天気が怪しかったので50㎜レンズで撮影しています。
(なにわの伝統野菜「ウスイエンドウ」)
昨夜の「日本人と天皇」を見ていて思ったのは
今のままでは天皇制は維持できなくなるなと思いした。
三笠宮様が「外堀を埋められた」と語っておられましたが
皇位継承の男系を維持しようとされている方は
天皇系が消滅してもしかたないと思っているのだろうな…
正史といわれている『日本書紀』に武烈(ぶれつ)天皇の時に
皇位継承が危うくなったことが書かれています。
そこに書かれていることはひどいなと思うのですが
現代語訳を転記したいと思います。
初めの部分は略しています。
武烈天皇の暴虐
元年春三月二日、春日娘子(かすがのいらつめ)を立てて皇后とした。
この年、太歳己卯(つちのとう)。
二年秋九月、妊婦の腹を割いてその胎児を見られた。
三年冬十月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
十一月、大伴室屋(むろや)大連に命じて
「信濃国(しなののくに)の壮丁(そうてい)を集めて、
城を大和の水派(みまた)村に造れ」
といわれた。
よってそこを城(き)の上(え)という。(奈良県北葛城郡広陵町)
(『日本書紀(上)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)
この月に、百済の意多郎(おたら)王が亡くなった。
高田の岡の上に葬った。
四年夏四月、人の頭の髪を抜いて樹の頂きに登らせ、
樹の下を切り倒して、登った者を落し殺して面白がった。
この年、百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた。
国人はついに王を捨てて、嶋王(せまきし)を立てた。
これが武寧王である。
――百済新撰にいう。
末多王は無道で、民に暴虐を加えた。
国人はこれを捨てた。
武寧王が立った。
いみ名は嶋王という。
これは琨支(こんき)王子の子である。
則ち末多王の異母兄である。
琨支は倭に向った。
そのとき筑紫の島について島王を生んだ。
島から返し送ったが京に至らないで、
島で生まれたのでそのように名づけた。
いま各羅(かから)の海中に主[にりむ(国王)]島がある。
王の生まれた島である。
だから百済人が名づけて主[にりむ(古代朝鮮語で王の意]島とした。
今考えるに、島王は蓋鹵王(こうろおう)の子である。
末多王は琨支王の子である。
これを異母兄というのはまだ詳しく判らない。
五年夏六月、人を池の堤の樋の中に入らせて、
外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ。
六年秋九月一日、詔して、
「国政を伝えるかなめは、
自分の子を跡嗣(あとつぎ)に立てることが重要である。
自分は跡嗣がない。
何をもって名を後世に伝えようか。
前の天皇の古い例によって、
〝小泊瀬の舎人(とねり)〟というのを設けて、
わが治世の名を伝え、いつまでも忘れられないようにせよ」
と仰せられた。
冬十月、百済国が麻那王(まなきし)を遣わして、
調(みつき)をたてまった。
天皇は、百済は長く貢物を持ってこなかったことをお思いになって、
王を留めておいて返さなかった。
七年春二月、人を樹に登らせて、弓で射落として笑った。
夏四月、百済王が斯我君(しがきし)を遣わして調をたてまつった。
別に書状をたてまつって
「前に調をたてまつった使の麻那(まな)は、
百済の国王の一族ではありません。
故に謹んで斯我(しが)を遣わして朝廷にお仕えさせます」
という。
その後、子が生まれて法師君という。
これが倭君の先祖である。
八年春三月、女たちを裸にして平板の上に座らせて、
馬をひき出して面前で馬に交尾させた。
女の陰部を調べ、うるおっている者は殺し、
うるおっていない者は、官婢として召しあげた。
これがたのしみであった。
その頃、池を掘り、苑を造って鳥やけものを満たした。
そして狩りを好み、犬に追わせて馬を試した。
大風や大雨も避けることがなく、出入りが気ままで、
自らは暖衣をまとい、百姓のこごえることは意に介せず、
美食を口にして民の飢えを忘れた。
大いに侏儒や俳優(わざおぎ)を集め、淫らな音楽を奏し、
奇怪な遊びごとをさせて、ふしだらな騒ぎをほしいままにした。
日夜後宮の女たちと酒におぼれ、錦の織物を褥(しとね)とした。
綾や白絹を着た者も多かった。
冬十二月八日、天皇は列城宮[なみきのみや(奈良県北葛城郡志津美村今泉]に崩御された。
(『日本書紀(上)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)
この武烈天皇で仁徳天皇の皇系が絶えることになります。
第26代として記録される天皇が継体天皇です。
応神天皇の5世の孫とされていますが、
皇位継承をめぐる紛争が推定されているようです。
ところで古事記にも武烈天皇は書かれているのですが
日本書紀のような暴虐は書かれていません。
武烈天皇
ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、
大和の長谷(はつせ)の列木(なみき)の宮においでになつて、
八年天下をお治めなさいました。
この天皇は御子がおいでになりません。
そこで御子の代りとして小長谷部(おはつせべ)をお定めになりました。
御陵は片岡の石坏(いわつき)の岡にあります。
天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、
ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江の國から上らしめて、
タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。
(『古事記』武田祐吉訳註 角川文庫 昭和31年)
日本書紀と古事記の記載の違いはどこにあるのでしょうか?
今朝の父の一枚です。
ハシボソガラスのつがいのようです。
カラスの生態を見ていると面白いですよ(^_-)
「カラス再発見」(日本野鳥の会)