2022年6月13日月曜日

薄曇りだけど

薄曇りだったので太陽に暈(かさ)がかかっていました。
明日は、雨の予報です。
近畿は明日かな?

四国が梅雨入り 平年より8日 去年より32日 いずれも遅く」(NHK)
ダーウィンが来た!「実はすごい!身近なアマガエル 意外な素顔
公園では、出会えていないのですが、番組を見て知らないことばかりでした( ゚Д゚)

アマガエルを観察してみよう」(日本博物協会)

 雨蛙(あまがへる)
 <枝蛙(えだかわず)・青蛙(あおがえる)・夏蛙(なつがえる)・森青蛙(もりあおがえる)>三夏 動物

 アマガエルの皮膚は湿度や気圧に敏感で、夕立が迫ったり、雨模様になると繁殖期でなくても鳴く。
その泣き声は「レインコール」と言われる。
冬眠から覚めたときや晩秋には雨に無関係の鳴く。
鳴くのは雄である。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
  ニホンアマガエルは日本の他、朝鮮半島、中国の東北部に広く分布している。
ニホンアマガエルの寿命は飼育下で5年、野生で数年という。
気温が下がると冬眠する。
体長2.5センチから4センチほどである。
木の葉や草の上に棲んでいる。
目の後ろに黒線があり、体の色は木の葉にとまると緑色、木の幹や地上にいると茶色というように変化する。
木の枝にとまることもあって枝蛙とも呼ばれる。
英語では Japanese tree frog という。
 雨という字が付いているので水にいると連想することがあるが、平地から低い山地に棲み、繁殖期にだけ水辺にくる。
水田などで生まれたとき、群で上陸し、あぜ道を横切ることもある。
小さいから踏まないようにしなければならない。
 ヒキガエル(蟇)の毒はブフォトキシンで犬が泡を吹いて倒れたという報告があるが、ニホンアマガエルも「ヒストンH4」という溶結性蛋白質の毒を持っており、それによって皮膚を細菌などから守るために分泌する。
微生物の細胞膜を溶かす作用があるので、手に傷のある人がアマガエルに触ったらすぐに手をよく洗った方がいい。
  アマガエルは肉食で、昆虫類やクモ類を捕食する。
動いているものに反応するので、死んだものや動かないものは食べない。
夜、人家の窓などの明かりに集まる昆虫を捕食する。
天敵はサギ、アカショウビンなどの鳥類、ヤマカガシやヒバカリなどの蛇、イタチやタヌキなどの哺乳類だが、大型のカエル、タガメやゲンゴロウなどの肉食水生昆虫、ナマズ、ライギョなどの肉食魚類からも捕食される。
アマガエルは人を恐れず、手のひらに乗ったり、歩いて腕によじ登る。
人里や里山に棲息し、人がいない場所にはいない。
水田とともに分布を広げた可能性も考えられている。

  太郎冠者仕えるべく青蛙  阿波野青畝(あわのせいほ)
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)

(「幻覚作用をもつものもあるカエルの毒」フジクリーン工業)
 〝与謝蕪村が書き写した「奥の細道」5点目の作品見つかる〟(京都NHK)
というニュースがあったので、記事の内容を変更して(^^ゞ

第2章「芭蕉」へのまなざし
 11 芭蕉と「蕉門」


 芭蕉に発した行脚の流行を、蕪村は嫌っていたかのようにみえる。
「日本過半は行歴」したという蕪村にして、そんな思いを抱かざるをえなかった。
行脚僧、行脚俳人としかいえない生活をかつて送っていた蕪村にも、目に余る風潮と映った。
(『蕪村』藤田真一 岩波新書 2000年)
 かといって、芭蕉の旅のこころを尊崇する念は人一倍もっていた。
だからこそ、「野ざらし紀行」や「奥の細道」の本文を丹念に写し、そこへしゃれた絵を配するなどという、手間のかかる企てをおこなったのだ。
 芭蕉追憶の行為が、いくら高邁な動機から発したことであったとしても、それが惰性の流行となり、いつしか低俗の弊をまねくようになる。
そんな風潮を蕪村は忌避した。
世間に流行(はや)る芭蕉と、芭蕉そのものの意味とは、無関係であると考えていたのではあるまいか。
 芭蕉に寄せる、蕪村の深い胸のうちをよく明かす句文がある。
歳末のあわただしさのなかで、この塵埃(じんあい)の世をのがれようとしたとき、壁にもたれて、翁の一句をふかく閑(しず)かに吟ずる(「沈吟する」)と、たちまち心がすみわたってくる、という。
その一句とは、

 としくれぬ笠着(かさき)てわらじはきながら
  この句は、自分にとって「摩訶止観(まかしかん)」ともいうべきものだ、と告白する。
風雅に生きる者の根本経典、という意味である。
笠とわらじを身につけているというのは、旅中にあることをいう。
すなわち、旅のままに年の暮れを迎えることをよんだものとなっている。
笠とわらじを、生活の俗塵を超越する芭蕉精神の象徴と、蕪村は理解していたにちがいない。
そして「蕉翁去(しょうおうさ)りて蕉翁なし」という、ため息にも似た片言を書きつける。
あげくのはては、

 芭蕉去(ばしょうさり)てそのゝちいまだ年(とし)くれず

と、嘆声一句、吟ずるばかりであった。
 蕪村が、芭蕉中興・芭蕉復古の時代風潮のなかで生きたことは、歴史的現実である。
だが、また蕪村は、芭蕉流行に、ただやみくもに身を委ねていたわけではなかった。
その時代の空気を吸いながら、空気の汚れをいつも敏感に嗅ぎ分けていなければ、時代を抜きんでる存在になりえなかっただろう。
 俳壇にとって、「芭蕉」が新鮮な空気であった時期もある。
だが、その空気がよどんでくると、逆にそれが汚染源になることもある。
蕪村はそのことをいたく憂えていた。

  近年蕉門といふてやかましき輩(やから)、いづれもまぎらかしの句のみいたし候(そうろう)て、片はらいたき事に候。 (天明3年9月朔日付月渓宛書簡)

と嘆くこともあった。
芭蕉流をかたって、実態は芭蕉ふうに似せた、まがいものの句ばかりやっておると蔑(さげす)んでいるのだ。
べつの手紙でも、当節の蕉門とやらは、見かけだおしで、俗耳をおどろかす「まぎれ物」ばかりだと、口をきわめて難じている。
そこで「拙老(せつろう)、はいかいは敢(あえ)て蕉翁之語風を直(ただち)に擬候(ぎしそうろう)にも無之(これなく)」(安永2年11月13日付暁台宛書簡)と、いわゆる芭蕉流から距離をおく姿勢をしめすこともあった。
 「芭蕉」に利用価値が出て、「蕉門」であることが流行になると、作品の錬磨がおろそかになり、質の低下をまねくことになるものだ。
蕪村はそのことに我慢ならず、「芭蕉之語風」や「蕉門」にあえて背を向けるような発言をくりかえすことになる。
 しかし、蕪村の本心は、ひたすら芭蕉を敬仰するところにあった。
蕪村にとって、鉤括弧(かぎかっこ)つきの芭蕉ではなく、芭蕉のひとと作品にじかに向き合うことがなによりたいせつだったのだ。
ゆったりと深く息を吸って、句をひとり「沈吟」しなければ、芭蕉は味わえないものだったにちがいない。
「芭蕉」をめぐって、一見あい反するもの言いをしているかにみえるが、世間の「芭蕉」と、わたくしの「芭蕉」に明確な区別があっただけである。
蕪村の芭蕉へのまなざしは、くもりなく澄みきっていたとしかいいようがない。
 だからこそ、おのが亡骸(なきがら)を葬る地として、自分たちが金福寺境内に再興した芭蕉庵のすぐ横、芭蕉碑のかたわらにと言い置いた。
そのとき、死後にかける願いの一句は、こうであった。

  我(われ)も死(し)して碑(ひ)に辺(ほとり)せむ枯尾花(かれおばな)

 天明3年(1783)12月25日未明、享年68歳の生涯を一期(いちご)とした。
(『蕪村』藤田真一 岩波新書 2000年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ハクセキレイの幼鳥を写していました。
この公園でも繁殖するようになった…?

伊丹(いたみ)・昆陽池(こやいけ)の鳥 伊丹三樹彦(いたみみきひこ<俳人>)

 セキレイとヤマセミ、カワセミ

 セキレイにはハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイが最も普通に見られる。
むろん、昆陽池と限らず、各地各所で接するが、僕には帰盆したふるさとの播州三木の川のほとりで眺めたセキレイのことが忘れられぬ。
その川は美嚢(みのう)川といい、川幅は百メートル以上もあろうか。
七夕には笹を流し、盆には精霊舟(しょうりょうぶね)を流す。
が、川下に大きな呑吐(どんと)の堰(せき)があり、笹も舟もそこで停滞してしまう。
それだけに、セキレイの好個の餌場ともなったようで、彼らは堰を越す僅(わず)かな流れの上を、右に左にと敏捷(びんしょう)な千鳥歩きをしてあわただしく嘴を突っ込む。
千鳥歩きとは、そのようにジグザク歩きをすることであって、酔漢のようにふらつきはしないのだ。
また、立ち止まったときには、尾羽を盛んに上下させる。
好んで石の上に止るため「石叩(たた)き」の別名が生じ、俳人はこれを大いに活用する。
  石叩き 礎石ばかりの陣屋跡
という具合で、これは越前の朝倉遺跡を訪(おとな)うた折の、僕の最近作である。
セキレイの一種、ハクセキレイの繁殖地は、北海道と青森にとどまっていたが、近頃は南下して、加賀、越前にまで及んでいるとか。
面白い符号である。
…後略…
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)