歩いていると目に汗が入ってくるほど
「あすにかけて前線が停滞 近畿や東海などで激しい雨のおそれ」(NHK)
地震で地盤が弛んでいる能登地方は大丈夫なのだろうか?
〝能登地方の地震 地殻変動との関連指摘 「流体」の関与も〟(NHK 6月20日)この花、可哀想な名前が付いているけど別名「サオトメバナ(早乙女花)」ともいいます。
薬草として利用されています。
「ヘクソカズラ」(亜熱帯植物資源データベース)第1章 暮らしの歳時記
御田(おんだ)
〝御田〟とは、本来は伊勢神宮の神田(しんでん)で行われる御田植行事のことをいうが、一般の神社の田植にも使われるようになった。
呼称は各地で異なり、田遊(たあそび)、御田打(おたうち)、田神祭(たがみまつり)などいろいろである。
能『加茂(かも)』の替間(かえあい)にも「御田」がある。
「十二月」では大阪住吉大社の神事を指している。
旧暦五月二十八日だったが、現在は6月14日に行われる。
古来多くの儀式があって、まず本殿で植女(うえめ<以前は新町廓の奉仕だったが、今はどうなっているか>)、稚児各十二人に神官から稲苗が授けられ、風流武者、花笠八乙女(やおとめ)、伶人(れいじん)らと行列をつくって神域にある神田まで行き、一般から選ばれた替植女(かえうえめ)に稲苗を渡す。
替植女は浅黄地に松と鷺を染め出した揃いの衣装に赤襷(だすき)、白脚絆(きゃはん)、菅笠(すげがさ)を冠り、昔ながらの田植歌を歌いながら田植する。
この間に本社の神苑では住吉踊が行われる。
これは五人一組で、いずれも白衣に墨の腰衣、素足に草鞋、縁に幕を垂らした菅笠を冠り、音頭取りが御幣を立てた朱色の長柄の傘と割竹を持ち、それを中心に四人が手に団扇を持って踊るもので、かつては神宮寺の僧が勤めた。
この様子は舞踊『喜撰(きせん)』にも取り入れられている。
幕末になると願人坊主(がんにんぼうず)が踊って諸国を回り、それが「かっぽれ」の始まりともいわれる。
一方、舞楽殿では神田から戻った八乙女の田舞、風流武者の棒打などがある。
残念ながら私は拝見したことがないので、間違いがあればお許し願いたい。
(『京なにわ 暮らし歳時記』山田庄一 岩波書店 2021年)参考までに関連していると思うサイトを紹介します。
「志摩 御田植祭 大切に受け継がれる米作りの神事」(みちしる 2015年)
「御田植神事」(住吉大社)
「加茂/賀茂(かも)」(the能ドットコム)
「替間(かえあい)」(the能ドットコム)
「喜撰 八世坂東三津五郎」(YouTube)3章 気温のしくみ
季節の変化の起こる理由
次に、季節変化について考えましょう。
次の図3-17(省略)は、地球が太陽のまわりを公転するようすです。
地軸を一定の方向に傾けたまま公転するので、日本の位置する北半球は、太陽のほうを向いたり、逆に太陽に背くようになったりと変化します。
北半球が太陽のほうを向くときが日本では夏です。
太陽が真南の空に見える高さ、つまり南中高度は、夏至の日に最も高くなります。
また昼間の時間も長くなり、北半球の受け取る太陽放射の量が増えるので、気温が上がります。
(『図解・気象学入門』古川武彦、大木勇人 講談社 2011年) 夏至の日は6月の下旬(22日頃)ですが、最も気温の高くなるのは8月頃です。
このずれが生じるのは、1日の最高気温が南中時刻よりも遅れるのと同じような理由です。
北半球において、「太陽放射>地球放射」ならば気温は上がる局面にあり、逆に「太陽放射<地球放射」ならば気温は下がる局面にあります。
夏至の日に温度が上がる局面にあるのはもちろんですが、夏至の日を過ぎても「太陽放射>地球放射」が続く限り気温は上がり続けます。
気温がピークとなる8月頃、やっと「太陽放射=地球放射」となり、その後気温は下降に転じます。
これとは逆に、北半球が太陽に背くようになったとき、日本では冬です。
南中高度は、12月下旬(22日頃)の冬至の日に最も低くなります。
冬至の日以降は北半球の受け取る太陽放射が増加し始めますが、「太陽放射<地球放射」がしばらく続くため、気温は1月あるいは2月まで低下が続きます。
(『図解・気象学入門』古川武彦、大木勇人 講談社 2011年)昔?は京都を静かに歩くのには、夏と冬がおススメでした。
と、言うのも観光客が少なかった…
澤田瞳子さんの本を携えて歩きたいなぁ
夏――
納涼・甘味噺(ばなし)
京都の蒸し暑さは、耐えがたいものがある。
なにしろもともとが多湿な地域、その上盆地で風がない。
家の中でも熱気が身体を包み込み、サウナに入っている気分。
汗がじわりとにじ出る。
こういう気候のためか、京都は一人当たりのアイスクリーム消費量全国一だそうだ。
(『京都はんなり暮し』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)
(この本が出たのは2008年6月です)
「冬は、いみじうさむき。夏は、世に知らずあつき」
と愚痴(ぐち)ったのは、平安時代の清少納言(せいしょなごん)。
彼女は夏が苦手だったのだろうか、『枕草子』には夕闇時、牛車(ぎっしゃ)の後ろの御簾(みす)を上げさせて町中を疾駆(しっく)させるさまが涼しげだ、などという箇所もある。
現在ならバイクを飛ばして風を感じる、といったところか。 まあ、そんな行為に憧れる気持も判らないではない。
なにしろ彼女たちの涼み方といったら、扇で風を起こすぐらいが関の山。
それも上品に風を送る程度で、ばたばたあおいでは駄目なのだから大変だ。
だが時折、京都・大坂などの山中で冬に貯蔵した氷が、宮中に献上される。
後宮にも配布された小さな氷を水に浮かべ、手を浸して涼むこともあったようだ。「あてなる(上品な)もの……削(けず)り氷(ひ)に甘葛(あまずら)入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる」
甘葛は当時のシロップ、つまり清少納言の言うこれはかき氷である。
もちろんイチゴシロップもメロンシロップもないから、削り氷の色は白。
それを入れた金属の鋺(わん)が冷え、曇りを帯びている様を想像すると楽しくなってくる。
(「鋺(まり)」 e國寶) そういえば、今年はまだかき氷を食べていない。
というわけで先日、早速(さっそく)女友達を誘い出した。
四条のあの店は混んでいるから嫌、こちらの店は店の人が嫌だ等々、あれこれ選別した挙句、足を運んだのは東山・八坂の「文の助茶屋」本店。
ここのかき氷は氷が細かくておいしい。
それにどこの店も凍(こご)えるほどクーラーが効いている現代にあって、庭の大きな傘の下、床几にかけて氷をいただける。
もちろん冷房が入っている部屋もさるのだが、日陰で食べる方が室内より何倍もおいしく感じるから不思議だ。 この文の助茶屋は明治43年(1910)、上方の落語家・二代目桂文之助が引退後始めた店。
傘の向こうに、八坂の塔の先端がのぞき、軒先(のきさき)にはくくり猿が揺れている。
かつてはここから少し北、高台寺(こうだいじ)下の三面大黒天境内にあったのだが、数年前に現在地に移転してきた。
多くの飲食店が現代風に改装される中、新しく作られたにもかかわらず、古い茶店の雰囲気を見事に再現していることも、私がこの店を好む理由の一つだ。
これは「京に田舎あり」という語を好んだ文之助の「田舎風の茶店を」との願いを受け継いだものだという。 余談であるが、この二代目文之助は二代目曽呂利(そろり)新左衛門の弟子。
自由民権運動の徒、「オッペケペー節」で世情を批判した川上音二郎とは兄弟弟子になる。
現在でこそ定席(落語を毎日上演する小屋)が一つもない京都だが、実はこの町は落語発祥の地。
そもそもの落語の始まりは、僧侶の説法だったという。
「落語かあ、わたし、見たことないわ」
友人はかき氷を匙(さじ)で崩しながらあっさり言う。
この女性は東京出身。
東京なら新宿末広亭や鈴本演芸場があるのに……しかし彼女はさらに、
「だってあんまり落語って馴染みがないし」
と、切って捨てる。「そうかなあ。とんち話とか、笑い話とかで少しは知ってるストーリーもあるんと違う? <平林>とか、聞いたことあらへん?」
<平林>さん宛ての手紙を渡され、お使いに出された子供。
この<平林>に字がわからず道行く人に読んでもらうのだが、ある人は<ひらばやし>といい、またある人は<たいらばやし>、<ひらりん>。
挙句は<一八十(いちはちじゅう)の木木(もくもく)><一(ひと)つと八(や)っつで十(とう)、木木(きき)>などととんでもない読み方を教えられる、という小噺(こばなし)。
「あ、子供向けの笑い話で読んだことあるわ。それって、落語なの?」
「うん。けどあれ、無茶苦茶古い噺やねん」 それまでの僧侶の辻説法を、落語の原形にまで変化させたのは、戦国末期の京都誓願寺(せいがんじ)住職・安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)。
かれは不世出の説法上手といわれ、小噺の最後にはじめて「落ち」をつけたことから、落語の始祖と言われる。
前述の<平林>は、かれの著作『醒睡笑(せいすいしょう)』という笑い話集に載っているもの。
実は策伝の俗姓は「平林」。
だからこれは多分、かれの実体験に基づく噺だろう。
『醒睡笑』には他にも、現代の落語の原案が多く収録されている。
…つづく…
(『京都はんなり暮し』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)
「冬は、いみじうさむき。夏は、世に知らずあつき」
と愚痴(ぐち)ったのは、平安時代の清少納言(せいしょなごん)。
彼女は夏が苦手だったのだろうか、『枕草子』には夕闇時、牛車(ぎっしゃ)の後ろの御簾(みす)を上げさせて町中を疾駆(しっく)させるさまが涼しげだ、などという箇所もある。
現在ならバイクを飛ばして風を感じる、といったところか。 まあ、そんな行為に憧れる気持も判らないではない。
なにしろ彼女たちの涼み方といったら、扇で風を起こすぐらいが関の山。
それも上品に風を送る程度で、ばたばたあおいでは駄目なのだから大変だ。
だが時折、京都・大坂などの山中で冬に貯蔵した氷が、宮中に献上される。
後宮にも配布された小さな氷を水に浮かべ、手を浸して涼むこともあったようだ。「あてなる(上品な)もの……削(けず)り氷(ひ)に甘葛(あまずら)入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる」
甘葛は当時のシロップ、つまり清少納言の言うこれはかき氷である。
もちろんイチゴシロップもメロンシロップもないから、削り氷の色は白。
それを入れた金属の鋺(わん)が冷え、曇りを帯びている様を想像すると楽しくなってくる。
(「鋺(まり)」 e國寶) そういえば、今年はまだかき氷を食べていない。
というわけで先日、早速(さっそく)女友達を誘い出した。
四条のあの店は混んでいるから嫌、こちらの店は店の人が嫌だ等々、あれこれ選別した挙句、足を運んだのは東山・八坂の「文の助茶屋」本店。
ここのかき氷は氷が細かくておいしい。
それにどこの店も凍(こご)えるほどクーラーが効いている現代にあって、庭の大きな傘の下、床几にかけて氷をいただける。
もちろん冷房が入っている部屋もさるのだが、日陰で食べる方が室内より何倍もおいしく感じるから不思議だ。 この文の助茶屋は明治43年(1910)、上方の落語家・二代目桂文之助が引退後始めた店。
傘の向こうに、八坂の塔の先端がのぞき、軒先(のきさき)にはくくり猿が揺れている。
かつてはここから少し北、高台寺(こうだいじ)下の三面大黒天境内にあったのだが、数年前に現在地に移転してきた。
多くの飲食店が現代風に改装される中、新しく作られたにもかかわらず、古い茶店の雰囲気を見事に再現していることも、私がこの店を好む理由の一つだ。
これは「京に田舎あり」という語を好んだ文之助の「田舎風の茶店を」との願いを受け継いだものだという。 余談であるが、この二代目文之助は二代目曽呂利(そろり)新左衛門の弟子。
自由民権運動の徒、「オッペケペー節」で世情を批判した川上音二郎とは兄弟弟子になる。
現在でこそ定席(落語を毎日上演する小屋)が一つもない京都だが、実はこの町は落語発祥の地。
そもそもの落語の始まりは、僧侶の説法だったという。
「落語かあ、わたし、見たことないわ」
友人はかき氷を匙(さじ)で崩しながらあっさり言う。
この女性は東京出身。
東京なら新宿末広亭や鈴本演芸場があるのに……しかし彼女はさらに、
「だってあんまり落語って馴染みがないし」
と、切って捨てる。「そうかなあ。とんち話とか、笑い話とかで少しは知ってるストーリーもあるんと違う? <平林>とか、聞いたことあらへん?」
<平林>さん宛ての手紙を渡され、お使いに出された子供。
この<平林>に字がわからず道行く人に読んでもらうのだが、ある人は<ひらばやし>といい、またある人は<たいらばやし>、<ひらりん>。
挙句は<一八十(いちはちじゅう)の木木(もくもく)><一(ひと)つと八(や)っつで十(とう)、木木(きき)>などととんでもない読み方を教えられる、という小噺(こばなし)。
「あ、子供向けの笑い話で読んだことあるわ。それって、落語なの?」
「うん。けどあれ、無茶苦茶古い噺やねん」 それまでの僧侶の辻説法を、落語の原形にまで変化させたのは、戦国末期の京都誓願寺(せいがんじ)住職・安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)。
かれは不世出の説法上手といわれ、小噺の最後にはじめて「落ち」をつけたことから、落語の始祖と言われる。
前述の<平林>は、かれの著作『醒睡笑(せいすいしょう)』という笑い話集に載っているもの。
実は策伝の俗姓は「平林」。
だからこれは多分、かれの実体験に基づく噺だろう。
『醒睡笑』には他にも、現代の落語の原案が多く収録されている。
…つづく…
(『京都はんなり暮し』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)