心筋梗塞を発症したときに突発性難聴になり
それ以来、音は聞こえるのですが
内容を聞き取りにくくなっていて
スタッフの方の話の内容は分かりませんでした(-_-;)
でも、その様子を見ることができるだけでもと参加しました。
「平家一門の屋敷の一部か 堀の跡見つかる 京都」(NHK)
現地でもらった
「六波羅政庁跡、音羽・五条坂窯跡発掘調査現地説明会資料」には
はじめに
当地周辺は古代以前から続く葬送の地で、
平安時代には鳥辺野と呼ばれていました。
鎌倉時代に入ると鎌倉幕府は、
西国の御家人や朝廷の監視のために
探題(六波羅政庁)を設置することになり、
その六波羅政庁の範囲にも想定される地区です。
また、江戸時代の寛永18年(1641)音羽屋惣佐衛門が
若宮八幡宮前で窯を開き、
京焼・清水焼と呼ばれる産業が当該周辺に発達します。
当地には浅見五郎助窯が造られ
最近まで京式登り窯が存在していました。
宋銭と思われるのが発掘されているのを見て
平家が宋との貿易で富を築いたことを思い出しました。
(2019年3月22日の記事)
それぞれ別の個所から見つかったようですが
元々一つの笠塔婆だったようです。
「笠塔婆」(石仏と石塔!)
説明を聞けていないので自信はないのですが
「井戸SE88 円形石組 室町時代」だと思います。
(資料「第3面遺構平面図(平安時代後期以前)」)
まとめ
今回の調査で注目できる成果としては、
堀SD100の発見があげられます。
出土した遺物から六波羅政庁成立より古く、
平清盛と並行する時代の遺構です。
平氏は清盛の祖父平正盛が現在の珍皇寺周辺に居を構えてのち
六波羅一帯に惣門・南門を造り、
一族による一大軍事拠点となる集住を行ったとされています。
今回の調査では、建物などの発見がなされていませんが、
今後の調査結果の積み重ねにより
往時の六波羅から清水一帯の様子が明らかにされていく一助になると思われる成果です。
後日「現地説明会の開催」(京都市埋蔵文化財研究所)に
さらに詳しい内容が載ると思います。
「京都歴史散策マップ」も町歩きの参考になると思います。
すぐ近くにあるのが…
若宮八幡宮
当宮は、天喜5年(1058)源頼義(988~1075)が、
後冷泉天皇の勅を奉じて文武の神、
治山治水の神、長寿の神として創建し、
六条八幡とも左女井八幡ともいわれていた。
平安時代は、五条大路までが市街地で、
六条の地は、堀川館をはじめ当町に頼義、義家(1039~1106)の館、
その東には、後に義経が居を構えるなど、
長く源氏の邸宅があったところとして著名で、
「拾芥抄」には、「八幡若宮義家宅」の書き入れがあり、
「古事談」にも、
「六条若宮はかつて源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とある。
源頼義、義家の尊崇があつく、
広い境内と立派な社殿をもって栄えていたが、
天正12年(1584)、豊臣秀吉(1537~1598)による
京都改造事業により、
御旅所のあった東山に遷され、
さらに慶長10年(1605)、現在地の五条坂下に遷された。
旧地は、西本願寺の寺域とされていたが、
江戸時代に入ると、
跡地に町内の住人によって新たに若宮八幡宮が祀られ、
現在も「若宮町」や「若宮通」という地名に往時の名残をとどめる。
京都市
「第42回都草美化活動~若宮八幡宮社~」
(京都観光文化を考える会・都草)
を参照してください(*´▽`*)
蓬莱石(ほうらいせき)の由緒(ゆわれ)
若宮八幡神祠に一奇石あり其の名を蓬莱という。
足利尊氏将軍かねてより若宮の神を深く信仰せしが病悩にかゝりし折特に立願せられ、
病癒え、これを祝して珍宝七種を献じ敬謝せり、この石は其の一つ也。
其の形勢巨鼈(べつ)の如し。
戴山蓬莱の石、良(まこと)に以(ゆえ)あるなり。
云々(蓬莱山は渤海の東に峙(そばだ)ち神仙不死の薬ありと古事にあり)……
必ず神霊は之を(お加護)英士に与えるものなり……。
と記してある。
即ち、この蓬莱石には不可思議な御神徳後加護のある貴重な宝石である。
追記、この蓬莱石は御本殿の片隅に埋れていたものが最近御神託により発見され、
約650年振りに世に出されたもので御神威新かな石である。
(古文書抜粋による)
歩いていると…
お地蔵さんが覗いていた(*´▽`*)
日曜日なので観光客が少ない所を探してさまよいました(^_-)
何度も前を通りながらも素通りしていたお店で
「玉子トースト」をいただきました(^^)v
二段重ねになっていて小さな口でも食べやすくて美味しい!
店内では常連さんの会話が弾んでいました。
向うに見えるのは「南座」
お店は「コーヒーショップ ナカタニ」です。
興味を持ったのは、KBS京都の「京都浪漫 悠久の物語」の
「日本最古の劇場・南座 新たなスタート!」
で紹介されているのを見ていて
ここはよく前を通っているなぁと気づいたからです。
北座跡(この付近)
寛文10年(1670)以降
鴨川の両岸に新堤が築かれたことによって鴨河原の風景は一変した
河原は「新地」(新造成地の意味)となり
ここに広大な芝居街と茶屋町が出現することになった
延宝4年(1676)の絵図(『祇園社並旅所之図』)によれば
この時期すでに東岸の四条通をはさんで計六軒の芝居小屋が描かれている
17世紀末の元禄期になるとこの芝居小屋は七軒に増加する
18世紀初頭の『京都御役所向大概覚書』によると
四条北側芝居は井筒屋助之丞
両替屋伝左衛門の所有とあり
さらに南側芝居は大和屋利兵衛
越後屋新四郎
伊勢屋嘉兵衛の三者が所有者としてあげられていた
しかし たびたびの大火で19世紀末には
わずか北側に一軒 南側に一軒となった
その北側の一軒北座も
明治26年(1894)に四条通拡幅によって消滅した
元京都市歴史資料館長 〇〇尅久
今朝のNHK総合目撃!にっぽん
「風に舞う花びらのように~奈良 命の映像詩~」
保山耕一さんの言葉が胸に沁み込みました。
花びらが散った後の“がく”がかわいいと思わへん?
散った後の花なんて
誰も見いひんかも分からへんけど
目を凝らしてよく見ると
思いもしなかったような
美しいものがそこにある
太陽がキラキラしているところに
花びらが風で吹かれて流れてけえへんかな
テレビカメラマンしているときは
自分で散らして
いいところに持っていって
撮っていたと思うんですけど
いまは
何も被写体には触(さわ)らない
自分の中で 決まり事にしていて
(テレビの)仕事であったら
こんな状態では絶対 撮らないですよ
テレビカメラマンやっているときは
本当のもんなんか
何も見えてへんかったなって
実は一番美しい瞬間は
諦めた後にやってきたりとか
そういう経験していると
いま この段階で帰ることはできへんし
最後まで見届けたいし
誰も これから先のことなんか
分からないですよね
生きるのも、死ぬのも、怖くてたまらない。
私が生きている世界は
こんなにも美しい。
すべての命がたまらなく愛おしい。
ずっと迷ってますよね
中途半端な いい加減な気持ちで
カメラを持つという事は
自分の人生を
否定している事やと思うので
ちゃんと歩けなくなって
体も弱って
いつかはやめな
だめってときが来ると思うので
ことしが最後の桜やと思っています
(吉野 櫻本坊)
「世界 平和 生命 同一」(19歳で亡くなった巽寮道さんの書)
こんなすごい字を書く人が
今はもう生きていなくて
若くして亡くなったなんて
人の命って なんなんやろうな
残酷やなあと思う
もし生きていたら どんな作品つくる
どんな字を書くんやろうな
(良道さんが亡くなったのは4月の満開の桜の下)
(良道さんは)この世に
いてない人やけど
その人の存在と残した作品に
すごく救われてる
俺もいつかは
この作品とまではいけへんけど
俺が死んだ後も 俺の作品を見て
誰かが感じてもらえるようなものを残したい
吉野の桜って
ただ 悲しく散るだけじゃなくて
一個一個が
天に向かって舞い上がるように
散るという事は 再生の始まり
次の命のため 生まれ変わるため
(ガンになった女性に)
自然を見ていると 一番分かるじゃないですか
時間は止められないって
何があっても
日は沈むし 昇るし
花も枯れるし 桜も散るし
でも そこを悲しく思っていても
しかたがなくて
そういう美しいものの中で
自分の身を置いたときも
同じだけ時間が過ぎる
そしたら どっちを選んだ方が
自分にとって豊かな時間が過ごせるか
だから 笑顔で 散っている姿を
見られる日が来るといいですよね
「やりきった」「桜を撮れました」って
いうふうに言えれば格好いいんでしょうけど
このままでは終われないな
終わりたくないっていうふうにも思うんで
いままでみたいなペースでは
撮影できないかも分かんないですけど
石にかじりついてでも続けて
来年はもうちょっとまともな
もう1年 頑張ります
それが正直な気持ちです
(転記間違いがあると思います)
おはようございます~
返信削除>誰かが感じてもらえるようなものを残したい
ほんとうに、そういう風に残してもらった色々な言葉や作品に出会える幸せを感じます。
そして、おかげでさまで居ながらにして映像や文章で豊かな時間を過ごせました。
カイさんこんばんは(^^)/
削除保山耕一さんの映像は素晴らしいですよね!
Kazeも保山さんほどひどくはありませんが
歩いていると途中で気分が悪くなったりしています。
でも、歩くことで出会えるものがあります。
カイさんもいろんな土地に旅されていて
カイさんの記事を読むのを楽しみにしています(^^♪