2022年6月14日火曜日

梅雨入りだけど…

梅雨入りをしました。
私の感覚では、梅雨の雨は、しとしと、ジメジメとした雨なんだけど
風が強かったなぁ…

近畿が梅雨入り 平年より8日 去年より2日 いずれも遅く」(関西NHK)
鳴き声はよく聞いているのだけど(かなりの数が棲息しているみたい)、
初めて目撃しましたウシガエル
在来種のカエルでなく
食用、養殖用としてアメリカ合衆国南部、ニューオリンズから持ち込まれた(1918年)
NHKスペシャル「獣害を転じて福となす~雅(まさ)ねえと中国山地の物語~
父と一緒に見ていて、イノシシやサルの獣害は、
人間が「餌付け」しているからだという雅ねえの言葉に納得しました。
都市でカラスが増えたのも人間が餌付けをした結果なんですよね。
どうすればいいのか?
雅ねえの答えは、高齢の女性でも実践できる方法でした。

関連した記事が

(2022年6月11日の放送内容を基にしています)

獣害を転じて福となす元気な過疎の町 ~島根県 美郷町~」(NHK6月7日)
見逃した方は、今夜午前1時15分から再放送があります。
現在の「モノノケ」と平安時代の「モノノケ」は違うようです。

序章 畏怖の始まり
…前略…
 また『枕草子』181「病は」に「病気は、胸、もののけ、あしの気」とあるように、『枕草子』が書かれた10世紀末から11世紀初頭には、モノノケは病名であり、貴族にとって代表的な病気の一つとされた。
ちなみに、「胸」とは胸部の痛みを伴う病気を指し、「あしの気」は脚気(かっけ)のことである。
…後略…
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
 絶大な権力を手に入れた藤原道長には怖いものなどないように思いますが…
小山聡子さんと山本淳子さんの本から転記します( ..)φ

第一章 震撼する貴族たち――古代

 藤原道長を脅かしたモノノケの正体


 古代には、モノノケは、基本的には人間に背後から接近、あるいは接触することによって病気をもたらすと考えられていた(森正人「<もののけ>の憑依をめぐる心象と表現」)。
ただし、接近、接触するのみではなく、慿入(ひょうにゅう)するとも捉えられていた可能性も否めない。
たとえば、『栄華物語』29「たまのかざり」では、藤原道長の娘妍子(けんし)がモノノケによる病を患い加持を受けたものの欠伸(あくび)さえしなかったのでモノノケが立ち去ったのかと思ってよいのだろうけれど、妍子の具合は前と同じである、とされている。
この事例は、人の霊が口などから出入りすると考えられていたのと同様に、モノノケもそのように捉えられていた可能性を示している。
そうであるならば、モノノケは慿入するとも考えられていたことになるだろう。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
 さて、藤原道長はすでに「まえがき」でも述べたように、モノノケに怯え暮していた貴族の一人である。
道長は、天皇の外戚(がいせき)として栄華を極めるに至るまでに、多くの者たちを排斥してきた。
たとえば、兄道隆(みちたか)や道兼(みちかね)、道隆の子の伊周(これちか)や隆家(たかいえ)、定子(ていし)をはじめとする貴族からの怨念を意識していたと考えられる。
道隆は関白になったものの病に倒れ、そのあとを継いで関白に就任した道兼はわずか七日で無念の死を遂げたのであった。
その後、道長は、伊周との政権争いの末、内覧、右大臣、氏長者(うじのちょうじゃ)となった。
長徳(ちょうとく)2年(996)、伊周と隆家は、花山(かざん)法皇に威嚇の矢を射かけ、さらに臣下が行ってはいけない太元帥法(たいげんほう)を修したとする疑惑で、道長に失脚させられた。
さらに、道長は、その権勢により、一条天皇中宮であった定子を皇后にし、自身の娘彰子(しょうし)を女御から中宮にして立后(りっこう)を実現させた。
一人の天皇に同時期に后(きさき<皇后、中宮>)を二人たてることは、異例であった。
道長は、将来的に彰子が生む男子を天皇にするため、なんとしても彰子を中宮にしておきたかったのだろう。
結局、彰子の立后は、定子やその息子敦康(あつやす)親王を窮地に追いやることになる。
 道長の周囲にいた貴族たちの日記には、道長がモノノケによる病をたびたび患っていたことが書かれている。
たとえば、藤原行成(ゆきなり)の日記『権記(ごんき)』長保(ちょうほう)2年(1000)5月19日条には、病んだ道長が、道兼の死霊にのり移られ、呉(ご)が越(えつ)に敗れた理由について漢詩を引用して語った、とされている。
このとき、行成は、「左丞相(さじょうしょう)の容顔(ようがん)、病中にしてなお鮮やかなり。右丞相(うじょうしょう)の意気、身後(しんご)にして旧の如し」(左丞相〔道長〕の容顔は病中でもまだ鮮やかであった。右丞相〔道兼〕の気性は死後も以前と同じであった)と書きとどめている。
ちなみに「左丞相」は左大臣、「右丞相」は右大臣の唐名である。
 そして、同月25日条には、病気に苦しむ道長が「前(さき)の帥(そち)をもって本官本位に復せられるべし。しからば病悩癒ゆべし」(伊周を本官本位に復せれるように、そうすれば病気も治るだろう)とするモノノケの言葉を口にした、とされている。
モノノケの正体は記されていないものの、当然のことながら、道隆を祖とする一族である中関白家(なかのかんぱくけ)に関わる人物が疑われたことであろう。
結局、一条天皇は、伊周の復官復位に関する道長の要求を拒絶した。
行成によると、その報告を受けた道長の形相は、モノノケに取り憑かれているために憤怒(ふんぬ)そのものだったという。
行成は、道長は栄華を極めているものの、モノノケによって精神的に弱りきってしまっている、と述べている。
 なお、道長は、病を患う三か月ほど前にあたる長保2年2月には、前述した一帝二后(いっていにごう)を実現させ、定子や敦康親王を窮地に追いやっている。
病院としては中関白家に関わる死霊を想定した理由には、このような背景もある。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
藤原道長の恐怖

 定子の生前に定子本人と関わりを持った人々は、まして激しい衝撃を覚えた。
その感情は様々であった。
藤原道長(ふじわらのみちなが)が抱いたのは、恐怖である。
生前の定子に嫌がらせを繰り返した彼は、定子の崩御した当日、怨霊(おんりょう)を幻視している。
 一条天皇はその夜、定子の死を受けて道長を自宅へ呼び出した。
しかし道長は到底参内(さんだい)できる状態ではなかった。
藤典侍(とうのないしのすけ)なる内裏(だいり)女房に怨霊が憑(つ)き、彼は襲われて、疲れ果てていたというのだ。
後に彼の語ったところによれば、周囲の女房たちが恐怖に叫ぶなか、怨霊は憤怒の表情で髪を逆立て、音を立ててかかってきた。
道長は必死で霊の左右の手をつかみ、引き据えた。
数刻たって人心地がついてから彼は思ったという。
怨霊の正体は長兄・道隆(みちたか)だ。
いや、長兄の後に僅か七日間だけ関白(かんぱく)の座につきながら疫病で逝った、次兄・道兼(みちかね)か(『権記(ごんき)』長保2年12月16日)。
(『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子 朝日選書 2017年)
 道長は、自分が権力を手中にしたのは兄二人の死によるものだということを、痛いほど自覚していた。
だからこの日、定子の死を引き金に、彼らの報復に怯(おび)える思いが一気に噴出したのだ。
彼を襲ったのは、怨霊というよりも自らの恐怖心であったに違いない。
なお、道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』の長保2年後半分は現存せず、彼自身が書き留めた内容を確認することはできない。
ただ一般に『御堂関白日記』は、怨霊について書き記すことがあまりない。
それは彼の豪胆を示すものではなく、むしろ恐怖心の証拠であると、平安文学研究者・藤本勝義は言う。
(うら)まれているという実感を、彼は常に強く心に抱いていた。
だから怨霊のことには触れたくもなかったのだと。
 道長の恐怖は、この8年後の出来事を記し留める『紫式部日記』にも明らかである。
寛弘(かんこう)5(1008)年、彰子が初めて懐妊し臨月が近づくや、道長は邸内に宿舎を設けて僧侶数十人を泊まり込ませ、「不断の御読経(みどきょう)」や「五壇(ごだん)の御修法(みずほう)」などの安産祈禱(きとう)を行わせた。
そして出産の日には、高僧と霊媒と女房からなる怨霊調伏(ちょうぶく)班を五組も構え、僧たちに夜一夜、声がかれるまで祈らせた。
それでも彰子にはいくつもの「御物の怪(おんもののけ)」が取り憑き、中には「いみじうこはき(極めて強力な)」ものもいたという(『紫式部日記』寛弘5年9月11日)。
8年前に定子が死んだ出産の床で、今度は彰子の命が奪われる。
道長はそれを恐れていたのだ。
 定子の生前には、道長は定子を迫害した。
だが定子の死後は、自分と娘の安寧のためにこそ、彼の思いは定子への鎮魂に転じたと見て間違いあるまい。
(『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子 朝日選書 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)v

ねむ【合歓】
 マメ科の落葉喬木(きょうぼく)
刀形羽状の小葉が、夕方になると葉を閉じるのがあたかも眠るように見えるので、ねむの木という名がついている。
6、7月に枝の先に淡紅色の花をつけ、夕方開花する。

 川霧にもろ枝翳(サ)したる合歓(ネム)のうれ 生きてうごめく ものゝけはひあり 釈迢空(しゃくちょうくう)

 昼間みし合歓(かうか)のあかき花のいろをあこがれの如くよる憶ひをり  宮柊二(みやしゅうじ)

 ねむの木の花のこずゑのけぶりたつ夕べの道にいでて逢はむとす 岡野弘彦(おかのひろひこ)
 
 ねむの花の、ぼうっとけむったようなやさしさ、夢をみているような感じは、<あこがれの如く>心を遊ばせたり、相聞(そうもん)の雰囲気を漂わせたりして歌われることが多い。
そして、一方、夜には眠る木という性質は、植物でありながらその域をはみ出したような、不思議な生き物の雰囲気もあって、それもある魅力となっているといえる。 (藤井常世)
(『岩波現代短歌辞典』岡井隆監修 岩波書店 1999年)