やがて小雨になったのでリハビリ散歩に行きました。
「関東甲信が梅雨入り 平年より1日 去年より8日 いずれも早く」(NHK)
関西はまだですが、和歌山県では
〝6月6日は「梅の日」 みなべ町の神社で梅の豊作願い神事〟(和歌山NHK)今日は、「芒種(ぼうしゅ)」で「蟷螂生(かまきりしょうず)」
幼虫に出会いました。〝英エリザベス女王「くまのパディントン」と共演 演技が話題に〟(NHK 6月5日)
とっても自然な演技で、笑顔が素敵です。
「The Queen meets Paddington Bear for jubilee celebrations」(BBC)
他の動画も素敵ですよ(^^)v
ロイターのtwitterで字幕付きが見られますよ(^^)v
「“北朝鮮弾道ミサイル 少なくとも6発 EEZ外落下推定”岸防衛相」(NHK 6月5日)
弾道ミサイルを発射しているのですが、
北朝鮮の新型コロナ感染状況は…
「北朝鮮の新型ウイルス流行、何が起きているのか」(BBC 6月5日)ウクライナの状況をニュースで見るたびに、多くの人々が不条理な死を余儀なくされています。
ウクライナの人々もそうですが、
ロシア兵の母親たちもやがて息子たちの死の知らせを受けるでしょう。
先日、再放送があった
こころの時代~宗教・人生~
「害(そこな)われし人々のなかに ~沖縄でコルヴィッツと出会う」
佐喜眞美術館は、一度訪れたことがあります。
小さな美術館ですが、
コレクションをつらぬくテーマは、「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」です。
館長の佐喜眞道夫さんの思いが詰まった美術館です。
番組で紹介されたケーテ・コルヴィッツの版画や彫刻が好きです。
「Das Käthe-Kollwitz-Museum」(Berlin)
「ケーテ・コルヴィッツ」(世界現代美術作家情報サイト) はじめに
天命をまっとうすることができずに迎える不条理な死――戦争、テロル、あるいは飢餓による死。
残された人びとの悲しみを思うとき、ケーテ・コルヴィッツの作品がわたしの脳裏に浮かぶ。
戦争で息子を奪われた両親の像、敬愛する人を失った人びとがならぶ<カール・リープクネヒト追憶像>。
数々の作品は、深い悲しみとともに、その死を胸に刻み生きてゆこうとする意志を表現している。
ケーテ・コルヴィッツは、二度の世界大戦で、二人のペーターを失った。
第一次世界大戦で次男のペーターを、第二次世界大戦で孫のペーターを。
(『ケーテ・コルヴィッツの肖像』志真斗美恵 績文堂出版 2006年) ケーテ・コルヴィッツは、ドイツで戦争と革命の世紀を生きた画家であった。
彼女が生まれた1867年は、日本では大政奉還・明治維新の年である。
ドイツ帝国の誕生(1871年)、第一次世界大戦(1914~18年)、ヴァイマル共和国成立(1919年)、ドイツ革命の敗北(1919年)、ナチスによるファシズム支配と戦争の時代(1933~45年)を彼女は生き、戦争が終結する直前に亡くなった。 彼女は、版画を中心にして、素描、彫刻の分野で50年以上にわたる活動を続けた。
その生涯に創造した版画作品は275点、そのほかに多数の素描や下絵、そして色彩の施された作品と十数点の彫刻がある。
その数は、多いとはいえないかもしれない。
だが彼女にとって、生きることは、作品を創造することであった。
どのように困難なときでも、彼女はけっして絵画や彫刻から離れなかった。
彼女の祖父は言った――「才能は、同時に使命である」と。 ケーテ・コルヴィッツは思索する芸術家であった。
創造の過程で彼女は思考を深めていく。
作品を完成させるまで何年も、何十年もかけるのは、稀ではなかった。
その長い時間のなかで、彼女は、たえず作品をそのときの現在の光のなかで検証した。
少女時代から晩年に至るまで100点あまりにのぼる自画像は、彼女が自己を凝視しるなかから創作する作家であった証でもある。 ケーテ・コルヴィッツは文章を書く人でもあった。
自画像を描くだけでなく、文章でも自分を語っている。
本を読み、日記を書き、絶えず自分をみつめた。
少女時代は『回想』(1923年)に、画学生の時代をへて版画家として40歳になるまでは『若いころの思い出』(1941年)にまとめられている。
1908年から書きはじめた日記は、十冊、1500ページにのぼり、素直で飾り気なく、また自己に対して容赦ない批判の刃を向けている。
それは、個人的日録にとどまることなく、作業日誌的要素も持ちあわせていて、彼女の作品をみるときの補助線となってくれる。 ケーテ・コルヴィッツが没して60年。
いまなお世界各地で戦禍は絶えない。
戦争に死者はなくならない。
飢えもなくならない。
世界60億の人びとのうち、8億人以上の人びとが飢餓状態にある。
彼女が版画や彫刻で描いた現実は変わっていない。
イラクで戦死したアメリカ兵の母親の悲しみは、九十数年前のケーテのそれと同じである。
戦場でわが子をさがす母親も、戦争のために寡婦となった妊婦も数知れない。
「平和主義」――それは彼女が死を前にしたときの言葉である。
ケーテ・コルヴィッツの作品は、いまも平和を考えるための手がかりになるとわたしは確信している。 ケーテ・コルヴィッツの仕事は、彼女が生きた時代ときりはなして考えることはできない。
彼女自身が書き残した日記・回想・手紙をてがかりに、激動の時代とかかわりつづけてきた彼女の足跡をたどり、ケーテ・コルヴィッツの生涯をいまからわたしなりに綴ってみたい。
作品を時代のなかに位置づけ、言葉でケーテ・コルヴィッツの肖像を描いてみようと思う。
(『ケーテ・コルヴィッツの肖像』志真斗美恵 績文堂出版 2006年)今朝の父の一枚です(^^)v
一部、田植が行われていました。
六月 仲夏
芒種から夏至のころ
夏の梅仕事
…前略…
芒種はや人の肌さす山の草 鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)
「芒種」とは、稲や麦など芒(のぎ)のある穀類を刈り取る時期、日取りは新暦の6月5日ころに当たります。
麦が熟れ「麦秋(ばくしゅう)」の時期を迎え、やがて稲作のはじめの田植えがはじまります。
その田の水を恵んでくれるのが梅雨です。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
弾道ミサイルを発射しているのですが、
北朝鮮の新型コロナ感染状況は…
「北朝鮮の新型ウイルス流行、何が起きているのか」(BBC 6月5日)ウクライナの状況をニュースで見るたびに、多くの人々が不条理な死を余儀なくされています。
ウクライナの人々もそうですが、
ロシア兵の母親たちもやがて息子たちの死の知らせを受けるでしょう。
先日、再放送があった
こころの時代~宗教・人生~
「害(そこな)われし人々のなかに ~沖縄でコルヴィッツと出会う」
佐喜眞美術館は、一度訪れたことがあります。
小さな美術館ですが、
コレクションをつらぬくテーマは、「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」です。
館長の佐喜眞道夫さんの思いが詰まった美術館です。
番組で紹介されたケーテ・コルヴィッツの版画や彫刻が好きです。
「Das Käthe-Kollwitz-Museum」(Berlin)
「ケーテ・コルヴィッツ」(世界現代美術作家情報サイト) はじめに
天命をまっとうすることができずに迎える不条理な死――戦争、テロル、あるいは飢餓による死。
残された人びとの悲しみを思うとき、ケーテ・コルヴィッツの作品がわたしの脳裏に浮かぶ。
戦争で息子を奪われた両親の像、敬愛する人を失った人びとがならぶ<カール・リープクネヒト追憶像>。
数々の作品は、深い悲しみとともに、その死を胸に刻み生きてゆこうとする意志を表現している。
ケーテ・コルヴィッツは、二度の世界大戦で、二人のペーターを失った。
第一次世界大戦で次男のペーターを、第二次世界大戦で孫のペーターを。
(『ケーテ・コルヴィッツの肖像』志真斗美恵 績文堂出版 2006年) ケーテ・コルヴィッツは、ドイツで戦争と革命の世紀を生きた画家であった。
彼女が生まれた1867年は、日本では大政奉還・明治維新の年である。
ドイツ帝国の誕生(1871年)、第一次世界大戦(1914~18年)、ヴァイマル共和国成立(1919年)、ドイツ革命の敗北(1919年)、ナチスによるファシズム支配と戦争の時代(1933~45年)を彼女は生き、戦争が終結する直前に亡くなった。 彼女は、版画を中心にして、素描、彫刻の分野で50年以上にわたる活動を続けた。
その生涯に創造した版画作品は275点、そのほかに多数の素描や下絵、そして色彩の施された作品と十数点の彫刻がある。
その数は、多いとはいえないかもしれない。
だが彼女にとって、生きることは、作品を創造することであった。
どのように困難なときでも、彼女はけっして絵画や彫刻から離れなかった。
彼女の祖父は言った――「才能は、同時に使命である」と。 ケーテ・コルヴィッツは思索する芸術家であった。
創造の過程で彼女は思考を深めていく。
作品を完成させるまで何年も、何十年もかけるのは、稀ではなかった。
その長い時間のなかで、彼女は、たえず作品をそのときの現在の光のなかで検証した。
少女時代から晩年に至るまで100点あまりにのぼる自画像は、彼女が自己を凝視しるなかから創作する作家であった証でもある。 ケーテ・コルヴィッツは文章を書く人でもあった。
自画像を描くだけでなく、文章でも自分を語っている。
本を読み、日記を書き、絶えず自分をみつめた。
少女時代は『回想』(1923年)に、画学生の時代をへて版画家として40歳になるまでは『若いころの思い出』(1941年)にまとめられている。
1908年から書きはじめた日記は、十冊、1500ページにのぼり、素直で飾り気なく、また自己に対して容赦ない批判の刃を向けている。
それは、個人的日録にとどまることなく、作業日誌的要素も持ちあわせていて、彼女の作品をみるときの補助線となってくれる。 ケーテ・コルヴィッツが没して60年。
いまなお世界各地で戦禍は絶えない。
戦争に死者はなくならない。
飢えもなくならない。
世界60億の人びとのうち、8億人以上の人びとが飢餓状態にある。
彼女が版画や彫刻で描いた現実は変わっていない。
イラクで戦死したアメリカ兵の母親の悲しみは、九十数年前のケーテのそれと同じである。
戦場でわが子をさがす母親も、戦争のために寡婦となった妊婦も数知れない。
「平和主義」――それは彼女が死を前にしたときの言葉である。
ケーテ・コルヴィッツの作品は、いまも平和を考えるための手がかりになるとわたしは確信している。 ケーテ・コルヴィッツの仕事は、彼女が生きた時代ときりはなして考えることはできない。
彼女自身が書き残した日記・回想・手紙をてがかりに、激動の時代とかかわりつづけてきた彼女の足跡をたどり、ケーテ・コルヴィッツの生涯をいまからわたしなりに綴ってみたい。
作品を時代のなかに位置づけ、言葉でケーテ・コルヴィッツの肖像を描いてみようと思う。
(『ケーテ・コルヴィッツの肖像』志真斗美恵 績文堂出版 2006年)今朝の父の一枚です(^^)v
一部、田植が行われていました。
六月 仲夏
芒種から夏至のころ
夏の梅仕事
…前略…
芒種はや人の肌さす山の草 鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)
「芒種」とは、稲や麦など芒(のぎ)のある穀類を刈り取る時期、日取りは新暦の6月5日ころに当たります。
麦が熟れ「麦秋(ばくしゅう)」の時期を迎え、やがて稲作のはじめの田植えがはじまります。
その田の水を恵んでくれるのが梅雨です。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)