2022年6月26日日曜日

曇っていたので

今朝は、曇り空でしたので昨日の暑さよりましでした。
帰る頃には青空が見えてきて、これから気温がぐんぐん上がりそう(-_-;)

近畿地方 午前中から厳しい暑さ続く 熱中症に警戒を」(関西NHK)
題詠四十首
   催馬楽(さいばら)に寄する恋
52 見し人は かれがれになる 東屋(あづまや)に しげりのみする わすれ草かな

<現代語訳>
  催馬楽に寄せる恋
かつて逢う瀬を重ねた人は すっかり疎遠になってしまい 草花の枯れた東屋に 忘れ草が生い茂るように 忘れ去られてゆくばかり
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)
語 意
催馬楽 平安時代以降におこった歌謡の一つ。上代歌謡や、当時流行の歌謡の歌詞を雅楽の旋律に合わせて歌った。
見し人 男女の契りを交わした人、の意。
かれがれ 「枯れ枯れ」と訪れる絶えがちな意の「離(か)れ離(が)れ」の掛詞。「かれ」と「草」は縁語。
東屋 四方葺(ふ)き下ろしの簡素な建物。亭(ちん)。「東屋の 真屋(まや)のあまりの ……鎹(かすがひ)も 錠(とざし)あらばこその殿戸 我鎖(とざ)さめ わすれ草 押開いて来ませ 我や人妻」(催馬楽「東屋」)。
わすれ草 萱草(けんそう<かんぞう>)・諼草(けんそう)の異名。『詩経』の毛伝(もうでん)に「諼草、食之令人 忘憂者(諼草は人をして憂<うれ>を忘れしむ)」と注するが、転じてこの歌のように「人を忘れる草」にも用いられる。
解 説
省略
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)
ブラタモリ「京都・大原~なぜ大原は“癒やしの里”になった?~
大原は、学生時代にサークルで合宿をしたりして懐かしい場所。
番組の最後に寂光院を訪れていました。
22年前に本堂が全焼したことをニュースで知りショックを受けました(「左京区 寂光院火災」 京都市消防局)。
旧御本尊だけがその姿を奇跡的にとどめていたのは知っていたのだけど
胎内から3,416体もの小さな仏像が出てきたことを初めて知り、その姿に目がかすみました。
小さな仏像は、救いを求める人たちが祈りをささげ奉納したものと考えられているそうです。

『平家物語』の中でも好きなのが「灌頂の巻」。
前に、現代語訳を『平家物語二 日本古典文学全集30』より転記したことがあるのですが、
尾崎士郎訳を転記したいと思います。
 灌頂の巻 
  大原入(女院御出家)

 壇の浦で入水するところを、源氏の兵に救い上げられ、京に帰った建礼門院は、昔とはうって変った侘(わび)しい生活を続けていた。
 昔、中納言法印慶恵(きょうえ)という、奈良の僧が住んでいた坊が、空家になっていたところに住まわれていたが、見るかげもない廃屋で、草深い庭に囲まれ、寝所を掩う簾さえもない有様で、これが、かつて絢爛(けんらん)豪華な宮殿に、多くの侍女にかしずかれて過ごした人の住居とは、到底、信じられなかった。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
 それにつけても、まだ、西国の波の上で、仮寝の夢を結んでいた生活の方が、ずっと幸せであったような気がして、思い出話といえば、直ぐ、あの当時は苦しかった西国の会場生活のことであり、あの時は誰々が生きておいでであった、あの方もまだご無事でおいでであったなどと、今は亡き人々のことばかりが、ひとしきり話題にのぼり、それが涙をそそる種となるのである。
 この世に何の望みもなくなった女院は、いよいよ出家の決心を固められ、文治元年五月一日に、御戒(おんかい)の師に、長楽寺の阿証坊(あしょうぼう)の上人印誓(いんせい)を選んで髪を切られることになった。
  御布施(ふせ)には、今まで形見にと思って大切に持っていた先帝の直衣(のうし)を、他に適当な物がなかったので、泣くなく取り出されて、上人に渡されたのである。
印誓上人もあまりの痛わしさに涙ながらにおしいただいて、帰っていった。
 女院が女御の宣旨(せんじ)を受けられたのは十五歳の年で、翌年中宮となり、二十二歳で皇子を生み、皇子が即位されて安徳帝となられて以来は、院号を賜り、建礼門院と称したのである。
 清盛の娘という幸運にめぐり合わせたうえ、内裏へ入られてからは天下の国母(こくも)と仰がれ、人々の尊敬と羨望を一身に集めていた。
丁度、今年で二十九歳である。
花の盛りを過ぎたとはいえ、天性の美貌は少しも衰えを見せなかったが、今となっては、もう誰に見せる必要もない黒髪であったから、惜し気もなく切り捨てて、仏門に入ったのである。
 しかし、出家したからといって、簡単に思い切るには余りにも辛いことの多かった半生であった。
先帝始め二位殿の最後の様子は、いくら忘れようと努力しても忘れられるものではなく、山鳩色の御衣を召し、びんずりに結った可愛らしい帝の面影は、まぶたの底にこびりついて離れず、いつ憶い出しても涙のつきることがなかった。
夜になって床に就いても、目を閉ずれば、幼い帝の顔、入水していった人々の姿が、あざやかによみがえって、眠られぬ夜を過ごしてしまうのである。
  五月の風に誘われて、時鳥(ほととぎす)が、時折、二声三声と鳴いて過ぎた。
昔に変わらぬ時鳥の鳴き声が、女院に華やかな宮廷生活を憶い出させたものであろう。
(すずり)の蓋(ふた)に、一首の歌を書き記されたのであった。

  郭公(ほととぎす)花たちばなの香をとめて
    鳴くは昔の人ぞ恋しき

  女院につき従っていた女房たちも、源氏の武士に捕らえられて都へ帰ってからは、とても人前に出られぬような姿で、哀れな暮しを続けているのであった。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)/
アオメアブを撮っていました。

捕えたら放さない最強のアブ
 ムシヒキアブの仲間


 飛んでいる昆虫を捕まえて食べる

 ムシヒキアブの仲間は、見晴らしの良い葉っぱや枝、石の上などにとまって、近くを手頃な獲物が通りかかるのを待っている。
そして大きな複眼で獲物の姿を見つけると、飛び上がって獲物の背後から襲いかかる。
つまり屈強な6本の足で獲物を抱きかかえ、鋭い口を背中から指して消化液を注入し、一瞬にして獲物を殺してしまうのだ。
獲物を捕らえたムシヒキアブは、たいてい足場のいい葉っぱの上などにとまって、ゆっくりと獲物の体液を吸う。
 彼らの餌食になる昆虫はさまざまだが、ムシヒキアブの種類によって、多少好みがあるようだ。
時には自分よりも大きなトンボや、硬そうなコガネムシ、ハチやセミを食べていることもある。
幼虫は土の中などで、やはり他の虫を食べている。
(『虫のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年)