2022年6月7日火曜日

雨がやんで

雨がやんで涼しい風が吹いていました。

見に行きたいけど
京都の宮廷文化を紹介する展示会 平安時代の女性の衣装など」(京都NHK 6月6日)

京都産業大学むすびわざ館
 王朝文学に見る菓子

 平安時代のイメージは王朝文学に代表されます。
『伊勢物語』や『源氏物語』をはじめとする数々の作品は、我々を王朝の世界に誘い、特に『源氏物語』は多くの現代語訳が試みられ、漫画化される程に人気を保っています。
こうした文学作品には、当時の人々の生活が映し出されており、食文化についても貴重な基礎資料となっています。
たとえば『枕草子』には、当時朝夕の二食であった貴族などに対して、労働者達(たくみ=大工)が間食として飯を食べていた情景を描写し、階層による食習慣の違いを伝えてます。
また、さまざまな行事や日常生活のなかには菓子も登場します。
(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)
『枕草子』の例をもうひとつ。
この時代、加工食品としての「菓子」では餅類の他、唐菓子が主役でした。
一方、食材を加工した国産の菓子として「青差(あおざし)」が『枕草子』に登場します。
五月五日の菖蒲の節会(せちえ)の日「いとをかしき薬玉(くすだま)どもほかよりまゐらせたるに、青ざしといふ物を持て来たるを」(岩波古典文学大系)と見え、青差は煎った青麦を臼で挽いて縒(よ)った糸のようにしたものとあります(『和訓栞』)。
 この青差は遠く離れて暮らす人への贈り物にもなっています。
時代は下りますが、弘安元年(1278)、甲斐国身延山(現山梨県)に住む日蓮のもとへ信者から「干飯一斗、古酒一筒、ちまき、あうざし、たかんな(筍)」などの食品が送られています。
このなかの「あうざし」が青差を指しています。
交通の不便な当時、遠く離れた身延に住む日蓮へ供養として送られていることから、日保ちする保存性の高い食品であったことがわかります。
…後略…
(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)
 『枕草子』の三巻本には「労働者達(たくみ=大工)が間食として飯を食べていた情景」がないようなので
「能因(のういん)本」より現代語訳を転記します( ..)φ
続いて「青差」が書かれている段を「春曙抄(しゅんしょしょう)」より転記します( ..)φ
なお「青差」は「青刺」と表記されています。
 313 たくみの物食ふこそ、いとあやしけれ

 大工(だいく)が物を食べるありさまこそ、ひどく奇妙だ。
寝殿(しんでん)を建てて、東の対(たい)めいた建物を作るということで、大工たちが並んで座って、物を食べるを、東面(ひがしおもて)に出て座って見ていると、持って来るのを遅いとばかりに、早速、汁物(しるもの)を取って全部飲んで、容器の土器(かわらけ)は無造作(むぞうさ)にそこに置いてしまう。
次におかずをみな食べてしまったので、御飯(ごはん)はどうやらいらないようだと思って見ているうちに、御飯はたちまちなくなってしまった。
三、四人座っていた者が、みな同じようにそうしたのだから、大工というものが多分そういうものなのだとわたしは思うのだ。
ああ、何(なん)てさまにならないことといったら。
(『枕草子[能因本]』松尾 聰、永井 和子訳・注 笠間文庫 2008年)

 【第二一六段
 訳 この頃、すでに皇后様になっておられた定子(ていし)様が、三条の宮、例の大進生昌(だいじんなりまさ)の屋敷におられる頃、五月五日の端午の節供のための菖蒲を乗せた「菖蒲の輿(こし)」を、近衛府(このえふ)の役人が皇后様のところに持って参上したことがあった。
縫殿(ぬいどの)の糸所(いとどころ)からも、薬玉(くすだま)が献上された。
若い女房や、定子様の妹御(いもうとご)であられる御匣殿(みくしげどの)などが、皇后様のお子様であられる姫宮・若宮のお衣装に、薬玉をつけて差し上げる。
その外にも、興趣(きょうしゅ)に富む薬玉が、いろいろな所から献上される。
(『枕草子 下』清少納言著、島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年)
それらの贈り物の中に、青麦を煎(い)って臼で挽(ひ)いて、細く捩(ねじ)った「青刺(あおざし)」というお菓子があったので、わたしは、麦からの連想で、「籬越(ませご)しに麦食(は)む駒のはつはつに及ばぬ恋も我はするかな」という和歌を思い出したので、薄く漉(す)いた青色の鳥(とり)の子紙(こがみ)の薄様(うすよう)を、優美な硯の蓋(ふた)に敷いて、その上にお菓子の青刺を乗せ、「あの『籬越(ませご)し』の歌ではございませんが、垣根越しに、これが渡されましたので、お目に入れます」と、と言い添えて、中宮様に差し上げた。
すると、中宮様は、その薄様の端(はし)を引き裂いて、

  「皆人(みなひと)は花(はな)や蝶(てふ)やと急(いそ)ぐ日(ひ)も我(わ)が心(こころ)をば君(きみ)ぞ知(し)りける」

というお歌を、お書きになられたのが、たいそう、素晴らしいことであった。
お歌の心は、「ほかの女房たちは、薬玉の綺麗な飾りに熱中しているのに、お前だけは、わたしの心をわかってくれ、及ばぬ恋のように、わたしへの忠義心と好意を持ち続けてくれているのだね」というものだと、わたしは受け止めた。
 端午の節供の華やかな飾り付けやら、贈り物の到来やら、何かと賑やかな情景である。
端午の節供の菖蒲については、今までも第46段、第116段、第206段などでも、触れられてきたが、この段で初めて「菖蒲の輿(こし)」という言葉が出てきた。
『春曙抄』は、頭注で「菖蒲の輿」について、『公事根源(くじこんげん)』を引きながら、「南殿(紫宸殿)の東西に立つ。又、時の花(季節の花)を折りそへて同じく置く」と、説明している。
菖蒲の輿自体の形状は、辞書類で、小殿形・輿形・屋根の付いた台などと、いろいろ説明されているが、やや分かりにくい。
だが、江戸琳派の画家・酒井抱一の「五節句図」(大倉集古館蔵)に描かれている、その名も「菖蒲輿」が参考になる。
小さな屋根が付いた、丈の高い棚が二つ並び、それぞれに菖蒲の束が置かれている。
ただし、抱一の絵では、棚の前に「結び燈台」(三本の細い棒を、紐で一束に結んで、その棒を広げて安定させ、結び目の上部に開いた、三本の棒の空間に、小皿を嵌め込んで油を入れ、細い芯を灯心とする照明具)がいくつも見えるが、これは本来は、「時の花を折りそへて同じく置く」とあるように、薬玉の飾りにする花々を盛った三脚台として描かれるべきものではないだろうか。
実際、『年中行事絵巻』別本巻二の「菖蒲の節会」の場面では、結び燈台ではなく、花を盛った三脚台のように見える。
とはいえ、この抱一の絵は「菖蒲輿」という題といい、また画面右上に枝を伸ばしている樹木が、「緑の葉・白い花・小さな黄金色の果実」で描かれていることから、『枕草子』の「木の花は」に出てくる、橘についての記述と同様の描き方である。
抱一の「菖蒲輿」の図柄の構想は、『枕草子』と関連が深いと思われる。
以上、やや話が逸れたが、酒井抱一の「五節句図」のうち、「菖蒲輿」と『枕草子』の関わりについて、少し考えてみた。
 さて、清少納言は、贈られた季節の菓子にこと寄せて、「籬越しに」の和歌を踏まえ、「わたしは、及ばずながら、いつもあなた様のことをお慕い申し上げています」という気持ちを伝えた。
それに対して、皇后定子は、「端午のお節供の準備に、皆が心浮き立つ今日のような日にあっても、あなただけはわたしのことを、いつも第一に思っていてほしいという、わたしの心の内をよくわかって、ちゃんとこのような気を利かせてくれたのね」と応えた。
いつに変わらぬ、打てば響くような、二人の心の連携であり、紐帯である。
ただし、『春曙抄』は、「籬越しに」を「まぜこしに」と読み、「頂き物ですが」と解釈している。
清少納言が引用している和歌に思い至らなかったのであろうか。
といことは、江戸時代の読者な、清少納言と定子との黙契の真意に気づかなかったことになり、まことに惜しまれる。
 この段の諸注によって、長保2年(1000)の5月のことと特定されている。
宮廷において着々と伸張してくる道長陣営に対して、定子陣営の勢力が後退する分岐点が、定子を皇后に、彰子を中宮にと定めたこの年の2月にあるとすれば、5月はすでにその峠を越している。
「皆人は花や蝶やと急ぐ日を」の歌は、政治的な状況の変化に伴う人心の移り変わりを詠んでいるとする解釈もある。
けれども、たとえ言葉の裏側であるにせよ、そのような露わな意味をこの歌から読み取るのは、ここまで連続読みしてきて、わたしたちの胸の中に息づいている、定子その人のお人柄からは遠いのではないか。
たとえ、『栄花物語』の「かかやく藤壺」の巻きに、どのように描かれていようとも……。
(『枕草子 下』清少納言著、島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)v
白い蓮の花ですが…

 草 は

…前略…

 蓮葉(はちすば)はよろずにすぐれて美しい。
妙法蓮華(みょうほうれんげ)を思わせ、花は仏に、実は数珠(じゅず)に、念仏して往生極楽(おうじょうごくらく)の縁としようよ。
また、花の少ないころ、緑の葉におおわれた池の水に紅(くれない)にさいた蓮(はす)の花はあでやかで、翠扇紅衣(すいせんこうい)と詩に歌われている。
…後略…
(『現代語訳 枕草子』大庭みな子 岩波現代文庫 2014年)