2022年6月23日木曜日

慰霊の日

公園で顔見知りの方との挨拶は「蒸し暑いですね…」
草むらを探すとマルバハッカを見つけました。
葉を一枚いただいてさわやかな香りに元気をもらっています。

近畿 午前中から真夏日に 水分補給など熱中症に警戒を」(関西NHK)
今日は
沖縄は23日 沖縄戦から77年の「慰霊の日」迎える〟(沖縄NHK)

「こわいをしって、へいわがわかった」 7歳が読んだ平和の詩全文〟(朝日新聞)

「天国のひいじいちゃんに届ける」 沖縄の小2が書いた「こわいをしって、へいわがわかった」 〟(沖縄タイムス 6月16日)

夕刊の記事に
24万の名、読み上げ悼む沖縄 12日間で1500人参加」(朝日新聞)

24万という数字だけでは、一人一人にそれぞれの人生があったことが忘れられてしまうような気がします。
名前を読むだけで12日間で約250時間かかったそうです。
母が生きていれば、ウクライナへのロシア侵略に
鉄の暴風の中を逃げ惑ったことを思い出してしまうと思う。
1980年に開催された
あれから35年「ひめゆりの乙女たち」展 鉄の暴風・沖縄戦の全容
(主催=朝日新聞社/沖縄タイムス社)の図録より

 「ひめゆり学徒隊」とともに 仲宗根政善

〝ひめゆり〟の由来

 沖縄の那覇と首里を結ぶほぼ中間地の安里(あさと)に、沖縄女子師範学校(明治43年創立・女子師範と略称。前身、女子講習科・明治29年創立)と沖縄県立第一高等女学校(明治33年創立、一高女と略称)があり、のち併置されて、一つのキャンパスをつくっていた。
校門に至る想思樹(そうしじゅ)の並木はうっそうと茂り、約3000坪の構内には教室校舎とともに、両校が共有する講堂、図書館、修養道場、体育館、プールなどがあった。
(「あれから35年『ひめゆりの乙女たち』展」 主催:朝日新聞、沖縄タイムス 1980年)
 校歌(大正13年作)の一節〝色香ゆかしき白百合の 心の花と咲き出でて〟と〝玉とかがよう乙姫の 心の光り磨きえて〟とから、公友会雑誌は一高女は「白百合」、女子師範は「乙姫」と称し、後〝ひめゆり学園〟などと称せられるようになった。
 太平洋戦争下の昭和18年、女子師範学校は専門学校に昇格して新制師範学校女子部となり、予科(3年制)と本科(2年制)とで生徒約280人がおり、第一高女は国民学校(現在の小学校)卒業生が入学する4年制で、生徒800人が学んでいた。
師範には県下全島(八重山、宮古、久米島などの離島を含む)から生徒が集まるので、寮が設置されていた。
 19年7月7日、サイパン島が失陥(しっかん)すると、ただでさえ優先していた勤労動員はさらに強化された。
垣花(かきのはな)・首里城・天久(あめく)・識名(しきな)・小禄(おろく)飛行場などの陣地構築に動員されたが、初めは授業・校内作業・動員の三部制であったのが、後半には二部制、つまり一日おきの動員となった。
米軍の上陸必至となった12月、日本軍は県当局と、女学校上級生に対する看護婦訓練の実施を協議・決定し、沖縄師範女子部・一高女にも、陸軍病院のための200名の確保を要求してきた。
 師範女子部と第一高女の上級生は20年の1月になってから、本校で看護の講義をうけ、さらに看護法の実習のため、南風原国民学校にある陸軍病院に遠距離を徒歩で通った。
 南風原(はえばる)陸軍病院壕へ

 3月24日、前日からの空襲に加えて、島尻・港川の方面から、聞きなれない轟音が大地をゆさぶって聞こえてくる。
艦砲射撃がはじまったのである。
 その日、第32軍司令部から従軍命令が下り、同夜、寄宿舎にいた全生徒があわただしく南風原陸軍病院へ出発した。
25日に卒業式が予定されていて、それが終われば帰ることになっていた離島の下級生の非看護要員も一緒だった。
淡い月影に照らされながら、識名の坂を登り、一日橋に下りて行った。
橋を渡ったところでいったん休憩し、あとから引いてくる大八車を待った。
車は故障して来ず、やむなく先発し、南風原国民学校(現在・同小学校)の前を通って喜屋武(きゃん)へ入った。
左に折れて製糖工場を過ぎ、陸軍病院壕のある丘陵東側へ出ると急に展望が開け、数棟の三角兵舎が建っていた。
風呂場と炊事場がついており、井戸も三ヵ所にあらたに掘ってあり、各棟には班長室があった。
 木の香も新しい兵舎で、のこくずを払い、ろうそくをともしてその夜を明かしたが、生徒は旅行にでも来たようで、いたって朗らかであった。
 こうしてひめゆり学徒隊の看護活動が始まったが、最初は収容患者も少なかったため、一部の者が看護に当たったのみで、ほとんどは衛生材料の運搬や壕掘り作業に従事していた。
三角兵舎にはわずか数日泊っただけで、生徒は東北の丘陵のはしに中城(ちゅうじょう)湾に向かって口のひらいた未完の壕、その裏側、炊事場に面する壕、そして東側中央のかなり深い二四号壕の三つの壕に分かれて収容された。
壕内に杭木を運んで敷き並べ、あるいは南風原国民学校の雨戸をはずして持ち込み、目白おしにやっと居並んだ。
湿気や炭酸ガスで息苦しく、暗闇のなかで艦砲や空襲の恐怖と闘いつづけた。
 3月29日夜、ひょっこりと野田貞雄校長と西岡一義部長が首里の軍司令部から来られ、卒業式を挙行することになった。
せめて卒業証書だけでももらいたいと願っていた生徒たちは急にはしゃぎだした。
いちばん南端の三角兵舎が式場に当てられた。
場内には二本のろうそくがともされていた。
来賓には広池陸軍病院長ほか、5、6名が列席しただけで、父兄として金城和信氏たった一人であった。
野田校長は悲痛な面持ちで最後のはなむけのことばをおくられた。
教職に身を奉ずる者の心構えを説き、戦場における女性の処すべき道をねんごろにさとされた。
ついで西岡部長から熱烈な鼓舞激励の誨告(かいこく)があって、総代として佐久川つるが答辞を述べた。
最後に『海ゆかば』を斉唱。
厳しゅく、悲壮の感に身もふるえ、すすり泣く声があちこちに聞こえ、歌声は砲声の中に消えていった。
犠牲者あいつぐ

 4月1日、嘉手納に上陸した米軍は同5日には東進して沖縄本島を南北に両断、中旬になると、戦闘の激化にともない患者は激増した。
これに応じて4月24日、生徒はそれまで三ヵ所の壕に分かれて、看護隊、作業班などに編成されていたのを、第一、第二、第三外科付きとしてさらに各壕に分散し、各科看護婦長の直接の命令をうけて行動することになった。
引率教師は各診療主任のもとにあって、主として戦死または負傷生徒の処理に当たることになった。
 他の分室への移動もあり、第一高女3年生は津嘉山経理部長の要求でその自給班に編入され、そこに収容される患者の看護に当たった。
また一日橋・識名分室にも患者が激増したため、第一高女3年生が配置され、さらに南風原病院が超満員となったため患者の一部とともに、生徒の一部も玉城村の糸数分室に移った。
 日米両軍の首里攻防戦は激しくなり、首里城の陥落もせまった5月25日、南風原陸軍病院は重症患者を壕に残し、歩ける患者だけを引きつれて、南部摩文仁(まぶに)地区へ移動することを決定した。
 それまでに、生徒からも4名の戦死者と多くの負傷者を出していた。
これら負傷者をいったいどうすればよいのか。
防衛隊が担架(たんか)でかつぐとはいっていたが、あてにならなかった。
 本科2年の渡嘉敷良子は、胸部と大腿(だいたい)部を負傷していた。
学友たちが、おぶって連れ出そうとしたが痛さにたえかねたため、とうとう断念して重傷患者とともに壕に残さなければならなかった。
石垣実俊教諭、狩俣キヨもついに残された。
 移動の夜は照明弾がたえず明滅し、砲弾がさく裂した。
生徒たちはそのなかを泥まみれになって、あるいは患者に肩をかし手を引き、あるいは繃帯(ほうたい)をちぎって道しるべとして進んだ。
夜通し歩いてようやく真壁(まかべ)にたどり着いたが、そこには患者を収容する壕もなく、焼け残る民家や岩かげ、あるいは草むらに倒れ伏した患者たちは、ほとんどが最後をとげた。
 津嘉山経理部、識名分室、一日橋分室、糸数分室に分かれていた生徒や負傷兵たちも移動してきて、摩文仁で落ちあった。
陸軍病院の軍医・衛生兵・看護婦・生徒とわずかの負傷兵は、本部(山城)・第一外科(糸数分室を含む。伊原・波平)・第二外科(糸洲)・第三外科(〝ひめゆりの塔〟のある壕)に分かれて退避した。
 5月31日、首里城は陥落した。
日本軍の軍司令部はすでに摩文仁が丘に移動していた。
米軍は強力な掃討(そうとう)作戦を展開して南進し、日本軍将兵も民間人も地引き網で追い込まれるようにして、沖縄最南端の島の一角に圧縮された。
 6月18日夕刻、陸軍病院は生徒の解散を命じた。
第三外科壕には軍医・衛生兵・看護婦・職員生徒・軍炊事婦・民間人約100名がいた。
翌19日早朝、壕を脱出しようとする寸前に米軍に包囲されてガス弾を投下され、職員生徒40名が最後をとげた。
その他、軍医以下判明した戦死者35名、奇蹟的に生き残った生徒は5名であった。
 本部・第一外科・第二外科各壕の職員生徒たちは弾雨のなかへ、三々五々連れだって壕を脱出した。
多くは最南端の喜屋武海岸断崖に追いつめられ、あるいは自決し、あるいは砲弾で最後をとげ、また投降した。
 ひめゆりの壕には、その他の犠牲者を含めて、職員16名、生徒194名が祀られている。
(「あれから35年『ひめゆりの乙女たち』展」 主催:朝日新聞、沖縄タイムス社 1980年)