本格的な暑さで熱中症のニュースも流れていますね…
30度を超える真夏日になっている地域もあるようです。
「東京都心など ことし初の真夏日 熱中症に十分注意を」
ニホンカナヘビが日光浴をしていました(^-^)
中学校教科書に掲載されている
「敦盛(あつもり)の最期(さいご)」の続きを転記しますφ(..)
(現代語訳)
熊谷は、
「ああ、立派な大将軍だ。
この人一人をお討ち申したとしても、
負けるはずの戦に勝てるわけでもない。
また、お討ち申さなくても、
勝つはずの戦に負けることもまさかあるまい。
(わが子の)小次郎が軽い傷を負っただけでさえ、
(父であるこの私)直実はつらく思うのに、
この殿の父は、(わが子が)討たれたと聞いて、
どれほどお嘆きなさることだろう。
ああ、お助け申したい。」
と思って、後方をさっと見たところ、
土肥・梶原が五十騎ほどで続いている。
(『現代の国語 2』三省堂 平成28年版)
熊谷が涙を抑えて申しあげたことは、
「お助け申そうとは存じますけれども、
味方の軍勢が雲や霞(かすみ)のようにたくさんおります。
決してお逃げにはなれないでしょう。
他の者の手におかけ申すより、
同じことなら(どちらにしても命が助からないのなら)ば、
直実の手におかけして、
後のご供養をさせていただきましょう。」
と申したところ、
「とにかく、さっさと首を取れ。」
とおっしゃった。
熊谷はあまりにかわいそうで、
どこに刀を刺したらよいかもわからず、
(涙で)目もくらみ気も動転して、
前後もわからないように思われたけれども、
このままでいるわけにもいかないので、
泣く泣く首を切ってしまった。
「ああ、弓矢を取る身ほど悔やまれるものはない。
武芸の家に生まれなければ、
どうしてこのようなつらいめをみることがあろうか。
非情にもお討ち申したものだ。」
と繰り返し嘆いて、袖を顔に押し当ててさめざめと泣き続けた。
(解説の部分)
しばらくして、熊谷(くまがえ)は、若武者がつけた腰の袋の中に、
一本の笛を見つけた。
戦(いくさ)の場にあっても笛を手放さない若武者の優雅さは、
戦陣の武将たちの心を打った。
後にこの若武者が、修理大夫経盛(しゅりのだいぶつねもり)の子息で、
大夫敦盛(たいふあつもり)といい、年は17歳だとわかった。
このことがあってから、
熊谷の出家を願う思いはますます強くなったという。
(『現代の国語 2』三省堂 平成28年版)
教科書で「敦盛の最期」の後半を解説で書いているので
中山義秀の現代語訳で転記しますφ(..)
やがて、首を包もうとして、鎧直垂(ひたたれ)を解いて見ると、
錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。
(『日本文学全集4 平家物語』
中山義秀訳 河出書房 昭和42年)
「さては、この夜明けに、城の中で管弦の音がしていたのは、
この人たちであったのか。
東国勢何万騎のうち、
軍陣に笛を持ってきている風雅者はあるまい。
公達のあわれさよ」
とて、その笛をば大将軍の見参に入れたところ、
涙をしぼらぬ人はなかった。
あとで聞けば、修理大夫経盛(しゅりのだいぶつねもり)の子息で、
大夫敦盛(たいふあつもり)と言い、生年十七歳であった。
熊谷に出家の志が起こったのは、この時からであった。
件(くだん)の笛は、祖父の忠盛(ただもり)が笛の名手で、
鳥羽院から賜ったのを、父の経盛がもらい受け、
敦盛がまた名手であったため、これを持たしたものだという。
名を小枝(さえだ)といった。
狂言綺語(きぎょ)さえもなお讃仏乗(さんぶつじょう)の因となる。
敦盛の一管の笛が直実の発心(ほっしん)出家の起因となったことは、
いかにももっともである。
(『日本文学全集4 平家物語』
中山義秀訳 河出書房 昭和42年)
伯母の「一年祭」を父が撮っています。
神道は、珍しいねというと
徳之島では半分くらいは神道のようだと話していました。
父も去年の伯母の葬儀で
初めて経験したと話していました。
「神葬祭」(出雲大社東京分祠)