2022年6月19日日曜日

梅雨空でしたが

 今朝も曇り空でしたが、雨は降りませんでした。
帰る頃には、空が明るくなり気温もグングン上がってきました。

各地で気温上昇 熱中症に注意 北日本と関東甲信は大気不安定に」(NHK)
 ノカンゾウが咲き出しました。

ノカンゾウ 

湿ったところが好きなので、田の畦や池の畔などに生えています。
ヤブカンゾウのように人家周辺ならどこにでもたくさんある、というわけではないので、あまり見ることはできません。
全体にヤブカンゾウより一回り小型です。
ニッコウキスゲなどもこのカンゾウの仲間です。
このグループはみな、一日花といって1つ花は朝咲いて夕方にはしぼんでしまい、1日しか持ちません。
その代り、花のつけ根を見ると、次に咲く花のつぼみがいくつもスタンバイしています。
(『花のおもしろフィールド図鑑(夏)』ピッキオ編著 実業之日本社 2001年)
 島内裕子さんが芭蕉の逸話を紹介しています。
『枕草子』の本文などは省略します。
三巻本では、第182段「村上の前帝の御時に……」になります。

第百八十段
 

…前略…
芭蕉は、生き物が可哀想な目に遭うのを避けた。
弟子が詠んだ「赤とんぼ羽をむしれば唐辛子」という句をたしなめ、「唐辛子羽をつければ赤とんぼ」と添削した逸話が伝わっている。
ちなみに、芭蕉には「曙はまだむらさきにほととぎす」という句もあり、『枕草子』によく通じていたことを思わせる。
(『枕草子 下』清少納言著、島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年)
 「忍者の里 甲賀市で忍術書の基となった書の写本初めて見つかる」(滋賀 NHK)

芭蕉について書かれた本に時々見かけるのが…
五月 さつき
 ◆芭蕉忍者説


 さきほど述べたように5月は夏至を含む月であるから、昼間の時間が長い。
したがって「いっとき」の長さも長い。
 何年かまえに私は栃木県鹿沼に居住する未知の方から質問を手紙を頂いた。
それを要約すると、

  私は趣味で芭蕉の『奥の細道』を調べておりますが、その歩いた時間の点で理解できず、先生の『こよみと天文今昔』や『暦と日本人』を読み、だいぶわかったのですが、なお不明確な点がありますのでおうかがいします。芭蕉は栃木県の鹿沼を辰の上刻出発、午の刻日光着。これをすべての解説書は午前8時(もしくは7時半)出発、正午着とし、正味4時間ないし4時間半の所要時間としています。ところがこの距離は七里以上あって、この距離、この時間では、徒歩では無理かと思います。

というものであった。
この日は元禄2年3月29日ともつけ加えてあった。
(『暦のはなし十二ヵ月[新装版]』内田正男 雄山閣 平成16年)
 調べてみると、元禄2年は閏月が入るので、太陽暦にすると、平均よりはだいぶ遅く、問題の日は5月18日(1689年)に当る。
すると明け六つは3時58分ころで、辰の上刻は5時15分くらいと考えられる。
とすれば正午(太陽の南中時刻)までに6時間半ほどもあるから、足の達者な昔の人にとって、七里を歩くのに不可能な時間ではない。
 ほかのところでも触れてきたけれども、明け六つを機械的に午前6時とするから、このような誤解というか、解釈に苦しむことが生じるのである。
そしてこんなに早く歩いたのだから、と芭蕉忍者説の裏づけに用いられたりするのである。
明け六つがちょうど午前6時になるのは、2月9日ごろと12月6日ごろの2回しかない(中央標準時・東京)。
 本来は十二支で表わす時刻は定時法の時刻の名称であり、この時刻の唱え方を辰刻法という。
これは一日を12に均分して、子の刻は11時から午前1時まで、丑の刻は午前1時から午前3時まで、寅の刻は午前3時から5時まで、卯の刻は5時から7時まで、そして辰の刻は午前7時から9時までとするものである。
 午の刻は午前11時から午後1時までであるから、12時は午の刻の真ん中で正午というのである。
午前・午後の言葉もなにげなく使っていても、その由来はこの午の刻の前か後かによっているのである。
 暦の上では定時法で表示されているから、上のとおりであるが、日常の生活は時の鐘に従っている。
時の鐘の九つ、八つ、七つ式の時刻の呼び名を時鐘式という。
こちらは明るさできまる時刻制であるから、「いっとき」の長さは季節、昼夜によって異なる。
しかし実際生活の上では、上の辰刻式と時鐘式、すなわち明け六つと卯の刻が混同され、十二支でよぶ時刻も不定時法の時鐘式と同じように使用されていた。
 ふつう明け六つを卯の刻の真ん中としていて、不定時法用として作られた和時計などは、文字板の表示もそうしていた。
 定時法は正確な機械時計の発明を待って実用性を帯びる。
西洋においてもそうであったし、わが国でも明治時代に至るまでは暦のうえ以外に定時法が日常に使われることはなかった。
 時刻の話は大変難しいが、明け暮の六つが決して六時(ろくじ)と同じでないことだけを認識してほしいと思う。
 また当時は精確な時計があるわけでなく、曇りの日が続いたら、ずっと精度は落ちるし、また次項で説明するように、上刻・中刻式の言い表わし方は暦法上の正規の呼称にはなく、解釈の仕方が一定ではなかったから、あまり厳密に論じても意味がない。
(『暦のはなし十二ヵ月[新装版]』内田正男 雄山閣 平成16年)
今朝の父の一枚です(^^)v
子どものころ、家の近くにレンコン畑や田んぼが広がっていました。

レンコン(蓮根)
 河内の湿地帯で観賞用と食用をかねて栽培

 レンコンの植物名はハスであり、熱帯及び温帯東アジアが原産とされていますが、定説はありません。
栽培の発祥はインドで、その後中国へは古代に伝わり、わが国へは5世紀頃朝鮮半島を経て渡来したものであろうとされています。
古来より仏教との関係の深い植物として知られ、『古事記』の雄略天皇の条に「くさかえの いりえの波知須 はなはちす みのさかりびと いとしろきかも」と自生していたレンコンが観賞用として詠われています。
そして、「くさかえ」は河内平野の陸地化前の汽水湖であった「草香江」と考えられ、また、『五畿内産物図絵』には「蓮根」として守口大根とならび図示され、河内の特産であったことがうかがえます。
この辺りは、当時湿地帯であり、レンコンの栽培に適した土壌条件であり、おそらく自生の在来品種が観賞用と食用を兼ねて栽培されていたものと推定されます。
わが国に自生していたレンコンは、鎌倉時代以降、中国からの食用のレンコン品種に置き換わっていったのです。
 大阪でのレンコン栽培は、門真市大字北島で地バスが付近の池に生えており、これを湿田で栽培するようになったのが始まりといわれています。
そして、明治40年頃には天満の市場に出荷されていましたが、自生種が貧弱な根であったため、収益があがらないと考えられていました。
その頃、石川県と岡山県から品質・収量性に優れた品種が入荷していたことから、大正9年に至って、これら産地から「加賀」「備中」に2品種が導入され、またたく間に河内に広がり、昭和40年代には栽培面積も400ヘクタールに達しました。
 都市化の影響で急速に栽培が減少し、平成11年度の統計では門真市を中心にあわせて約11ヘクタールとなりましたが、根茎が青粘土層で生育したものは品質が良く、「河内レンコン」として人気があります。
(『なにわ大阪の伝統野菜』なにわ特産物食文化研究会 農山漁村文化協会 2002年)