2022年6月10日金曜日

もうじきかな…

 蒸し暑い朝で、もうじき梅雨になるのかな…
晴れの日が続いたのでカタツムリがジーッとしている。
水曜日の0655の朝めし前クイズ(見逃し配信:6月15日まで)
カタツムリの殻のうず巻きは、どれが正しい?
①右巻き
②左巻き
③どちらもある
マクロレンズなので遠かったのですが
 ハクセキレイの父親が幼鳥に朝ご飯をあげているみたいでした。
幼鳥がもう一羽いました。
もうじき自分でご飯をつかまえることができるようになるp(^^)q
 アオサギの朝ご飯のメニューはカナヘビのようです。
カナヘビは、私が見つけたときは、すぐに草などの中に隠れるのに…
アオサギは、動きが素早く、長い首と嘴が、逃げる暇を与えないのでしょうね。
清少納言は、定子の最期を描きませんでしたが、
先日、紹介した『後拾遺和歌集』の定子の歌などについて

【終章】よみがえる定子
 共有された死


 ここからは、『枕草子』に記されていることではない。
定子(ていし)の死をうけた、人それぞれの思いである。
 長保(ちょうほう)2(1000)年12月16日早朝、定子は崩御(ほうぎょ)した。
第三子の女二宮(おんなにのみや)・躾子内親王(びしないしんのう)を出産し、力尽きて果てたのだ(『権記(ごんき)』同日)。
(『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子 朝日選書 2017年)
 実はこの時、后(きさき)の身に異変の恐れありとは、都の少なからぬ人々の予知するところだったと思われる。
天象(てんしょう)のもたらす前触れ「もののさとし」によってである。
しばらく前のある日の巳(み)の刻頃、平安京を囲む東西の山を結ぶような筋雲が、空にかかった。
しかも二筋、折しも出ていた月を間に挟み込むように。
月は后を象徴しており、この雲は不祥(ふしょう)を意味する。
つまり后に凶事が起きる前兆なのだ(『権記』長保二年十二月十五日)。
ちなみに巳の刻(午前十時前後)に空に月の見えるのは、概算で二十日の月から五日の月まで。
定子の崩御は十六日だから、怪異はそれより少なくとも十日以上は遡(さかのぼ)る日に起きたことになる。
折しも今上(きんじょう)天皇の「后」は、2月の「二后柵立(にこうさくりつ)」によって二人になっていた。
災禍に見舞われるのは、皇后の定子なのか。
それとも中宮(ちゅうぐう)の彰子(しょうし)なのか。
答えは定子であったというわけだ。
 この怪異によって、定子の死は多くの都人(みやこびと)の共有する凶事となった。
あるいは劇場型の出来事と言ってもよい。
もとより定子は、長徳(ちょうとく)の政変の時には伊周(これちか)と隆家(たかいえ)の立てこもる家を野次馬化した都人が取り囲むなど、物見高い世間にとって恰好(かっこう)の話題源であった。
その時、野次馬たちは興味本位で捜索を見守りながら、邸内から家人(かじん)の泣き声が漏れてくると自分たちももらい泣きするなど、さながら観客のごとき様相を見せていた(第八章「政変の中で」)。
そして今崩御の時も、都人は天兆に心を騒がせ、その的中に驚くこととなった。
定子は世に大きな存在感を遺したのである。
 そしてもう一つ、定子自身が辞世(じせい)を遺して逝(い)ったことも、こちらは和歌を解する層の人々に波紋を生じさせたに違いない。
定子は死を予感しており、遺書とともに数首の和歌を詠んでいた。
しかも彼女はそれを誰かに託したのではなく、自身の死の床となった御帳台(みちょうだい)の帳(とばり)に紐に結び付けていた。
後に和歌を採録した勅撰集(ちょくせんしゅう)の詞書(ことばがき)から推して、発見者は高位の者ではない。
床を片付けた女房(にょうぼう)か、あるいは下仕えか。
説話や歌物語によれば、平安時代にはこうした階級の人々こそが、和歌とそれにまつわる秘話「歌語(うたがた)り」を口伝によって広める存在であった。
   一条院の御時、皇后宮かくれ給ひてのち、帳(とばり)のかたびらの紐に結び付けられたる文を見つけたりければ、「うちにもご覧ぜさせよ」とおぼし顔(がほ)に、歌三つ書き付けられたりける中

 夜もすがら 契りしことを 忘れずに 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

  (一条院の御代<みよ>に、皇后の宮がお隠れになった後、御帳台の帳の紐に結び付けられた手紙を見つけ開いたところ、いかにも「帝(みかど)にも御覧に入れて」との御意向のように和歌が三首書きつけられていた。その中に

  一晩中、あなたは私に愛を誓って下さいました。その言葉をお忘れでないなら、私の亡くなった後、あなたは私を恋しがって下さるでしょう。そして悲しみの余り、血の涙を流すでしょう。その色が見とうございます
)  (『後拾遺和歌集』哀傷 536)
 一首目は、一条天皇に。
「涙の色」は漢文に見える表現で、いかにも教養あふれる定子らしい和歌だ。
だが、それだけではない。
「夜もすがら契りしこと」には、唐の玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の悲恋を描いた漢詩「長恨歌(ちょうごんか)」の世界が垣間見えるという、平安文学研究者・新間一美の研究もある。
玄宗と楊貴妃が七夕の「夜半」に比翼連理(ひよくれんり)の二世を「誓」い合うくだりだ。
確かに定子は、楊貴妃のように寵愛(ちょうあい)と栄華を極めつつ、だが変転の果てに散った。
  知る人も なき別れ路(ぢ)に 今はとて 心細くも 急ぎたつかな
 (この世と別れ、知る人もいない死の世界へ。心細いけれど、急いでもう旅立たなくてはなりません)  (『後拾遺和歌集』哀傷 537)

 二首目は、死を覚悟しつつ寂しさと不安を漏らした和歌。
あの世は「知る人もなき」どころか亡父も亡母も待つ世界なのに、彼女の心はこの世に遺してゆく夫と子どもたちしかなかった。
定子は死にたくなかったのだ。
やがてこの歌を知り激しく心を動かされたのが、誰あろう紫式部(むらさきしきぶ)である。
彼女は定子の物語を、日本の摂関(せっかん)政治における愛と政治の物語へと昇華させた。
『源氏物語』冒頭、光源氏の父帝と母・桐壺更衣(きりつぼのこうい)の物語だ。
そこで更衣が辞世を詠んでいる。
  限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり
 (もうおしまい。お別れして、行かなくてはなりません。でもその死出<しで>の道の悲しいこと。行きたいのは、生きたいのはこんな道ではありません。私は命を生きたいのに) (『源氏物語』「桐壺」)

 桐壺更衣の和歌の「別るる道」は定子の和歌の「別れ路」とほぼ同語である。
どちらも羇旅(きりょ)の和歌にはしばしば使われる言葉だが、死別の和歌に使われることは少ない。
まして辞世となると、平安和歌ではこの二首しか私には見つけられていあに。
紫式部は桐壺更衣の物語中ただ一つの肉声に、定子の和歌を響かせたのだ。
紫式部が『源氏物語』「桐壺」巻の執筆に取り掛かるのは長保3(1001)年に夫を亡くした後、喪失感を癒すために物語の習作を始めてからのことだから、定子の死の数年後になる。
その間、定子の辞世は紫式部の心に深く仕舞(しま)い込まれてあったのである。
  煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ
 (私の身は、煙となって空に上がることも、そこで雲になることもありません。でも、どうぞ草の葉におりた露を、私と思って見てください) (『後拾遺和歌集』異本 哀傷 537の次)

 三首目の辞世。
平安時代の葬送(そうそう)の方法は、貴族階級においては大方が火葬であった。
しかし定子はこの和歌で、自分の体は焼かれて煙になることも雲になって空に漂うこともないと詠んでいる。
そうではなく、草の葉の上におりる露になるのだと。
これを遺志として、定子の遺体は荼毘(だび)に付されず、鳥辺野(とりべの)の一角に建てられた「霊屋(たまや)」に納められることとなった。
葬儀は皇后の崩御の際の制度に則(のっと)り国事として行われた。
参加する役人たちの耳から耳へと、この和歌は伝えられたに違いない。
 こうして、定子の死は皇室や朝廷の中枢部のみならず、都の名もなき人々の心にまで鮮烈な記憶を刻むこととなった。
彼女の死は都人に共有されたのである。
(『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子 朝日選書 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)v
サルビアの花が植えられていました。
母と一緒に来ていたころは、サルビアの花が見られたのですが、
ここしばらく風車の丘では植えられなかった。

●唇のような花冠

 シソの葉や花、実はよく食用にされますが、食べてしまう前に花を観察してみてください。
シソの花をよく見ると、花冠は横向きで、先が上下に大きく2つに分かれて、まるで横から見た唇のよう形をしています。
そのため、上側を「上唇(じょうしん)」、下側を「下唇(かしん)」といい、その間の筒部分は「花喉(かこう)」と呼ばれています。
このような形の花冠を「唇形花冠(しんけいかかん)」といい、ホトケノザやサルビア、ラベンダーなどのシソ科(図84<省略>)、道端で見かけるムラサキサギゴケや、花壇に植えられているキンギョソウなど、従来のゴマノハグサ科の多くの植物に特有なものです(図85<省略>)。
…後略…
(『観察する目が変わる 植物学入門』矢野興一 ベレ出版 2012年)