セミの鳴き声(クマゼミ?)が一瞬聞えましたサイエンスZERO「イモリの超再生力 意外すぎる仕組み&医療に生かせる!?」
ニホンカナヘビの尻尾が再生しているのを見たことがあるけど
再生したのだとわかるほど色が違っていた
でも、イモリの再生能力には、ビックリした!
人間も母親の胎内では、もっていたけど、成長する過程でなくしてしまっているそうです。
「近畿梅雨明け 統計開始以降最も早く 猛烈な暑さ 熱中症警戒」(関西NHK)
「中国 四国 近畿 今後も雨少ないか 農作物の管理などに注意を」(NHK)
一方、
「東北北部で非常に激しい雨 29日にかけ北海道でも大雨の見込み」(NHK)
「大気不安定 夕方にかけ大雨のおそれ 土砂災害などに注意」(岩手NHK)
朝刊に
「梅雨最短 東海13日間・九州南部16日間・関東甲信21日間」(朝日新聞)
…前略…
ラニーニャ現象の際、南米・ペルー沖から太平洋中部にかけての赤道域では海面水温が平年より低くなる一方、太平洋西部の水温は高くなる。
日本の南の海上では水蒸気量が多くなり、積乱雲の発生が増加。
この影響で上空のチベット高気圧の張り出しが強まり、偏西風は通常より北を流れる。
この結果、太平洋高気圧も北へ張り出し、列島は暖かい空気に覆われやすくなって暑くなる。
ラニーニャ現象が梅雨前線の北上を早めた可能性もあるという。 [エル・ニーニョ]
南米ペルーの沖合は養分の豊富な湧昇流(ゆうしょうりゅう)のおかげで、アンチョビに加工されるカタクチイワシの好漁場である。
しかし数年に一度、イワシがさっぱり獲れない年があることが知られていた。
この現象をエル・ニーニョと呼ぶ。
エル・ニーニョとはスペイン語で「男の子」=「キリスト」を意味し、この現象がクリスマスの頃に起こることにちなんだものである。
(『新しい高校地学の教科書』杵島正洋他 講談社ブルーバックス 2006年) エル・ニーニョは、ペルー沖から赤道に沿ってはるか沖合にかけての海水温が平年よりも高くなる現象である。
そもそも太平洋の東岸であるペルー沖は、貿易風が表層の暖水を西に押し流すため下からの湧昇流が促進され、赤道の近くにもかかわらずこの冷水のおかげでやや涼しい気候となる。
沖合に浮かぶガラパゴス諸島にはペンギンが生息しているほどである。
ところが、エル・ニーニョの年は貿易風が平年より弱く、表層の暖水を十分に西に押し出すことができない。
その結果、ペルー沖の表層を軽い暖水がふさいでしまい、養分に飛んだ深層水の湧昇を妨げるため、プラクトンの育ちが悪くイワシが増えないなど生態系に大きな影響を与えてしまう。 エル・ニーニョは貿易風と海水循環という地球規模の流れが引き起こす現象であるため、ペルー沖のみならず地球全体に影響を与える。
太平洋全体にわたつ海水温の分布が変わってしまうと、低気圧や高気圧の配置も変化してしまい、気候に大きな影響を与える。
もちろん日本もエル・ニーニョの影響を受け、一般的に暖冬・冷夏となる傾向がある。
なお、逆に貿易風が強すぎて起こる異常気象をラ・ニーニャ(「女の子」の意)と呼ぶ。
エル・ニーニョやラ・ニーニャをもたらす貿易風の強さの変化は数年おきの周期で起こっているらしいが、その原因などま不明な点も多い。
(『新しい高校地学の教科書』杵島正洋他 講談社ブルーバックス 2006年)
大原御幸(おおはらごこう)
女院が、大原の里に隠れ住んでいることを聞かれた後白河法皇は、前々から一度、寂光院を訪ねたいと思われていたが、二月、三月の寒い冬の季節は一寸無理なので、賀茂の祭も過ぎた四月半ば、大原御幸をいよいよ実行されることになった。
お忍びの御幸ではあったが、供奉(ぐぶ)は徳大寺実定以下、公卿六人、殿上人八人、北面の武士も数人お供に加わった。
途中、清原深養父(きよはらのふかやぶ)の建立になる補陀洛寺(ふだらくじ)、小野皇太后宮の旧跡なぞをご覧になってお出でになった。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
丁度四月も二十日過ぎのことで、そろそろ春も終ろうとしていた。女院が、大原の里に隠れ住んでいることを聞かれた後白河法皇は、前々から一度、寂光院を訪ねたいと思われていたが、二月、三月の寒い冬の季節は一寸無理なので、賀茂の祭も過ぎた四月半ば、大原御幸をいよいよ実行されることになった。
お忍びの御幸ではあったが、供奉(ぐぶ)は徳大寺実定以下、公卿六人、殿上人八人、北面の武士も数人お供に加わった。
途中、清原深養父(きよはらのふかやぶ)の建立になる補陀洛寺(ふだらくじ)、小野皇太后宮の旧跡なぞをご覧になってお出でになった。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
夏草の茂みを踏んで、人の通ったこともない山道をわけゆくのであるから、見慣れぬ風景に法皇も興をそそられた様子であった。
暫くゆくと、西の山の麓にそれらしき御堂が見て来た。
年代の経った泉水木立がいかにも由緒あり気で、庭の若草も、今を盛りと茂り合っていた。
池の中州の松には、薄紫の藤がしだれかかり、遅咲きの桜が色どりを添えていた。
折しも、山時鳥(やまほととぎす)がわけ知り顔に、ひと声鳴くのも一層情趣があった。
池水に汀(みぎわ)の桜散り敷きて
波の花こそ盛りなりけれ
法皇のお歌である。 女院の庵室の軒には、蔦(つた)、朝顔がからみついていた。
板の葺目(ふきめ)もまばらで、雨や露をどうやってしのいでいるのかと思えるほどであった。
うしろには直ぐ山が控え、前は荒涼たる野原に続いている。
およそ人の訪れといっては、たまに木樵(きこり)の木を伐る音と、木から木へ渡り歩く猿の声のみであった。
「誰か、誰かおらぬか?」
法皇が呼びかけてみたが、室内はしんと静まり返って、人のいるらしい気配もない。
どうしたのだろうと思っていると、大分経ってから、老いさらぼえた老尼が、よろけるように出てきた。 「女院はおいでか」
「今、此(こ)の上の山へ花を摘みにお出でございます」
「花を、ご自身でか? そんなことまでする人もいないのか、何とそれは気の毒な」
法皇がいいかけると、老尼はきっとなって、言葉をさえぎった。
「何を申されまする、決してお気の毒ではござりませぬ。過去、未来の因果をお悟りの上は、左様なことは決してお嘆きではござりませぬ。悉達太子(しったたいし)にしてからが、難行苦行の末、悟りをお開きになったのではござりませぬか」 その態度の毅然とした様子に打たれて法皇は、つくづく老尼をご覧になった。
絹か、布かの区別も判らぬ、みすぼらしい限りの衣服を着けていたが、それにしても、中々道理のあることを申す者と思われたのか、
「そなたは、一体何者なのじゃ」
と、お聞きになった。
老尼は、はたと当惑したように押し黙ってそっと涙を拭った。
「お判りにならぬのも尤(もっと)もでございます、申し上げるのも恥ずかしいことながら、私は故少納言入道信西(しんぜい)の娘で阿波の内侍(あわのないし)、母は紀伊(きいの)二位、昔は大層可愛がって下さったものでござりましたが、やはり身の衰えはどうしようもござりませぬのう」
と、しのび泣くのであった。
「何? そなたは阿波の内侍であったか、すっかり見忘れていた。それにしても夢のようじゃな」
と、まだ信じられないご様子であった。
供奉(ぐぶ)の面々も、先程から、妙に高飛車な尼と思っていたがと、今更ながら驚くのであった。 内侍の案内で女院の庵室に入り、障子を開けると、一間には来迎の三尊が飾られていた。
中尊は手に五色の糸を持ち、左には普賢(ふげん)の画像、右には善導(ぜんどう)和尚と先帝の画像と並び、妙法蓮華経八巻と、善導和尚の手になる九巻の御書(ごしょ)も置かれていた。
昔は蘭麝香(らんじゃこう)の香りにみちみちた部屋に過された女院であったが、今は、あやしい香の匂が部屋一杯にたちこめているのであった。 障子には、いろいろなお経の文句を色紙に書き、ところどころに張りつけてあった。
大江定基(さだもと)法師の、「笙歌(せいが)遥かに聞い孤雲の上、聖衆(しょうじゅ)来迎す落日の前」という詩も見えた。
又女院の歌らしく、
思いきや深山(みやま)の奥に住居して
雲居の月をよそにみんとは
というのも書かれてあった。
隣りのひと間は、ご寝所であるらしく、竹の桁に、麻の衣、紙の夜具などが掛っている。
その余りのみすぼらしさに、昔の女院の日常が思い合わされ、供奉した殿上人一同、涙を押し拭うのであった。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
つづく… 今朝の父の一枚です(^^)/
モンシロチョウがネジバナの蜜を吸っているのですが、
ネジバナにとってあんまり歓迎されない訪問客のようです。
と言うのも
ネジバナの螺旋階段
虫モードで発見したものは?
…前略…
ラン科の花は、花粉を塊ごと虫の体にくっつける独特の仕掛けを備えている。
それが「花粉塊(かふんかい)」である。
花粉の塊と粘着体がセットになって、丸ごと花から外れてくるのだ。
ランの花の構造は巧妙である。
雌しべと雄しべは合体して「蕊柱(ずいちゅう)」をつくり、その裏側にそっと花粉塊を隠している。
花粉塊(いわば花粉の袋詰め。ネジバナではタラコのような形)は、細い柄を介して粘着体(いわば粘着テープ。ネジバナではディスク型)につながり、粘着体の接着面はハチの体が通過する想定地点にぴったりとセットされている。
…後略…
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【春夏篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
つまり小さなハチは、花の中にもぐり込んで花粉塊を運んでくれますが
モンシロチョウなどはストロー(口吻<こうふん>)で蜜を吸うので花粉がつきにくいのです。
午後から期日前投票に行ってきました。
平日でしたが、次々と投票に訪れていました。