2022年6月11日土曜日

ポツポツと

歩いていると途中でポツポツと雨が降り出しました。
近畿地方の梅雨入りはまだですが、昨夜、父が故郷に電話をすると
ここ一週間ほど雨が降り続いているそうです…

こんな日は、体が重いです…
頭痛や倦怠感 梅雨入りで「気象病」患者増加も 特徴や対策は?〟(NHK 6月7日)

【動画】「気象病」の頭痛や倦怠感 症状和らげるための方法は〟(NHK 6月7日)
赤いキノコが生えていました。
キツネノタイマツかな?
似たキノコがあるので???

数年前に「毒キノコ注意!」の看板が設置されていて
カエンタケが見つかったという報告がありました。
教科書で習ったことがあるのですが、

 望月の歌
 この世はわが世


 さて、中宮職の職員任命が終わって、一同は公卿以下そろって土御門(つちみかど)邸の威子(いし)のもとに拝礼に行く。
庭に並んで礼をおこない、それから東の対に設けた席に着いて、祝宴が始められた。
(つど)う公卿は3人の大臣以下18人、やむを得ぬ事情や病気で遠慮したのは3人に過ぎず、目ざましい出席率である。
(『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中公文庫 2004年改版)
 形のごとく盃がまわされ、しだいに人々の酔いも増すなかに、楽人が召し出されて管弦が始まり、公卿・殿上人も地下(じげ)の者どもも、調子を合わせて楽に興ずる。
道長は冗談なども言って上機嫌であったが、ふと大納言実資(さねすけ)を招き寄せて、
 「歌を詠もうと思うが、貴君にもかならず一つ詠んでもらいたい」
と言った。
実資が承知すると、
 「自讃の歌だが、これは即興の作で、前もって作っておいたものではない」
とことわっておいて、つぎの有名な歌を詠み上げたのである。

   此の世をば我世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

 さて、ここで実資が返歌を詠むはめになったが、かれはどうもだいたち詩歌管弦のほうは、知識や理解は深かったが、実技になると自信がなかったらしい。
そこでつぎのように答えて、うまく切り抜けた。
 「いまの御作はいたって優美で、とてもこれにふさわしい返歌は作れません。唐の詩人、元稹(げんしん)が菊の詩を作ったとき、白楽天(はくらくてん)がそのみごとなのに深く感嘆し、自分がその詩に合わせて作るのをやめて、終日ただ元稹の詩を吟詠し、鑑賞していたという話があります。ただいまの御歌もこれと同様、これほどの名歌に返歌なぞは無用のことで、一同で繰り返しいまの御作を味わったらよろしいでしょう」
 この問答を聞いていた諸卿は直ちに実資の言に賛成し、一同、この望月の歌を数回吟詠した。
こうなると道長も悪い気はせず、実資に強いて返歌を求めることもなくて、祝宴は道長礼讃の声のなかに深夜まで続けられたのである。
 この望月の歌が、和歌としてどれほどの水準のものかは知らないが、これが道長の当時の心情をきわめて率直明解に吐露していることは確かである。
高慢とか、不謹慎とか、文句はいくらでもつけられもしようが、万事に技巧に走り、小うるさかった当時に、これほどすなおに日本晴れの心境をあらわした和歌は珍しい。
しかもこの歌は、まさに道長の作としてのみ格調も高く、味わいもあるところに特色がある。
 道長をこれほどまでに喜ばせ、この世はわが世と思わせたもの、それがすなわち威子の立后による布石の完成である。
それではその布石とはなにかといえば、天皇も東宮も自分の外孫で占め、太皇太后・皇太后・中宮と、歴代天皇の后の地位を全部自分の娘で固めることにほかならない。
 伊周(これちか)の排斥にはじまり、皇后定子(ていし)・皇后娍子(せいし)への妨害、三条天皇の退位、東宮の廃立と、その時々にかれが全力を挙げて進路を切り開いて来た跡をふり返れば、それはただ一筋にこのルートを直進した姿であった。
摂政の地位も、太政大臣の任も、このルートにおいてはたんに道中の里程標にすぎない。
かれがこの世をわが世と思い、円満具足の境遇を誇ったのは、摂政となり、太政大臣となったときではない。
威子の立后によって、現在および将来にわたり、外戚の地位が保証された時のことなのである。
 天皇の外戚なるがゆえに摂関の栄位を得ることができ、後宮をおさえることによって外戚の地位を確保することできるという摂関政治体制の原則を、かれほど完全な形で実行し得た者はほかにない。
まことにかれこそは、摂関政治の権化(ごんげ)と呼んでよいであろう。
 威子立后の祝宴は、三日間にわたっておこなわれ、さらに引き続いて10月22日、威子のいる土御門邸に、後一条天皇の行幸があった。
これとともに太皇太后・皇太后・東宮の行啓もあり、土御門邸は道長一家の繁栄を祝ってわきかえった。
競馬(くらべうま)・舞楽の興があり、さらに庭の中島では、詩作によって文章生(もんじょうせい)を選ぶ式部省試(しょうし)という試験もおこなわれて、文運の隆盛が示される。
道長の子弟や家司(けいし)は位階を進められ、道長は馬10頭や、道風(とうふう)・佐理(さり)の書を献上した。
 行幸啓に供奉(ぐぶ)した公卿はじつに21人、この盛儀に際し、三后御対面という劇的な場面に列座した道長は、その有頂天(うちょうてん)の心境を、「言語に尽くし難し、未曾有(みぞう)の事なり」と日記に記している。
 こうして、道長一家の栄華はその絶頂に達した。
2年半ののち、かれはさらに威子の妹の嬉子(きし)を東宮敦良(あつよし)親王の妃として送りこみ、ますますその地位を固めたが、もはやそれは確固不動の態勢を築いたのちの、若干の補強策にすぎない。
 望月の歌を詠んだ道長は、威子の立后をもってみずから満足し、そののちは急速に世事と離れて法成寺(ほうじょうじ)の建立(こんりゅう)に心を傾けはじめた。
立后の盛儀から半年ののち、1019年(寛仁3)後半以降のかれの日記が、記事が激減して空欄のみ目立っている事実も、その心境の推移を示すものであろう。
(『日本の歴史5 王朝の貴族』土田直鎮 中公文庫 2004年改版)
今朝の父の一枚です(^^)v
高山牛蒡(たかやまごぼう)を写しています。

牛蒡(ごぼう)
 (2)民俗療法 その他

〇ゴボウの種子は、腫物や瘡(くさ)などの吸出し薬として昔から知られていた。
『山海名物図絵』にも「牛蒡の実を大力子と云ふ。ねぶと腫物に其の実を一粒のめば、早速腫物(しゅもつ)の口あきてうみを出すなり」とある。
また「はれ物はゴボウの種子を一つ飲め、口ふっ切りてうみぞみな出る」という歌もある(茨城)。
富山・岐阜でも一粒のめばよいといっているのは、やや薬が効きすぎた感がなくもないが、何ぶんにもにがいものなので、嚙みつぶさず呑みこむようにしたという(群馬)。
とにかくゴボウの種子を丸呑みにするという報告が中部地方を中心にかなり広い範囲から集まっている(栃木・茨城・東京・静岡・山梨・新潟・富山・石川・岐阜・愛知・三重・奈良・岡山)。
石川県石川郡では、飲んだゴボウの種ができもののところへ出て膿を破るのだといい、東京都武蔵野市でも、ヒョウソは頭のない腫物なので、ゴボウの種を食べることによって腫物が吹き切られると、どうやらメス代りと受け取られる言い方をしているところを見ると、粒のまま呑むのが秘訣だったようにも思われる。
(『日本俗信辞典 植物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 令和2年)