
六波羅邸宅群や源頼朝が京都の拠点とした六波羅御亭、
さらに承久の乱後に北条泰時や時房が探題(たんだい)となった
六波羅探題など武家政権の拠点はずっと六波羅におかれた。
武家政権が京都を含む西国支配の拠点をどうして平安京内ではなく、
京外の鴨東(おうとう)にある六波羅に置きつづけたのであろうか。
平家が滅亡したあとも源頼朝が引きつぎ、
さらに北条政権も踏襲したのはどうしてだろうか。
このことは歴史上の事実ではあるが謎としてのこる。
(『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』
森浩一 学生社 2007年)
六波羅の地は平安京より東国と往来するのに
便利であると説明されることはあるが、
距離からみると大差はない。
それに平氏は伊勢を勢力の基盤にしていて、その説明だけでは弱い。
日宋貿易でもたらされる大量の財物をいれるため多数の倉を必要とし、
その敷地を確保するのに空き地の多い
六波羅を選んだとする見方もあるが、
すでにふれたように愛宕郡はそれなりに人家の多い土地だったから、
この視点は成立しない。
すでに触れたことだが六波羅の地名が
髑髏原(どくろはら)からついたと
推測できることと関係しているとぼくはみる。
武士は命をかけざるをえない戦いのあることを、
絶えず覚悟しておかねばならなかった。
つまり死に直面せざるをえない緊張の空間で暮らすのがよい。
六波羅の地はすでに説明したように、
その東方や南東方に一大葬地としての鳥辺山や鳥辺野がある。
隣接しているというより、葬地の一部であったともみられる。
のちに述べる平氏の泉殿には、
武家政権としての平家の祖である正盛を
葬ったとみられる正盛堂があった。
天皇や皇族あるいは貴族といえでも、
死にさいして庶民と同じように
鳥辺山か鳥辺野で火葬されたり埋葬される。
生存中は栄華をきわめたといわれた藤原道長も、
万寿四年(1027)に法成寺阿弥陀堂で死んだあと
鳥辺野で荼毘(だび)に付され、
骨は宇治の木幡にある藤(とう)氏一門、
とくに北家の人びとの墓地に運ばれた(『栄華物語』)。
権勢をきわめた平清盛も養和元年(1181)に高熱をだして死ぬと、
「愛宕にて煙になしたてまつり、骨をも円実法眼頸に懸け、
摂津国へくだり経の島にぞをさめける」
(『平家物語』)の有様だった。
経ケ島は神戸市にあって、
福原の港の防波堤として築かれた人工島である。
物語はさらに続けて
「威をふるッし人なれども、身はひとときの煙となッて,
都の空に立のぼり」と
果無(はかな)さを語っている。
のちの時代のことだが、
豊臣秀吉も死後は鳥辺山の一角にある阿弥陀ケ峰に葬られた。
このように六波羅は死に直面できる緊張の地であることが、
代々の武家政権が珍皇寺や六波羅蜜寺の周辺に住みつづけ、
支配の拠点を置きつづけた背景にあったとぼくは考える。
鎌倉時代の東国武士の生活を伝える絵巻物として
『男衾(おぶすま)三郎絵巻』がある。
男衾は武蔵国の国名で埼玉県西部にあたる。
氏の名に郡名を冠していることにうかがえるように、
古代からの豪族としてかなりの勢力をもった武士とみてよかろう。
弟の三郎も兄の吉見二郎も、
幕府が御家人に課す大番役によって上京する途中、
遠江で異形の面相をした賊に襲われ二郎は殺された。
ちなみに吉見二郎の吉見は、
古墳時代に終末期の横穴群として知られている
吉見百穴と同じ地名である。
『男衾三郎絵詞』では武士の日常生活をも描いているが、
〝馬場には生首をたやさぬものぞ〟
武士は命をかけざるをえない戦いのあることを、
絶えず覚悟しておかねばならなかった。
つまり死に直面せざるをえない緊張の空間で暮らすのがよい。
六波羅の地はすでに説明したように、
その東方や南東方に一大葬地としての鳥辺山や鳥辺野がある。
隣接しているというより、葬地の一部であったともみられる。
のちに述べる平氏の泉殿には、
武家政権としての平家の祖である正盛を
葬ったとみられる正盛堂があった。
天皇や皇族あるいは貴族といえでも、
死にさいして庶民と同じように
鳥辺山か鳥辺野で火葬されたり埋葬される。
生存中は栄華をきわめたといわれた藤原道長も、
万寿四年(1027)に法成寺阿弥陀堂で死んだあと
鳥辺野で荼毘(だび)に付され、
骨は宇治の木幡にある藤(とう)氏一門、
とくに北家の人びとの墓地に運ばれた(『栄華物語』)。
権勢をきわめた平清盛も養和元年(1181)に高熱をだして死ぬと、
「愛宕にて煙になしたてまつり、骨をも円実法眼頸に懸け、
摂津国へくだり経の島にぞをさめける」
(『平家物語』)の有様だった。
経ケ島は神戸市にあって、
福原の港の防波堤として築かれた人工島である。
物語はさらに続けて
「威をふるッし人なれども、身はひとときの煙となッて,
都の空に立のぼり」と
果無(はかな)さを語っている。
のちの時代のことだが、
豊臣秀吉も死後は鳥辺山の一角にある阿弥陀ケ峰に葬られた。
このように六波羅は死に直面できる緊張の地であることが、
代々の武家政権が珍皇寺や六波羅蜜寺の周辺に住みつづけ、
支配の拠点を置きつづけた背景にあったとぼくは考える。
鎌倉時代の東国武士の生活を伝える絵巻物として
『男衾(おぶすま)三郎絵巻』がある。
男衾は武蔵国の国名で埼玉県西部にあたる。
氏の名に郡名を冠していることにうかがえるように、
古代からの豪族としてかなりの勢力をもった武士とみてよかろう。
弟の三郎も兄の吉見二郎も、
幕府が御家人に課す大番役によって上京する途中、
遠江で異形の面相をした賊に襲われ二郎は殺された。
ちなみに吉見二郎の吉見は、
古墳時代に終末期の横穴群として知られている
吉見百穴と同じ地名である。
『男衾三郎絵詞』では武士の日常生活をも描いているが、
〝馬場には生首をたやさぬものぞ〟
という一節があり、印象にのこった。
ひとかどの武士の家ではそのように、
死を意識することが習慣となっていたとみてよい。
三郎は観音に帰依(きえ)していて、
東国の武士への仏教の浸透の度合いも暗示されている。
あるとき日本手拭を洗ったあと乾かす前に
勢いよく振って音をたてて湿気をとばしていると、
小田原の北条家の故事をよく知る人から
〝その音は首を切り落とすときの音に似ているので
武士の家ではやらない〟
といわれ驚いたことがある。
ぼくの推測になるが、かつての髑髏原の地こそ武士が拠点をかまえ、
身を引きしめて暮らすのにふさわしかったのであろう。
とはいえ武士にも長年の暮らしで惰性がでることもあった。
木曽義仲が信濃を発し北陸で強大な勢力になるつつあったころ、
平氏は西国の武士を動員して対決するため大
軍を北陸へ派遣することになった。
大将軍は平維盛(これもり)、副将軍は平経正(つねまさ)だった。
経正は決戦の地へ行く途中、
琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)を遠望し、
その島へ渡ることを思いつき実行している。
この行為は戦勝祈願のためというより、
物見遊山の類(たぐい)におもえる。
案の定、平家軍は北陸で大敗し、
結果としては六波羅邸を焼きはらって都を捨てることになった。
六波羅の地上には、
武家政権が本拠をかまえていたことを偲べる建造物はないけれども、
町名にはそれがのこっている。
とくに平家政権があったことを示す地名が集中している。
六波羅蜜寺のすぐ南側に三盛(みつもり)町がある。
もと泉殿(いづみどの)があったことにちなんで泉殿町ともいった。
三盛とは六波羅に邸宅をもった清盛、
頼盛、教盛(のりもり)の三人の名によったというし、
平家の勢力を築いた正盛、忠盛、清盛の名をつけたとみう。
忠盛が清涼殿への昇殿を許されるまでに出世したとき
公卿たちがねたみ、
舞を踊る忠盛を〝伊勢平氏はすがめなりけり〟と
ひとかどの武士の家ではそのように、
死を意識することが習慣となっていたとみてよい。
三郎は観音に帰依(きえ)していて、
東国の武士への仏教の浸透の度合いも暗示されている。
あるとき日本手拭を洗ったあと乾かす前に
勢いよく振って音をたてて湿気をとばしていると、
小田原の北条家の故事をよく知る人から
〝その音は首を切り落とすときの音に似ているので
武士の家ではやらない〟
といわれ驚いたことがある。
ぼくの推測になるが、かつての髑髏原の地こそ武士が拠点をかまえ、
身を引きしめて暮らすのにふさわしかったのであろう。
とはいえ武士にも長年の暮らしで惰性がでることもあった。
木曽義仲が信濃を発し北陸で強大な勢力になるつつあったころ、
平氏は西国の武士を動員して対決するため大
軍を北陸へ派遣することになった。
大将軍は平維盛(これもり)、副将軍は平経正(つねまさ)だった。
経正は決戦の地へ行く途中、
琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)を遠望し、
その島へ渡ることを思いつき実行している。
この行為は戦勝祈願のためというより、
物見遊山の類(たぐい)におもえる。
案の定、平家軍は北陸で大敗し、
結果としては六波羅邸を焼きはらって都を捨てることになった。
六波羅の地上には、
武家政権が本拠をかまえていたことを偲べる建造物はないけれども、
町名にはそれがのこっている。
とくに平家政権があったことを示す地名が集中している。
六波羅蜜寺のすぐ南側に三盛(みつもり)町がある。
もと泉殿(いづみどの)があったことにちなんで泉殿町ともいった。
三盛とは六波羅に邸宅をもった清盛、
頼盛、教盛(のりもり)の三人の名によったというし、
平家の勢力を築いた正盛、忠盛、清盛の名をつけたとみう。
忠盛が清涼殿への昇殿を許されるまでに出世したとき
公卿たちがねたみ、
舞を踊る忠盛を〝伊勢平氏はすがめなりけり〟と
はやしたことが『平家物語』にでている。
平氏は伊勢との関係が深かったので
「其国のうつは物に事よせて、伊勢平氏とぞ申ける」としていて、
ぼくは東海産の無釉の素瓶(すがめ)にかけての囃(はやし)言葉とみている。
知多半島や渥美半島は常滑(とこなみ)焼や
渥美窯の製品として知られる陶器の産地で、
それを各地にひろめる交易の役割で
伊勢の平氏が働いたことを背景とした物語とみれる
(『「東海学」事始め』陶器交易の項)。
泉殿のあった三盛町の東は多門町である。
平家邸宅群の惣門があった地と伝える。
その脇に平教盛の居館があったので
教盛は門脇(かどわき)殿とよばれた。
門脇町は三盛町の南になる。
さらに門脇町の南西には池殿町がある。
清盛の弟の池大納言とよばれた頼盛の邸宅があったのであろう。
もう一つ見逃せないのは、
六波羅蜜寺の北北東の建仁寺境内にかけてある小松町である。
ぼくは清盛の子の重盛を小松内府といったことが思いあたる。
重盛の小松邸を、東山山麓の渋谷道ぞいの
小松谷にあったとみる説もあるが、
それでは重盛邸だけが東方に
約800メートルも離れていて不自然であり、
再考の余地がある。
このように平家政権とかかわりがあったとみれる町名は
東西200メートル、南北300メートルの範囲にある。
ここに平家邸宅群が集中し、
さらに郎党らの家も周辺に集まっていたことはほぼ見当がつく。
とはいえ平時から周囲に壕をめぐらすなど、
格別の防禦への配慮のないことも留意してよかろう。
平氏政権をしのぶ唯一の遺品は、
さきにあげた六波羅蜜寺の平清盛の坐像である。
出家姿で手に経巻をもった柔和な姿からは、
保元の乱や平治の乱を勝ちぬいた武将の面影はみられない。
この像は鎌倉時代初期の製作とみられ、
この像がどのような動機で作られたのかなど究明課題はのこる。
北条政権の六波羅探題は北方(きたかた)と
南方(みなみかた)二つの政庁からなっていたが、
場所はかつての平氏邸宅群の跡地に設けられたといわれる。
元弘三年(1333)に幕府を裏切った足利高(尊)氏や
赤松則村軍の攻撃によって激戦ののち消失した。
まだまとまった地下の調査はおこなわれていないが、
戦火をまぬがれたとみられる門がのこっている。
すでに紹介したが東福寺の六波羅門で、鎌倉時代の建築、
おそらく六波羅探題創業のころからの門であろう。
鎌倉幕府滅亡のあと九条家の力で移築したのであろう。
ぼくはこの門に朝の光のあたっている角度から見るのが好きである。
名を知っている武士たちもこの門をくぐったことだろう。
毎年紅葉の季節になるとこの門から車を境内にいれているが、
そのうちに柱に衝突する車がでないか、ぼくははらはらしている。
寺の境内へは車をいれる必要はなかろうと思う。
ほかに建仁寺の勅使門もその可能性があり、あとで述べる。
(『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』
森浩一 学生社 2007年)
アオサギの朝ごはんはアメリカザリガニかなと思っていたけど
どうもコガメのようでした。
以前、大きなコイを食べようとしているところに出会ったことがあります。
(2017年5月13日の記事)
今朝、子ガモが4羽元気にしているのを見ました↑
アオサギの貪欲さを見ていると
子ガモを狙うのはカラスだけではないなと思いました。
番組の紹介です(^^)/
BS1スペシャル「ベイリーとゆいちゃんが教えてくれたこと」
5月26日(日) 午後10時00分~午後11:50(110分)
前回は50分ほどの番組でした。
平氏は伊勢との関係が深かったので
「其国のうつは物に事よせて、伊勢平氏とぞ申ける」としていて、
ぼくは東海産の無釉の素瓶(すがめ)にかけての囃(はやし)言葉とみている。
知多半島や渥美半島は常滑(とこなみ)焼や
渥美窯の製品として知られる陶器の産地で、
それを各地にひろめる交易の役割で
伊勢の平氏が働いたことを背景とした物語とみれる
(『「東海学」事始め』陶器交易の項)。
泉殿のあった三盛町の東は多門町である。
平家邸宅群の惣門があった地と伝える。
その脇に平教盛の居館があったので
教盛は門脇(かどわき)殿とよばれた。
門脇町は三盛町の南になる。
さらに門脇町の南西には池殿町がある。
清盛の弟の池大納言とよばれた頼盛の邸宅があったのであろう。
もう一つ見逃せないのは、
六波羅蜜寺の北北東の建仁寺境内にかけてある小松町である。
ぼくは清盛の子の重盛を小松内府といったことが思いあたる。
重盛の小松邸を、東山山麓の渋谷道ぞいの
小松谷にあったとみる説もあるが、
それでは重盛邸だけが東方に
約800メートルも離れていて不自然であり、
再考の余地がある。
このように平家政権とかかわりがあったとみれる町名は
東西200メートル、南北300メートルの範囲にある。
ここに平家邸宅群が集中し、
さらに郎党らの家も周辺に集まっていたことはほぼ見当がつく。
とはいえ平時から周囲に壕をめぐらすなど、
格別の防禦への配慮のないことも留意してよかろう。
平氏政権をしのぶ唯一の遺品は、
さきにあげた六波羅蜜寺の平清盛の坐像である。
出家姿で手に経巻をもった柔和な姿からは、
保元の乱や平治の乱を勝ちぬいた武将の面影はみられない。
この像は鎌倉時代初期の製作とみられ、
この像がどのような動機で作られたのかなど究明課題はのこる。
北条政権の六波羅探題は北方(きたかた)と
南方(みなみかた)二つの政庁からなっていたが、
場所はかつての平氏邸宅群の跡地に設けられたといわれる。
元弘三年(1333)に幕府を裏切った足利高(尊)氏や
赤松則村軍の攻撃によって激戦ののち消失した。
まだまとまった地下の調査はおこなわれていないが、
戦火をまぬがれたとみられる門がのこっている。
すでに紹介したが東福寺の六波羅門で、鎌倉時代の建築、
おそらく六波羅探題創業のころからの門であろう。
鎌倉幕府滅亡のあと九条家の力で移築したのであろう。
ぼくはこの門に朝の光のあたっている角度から見るのが好きである。
名を知っている武士たちもこの門をくぐったことだろう。
毎年紅葉の季節になるとこの門から車を境内にいれているが、
そのうちに柱に衝突する車がでないか、ぼくははらはらしている。
寺の境内へは車をいれる必要はなかろうと思う。
ほかに建仁寺の勅使門もその可能性があり、あとで述べる。
(『京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』
森浩一 学生社 2007年)
アオサギの朝ごはんはアメリカザリガニかなと思っていたけど
どうもコガメのようでした。
以前、大きなコイを食べようとしているところに出会ったことがあります。
(2017年5月13日の記事)
今朝、子ガモが4羽元気にしているのを見ました↑
アオサギの貪欲さを見ていると
子ガモを狙うのはカラスだけではないなと思いました。
番組の紹介です(^^)/
BS1スペシャル「ベイリーとゆいちゃんが教えてくれたこと」
5月26日(日) 午後10時00分~午後11:50(110分)
前回は50分ほどの番組でした。