2020年5月8日金曜日

紫外線が気になる季節ですね…

この季節、楽しみにしている花なのに…
昨日、名前が思い出せず…
一反木綿」がすぐに頭に浮び…
次に「忍冬(にんどう)」とまで思い出したのにカタカナの名前が…(^^ゞ
側に咲いていたテイカカズラはすぐに思い出したのに…
和名の定家葛(ていかかずら)は、成就しなかった恋の執心で蔦葛となって恋人の式子内親王の墓に絡みついているという謡曲「定家」に由来します。
(「テイカカズラの育て方」住友化学園芸)

謡曲「定家」(銕仙会~能と狂言~)
数日前から出会っているスズメバチ。
オオスズメバチだと思います…
人間の都合で害虫だと思われているけど視点を変えると益虫
昆虫界最強ともいわれるスズメバチを さまざまな角度から研究する」(玉川学園)
この子はクマバチ。
アニメで悪者の親分にされたようですが
空中でホバリングしているこの子はオスで毒針はありません。
針を持っているのはメス(産卵管が変形したもの)
クマバチの体とその特徴」(小学校3年 動画)
昨日は、十一面観音菩薩に見えると書きましたが
三つ並んでいると
聖徳太子が発病され、また薨去されるにあたり、
その病気平癒と成道を願って造られた
」釈迦三尊像に見えてくる…
(「釈迦三尊像」法隆寺)
今村顕史さんのTwitter

たとえ今の感染者数が減っていても、それぞれの再開は慎重にすることが重要です。
今みえているのは2週間前の状況、今日の影響がわかるのは2週間先になります。
大きな流行も、最初は1人から始まる。
そのことも決して忘れないようにしてください。

逆境の香港民主化運動 活路はゲームの中に」(NHK 4月27日)
COVID-19 で活動ができないだろうなと思っていると
活動家は、これまで素晴らしいアイデァを出して活路を開いてきました。
中国では、政府がこのような活動の監視をしているけど
日本では、政府の支持者が監視をしていて
政府批判をすると口汚く非難する。
こんなに甘やかされているから

立川談四楼さんのTwitterにあるように国民をバカにするようなことが平気で言える。

加藤厚労相が「37.5度以上の熱が4日以上続く」は「4日続くようなことがあればむしろ必ず行ってくださいという意味で作った」だとさ。
加藤さん、ご飯論法がどこでも通用すると思ったら大間違いだぜ。
よくもまあ見え透いた嘘をぬけぬけと。
守って亡くなった人がいるんだよ。それを遺族の前で言えるのか。

万城目学さんのTwitter

アベノマスクいまだ届かず。
もはや時期を逸しつつある感漂うも、実はほんの一部だけ配布することで、消費者の極度に過剰な買いだめ欲求を抑え、マスク単価を下落させる、これが主目的で最初からマスクなんて発注していない、という作戦なら、孫子の兵法なみの巧みな政策である、って違うのだろうなあ。


帰りに薬局によるとマスク(5枚入り)がありました。
朝日新聞の夕刊に面白い記事が載っていた
武漢でコロナを飲もう! 店主の賭け、大阪人の反応は?

武漢熱干面juan」という店名で大変だろうなと思っていたら
よりによって「3月7日からやっつけたコロナの数」と
ピンチをチャンスに変える起死回生の一手をInstagramで発信している(*´▽`*)

これも大阪人のユーモアになるのかな?
近畿大学のTwitter

【#おうち時間 に朗報】
マスクをマグロにデコる、マスクカバー作りました
A3プリントしたら、楽しい工作であなたもマグロに。
ちょっと難易度高めですが、GWにレッツチャレンジ
#近大マスク #マスクカバー #手作りマスク

ペーパークラフトのPDFはこちら

実用の面で難点があるのだけど…
5月4日に発信していたのが

マグロマスクカバーは、実用的でない気もしたので、普通に使えるマグロマスク作りました
洗いざらしの生地で作った立体マスクに、消しゴムはんこでマグロを2匹。
あなたも推しの養殖魚でどうぞ。

サヘル・ローズさんのTwitter

笑って、

家族といるとき
なぜなら
家族がいない人もいるから

笑って、

仕事に行くとき
なぜなら
仕事がない人もいるから

笑って、

健康なんだから
なぜなら
そうでない人もいるから

笑って、

まだやる残せる機会はあるから
なぜなら
その機会がない人もいるから

笑って、

1日は奇跡だから


過酷な経験をしてきた人なのに、サヘルさんの言葉は優しい。
5月8日
 大坂夏の陣で豊臣秀頼・淀殿らが自殺した。 1615(元和<げんわ>)元年

 4月末から再びはじまった大坂の陣は、大坂側のはげしい抵抗にもかかわらず、5月6、7日の決戦でおわり、7日の夕方、大坂城は落城した。
 秀頼(ひでより)やその母淀殿(よどどの)、大野治長(はるなが)父子ら数十名は二の丸帯曲輪(おびくるわ <本丸下(しも)の庫(くら)ともいう>)にこもり、8日の朝、命だけは助けてほしいと交渉をはじめたが、そのとき徳川方の発砲をうけ、ひる前に全員自殺してしまった。
秀頼はまだ23歳だった。
徳川家康は、大坂側の落人(おちうど)を捜査してつぎつぎと殺し、京都と伏見の間に何千という首をならべて、豊臣氏の滅亡をよろこんだのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
4月12日に『奈良―古代史への旅―』より法隆寺について転記しました。
その続き「斑鳩の寺々」を転記しますφ(..)
なお、この新書は一時「品切れ」でしたが再版されたようです。
奈良を訪ねるときのお勧めの本です。
  斑鳩の寺々

 生駒山にのがれた山背大兄王(やましろのおおえのおう)はどうなったか。
 従者の一人三輪君文屋(みわのきみふみや)が、いったん東国へ走って、再挙をはかることをすすめたが、王は、「乱をおこして万民を苦しめるにしのびない」といって、山中で四、五日をすごしてのち、山を出て法隆寺にかえり、

 子弟(うから)・妃妾(みめ)と一時(もろとも)に自(みづか)ら経(わな)きて俱(とも)に死(みう)せぬ。

と、『日本書紀』に記している。
(『奈良―古代史への旅―』直木孝次郎 岩波新書 1971年)
 再挙云々の話は、王の徳をたたえるための作り話のにおいが強い。
法隆寺へはいって死んだというのも、王の死を美化するための作りごとかもしれない。
しかし、王が一族とともに滅んだことは事実だろう。
『上宮聖徳法王帝説』には、「山代大兄及び其の昆弟等、合せて十五王子等悉(ことごと)く滅ぶなり」、『聖徳太子伝補闕記』には「男女廿三王、罪なくして害さる」とある。
中央集権をめざして進んでゆく古代国家が必要とした痛ましい犠牲といってよいだろう。
しかもこの事件を画策した蘇我入鹿は、わずか2年のちに、同じ飛鳥政権の新しい指導者中大兄(なかのおおえ)皇子によって暗殺されるのである。
歴史の皮肉というべきである。
 聖徳太子の墓は、二上山の南の竹内峠を西へ下った磯長(しなが)の谷にあるが、山背大兄王の墓は知られていない。
王にゆかりの寺としては、法隆寺のほかに夢殿の北東約1.5キロ、松尾山の山すそに近い法起寺がある。
聖徳太子の遺命により、山背大兄王がこの地にあった山本宮という宮殿を寺としたのが、法起寺の起源であると伝える。
飛鳥様式の美しい三重の塔があるが、『聖徳太子伝私記』に引く塔の露盤銘によると、天武14年(685)建立に着手し、慶雲3年(706)に完成したものであるという。
山背大兄王の時代の建築はのこっていないのである。

法起寺<法隆寺HP>)
 斑鳩宮の西にある法隆寺は、聖徳太子と山背大兄王二代の力で完成したと思われるが、王一族が滅んだあとも、なお法燈を維持した。
天平19年になった『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』によると、「大化三年歳次戊申(ぼしん)」(戊申は大化4年にあたり、一年のずれがある)に、朝廷から食封(じきふ)三百戸を賜ったとある。
保護者をうしなって寺勢に衰えをみせた法隆寺を援助しようというのであろう。
政権をにぎった孝徳・中大兄の罪ほろぼしの気持ちもあったかもしれない。
 しかしその法隆寺も、天智9年(670)雷火のために焼失した。
法隆寺の歴史をたどるものはたれしも、『日本書紀』天智九年四月壬申(みずのえさる<三十日>)条の「夜半の後、法隆寺に災(わざはい)あり。一屋余すなし。大雨雷震す」の句にいたって、暗然、面をふせないではおられないだろう。
 この一条の真偽、信憑性いかんをめぐって、明治以来数十年、火花を散らす論争が行われたことはよく知られている。
だがこのいわゆる再建・非再建論争も、昭和14年12月に実施された若草伽藍の発掘調査で、事実上終結した。
いまの法隆寺の塔・金堂を中心とする西院の東南隅に、普門院という子院があり、その裏庭に大きな塔の心礎(心柱の礎石)が横たわっているが、その周辺を若草伽藍の跡というのである。
発掘の結果、そこに現法隆寺より一時代前の寺のあったことが確認され、しかもそれが火災にあったことを示す焼け瓦や、灰・木炭なども出土した。
この若草伽藍とよばれる寺こそが、聖徳太子父子によって建立された最初の法隆寺で、現在の法隆寺はその後の再建と考えざるをえないのである。
 法隆寺の再建は天武朝にはじまり、奈良初期の元明朝にほぼ完成した。
再建だからといって、それが古代美術の宝庫であるという価値は微動もしない。
大和の古寺巡礼は、法隆寺にはじまり、法隆寺にもどってこなければならないだろう。
しかし普門院の庭に立って、若草伽藍の塔心礎に対するとき、聖徳太子が言ったという「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏(ゆいぶつ)是真」のことばが思い出されるのである。
 法隆寺から法起寺への途中にある法輪寺も、山背大兄王が聖徳太子の病気平癒をいのって、弟の由義(ゆぎ)王とともに建立したという伝えをもち、山背大兄王にゆかりの寺である。
この寺の飛鳥様式の三重の塔は、昭和19年7月21日に同じように落雷で焼け尽くした。
当時の新聞は、七十五尺の塔は約1時間で崩壊全焼した、と報じている。
 私はこのとき海軍少尉で、松山海軍航空隊にいた。
日記にこう書きつけている。
「留守中に大切な宝物を盗まれたような気がする。しかし盗難品ならかえることがあるが、一旦焼けた建築はもはや取返しがつかない。夏の真昼に詣でたこともある。晩春の暮れ近く訪ねたこともある。可憐な小塔であった。付近の風物としっくり調和した美しい塔であった。千年の風雨にたえてきた柱や軒には、言いしれぬ魅力がこもっていた、深い匂いがあった。それらがわずか一時間の災いの炎のために燃え崩れ、泥土に帰した。すべて失われたのだ。……」
 いま再建の業が進めれているときく。完成の日が待たれる。
 夢殿の東北に接してある中宮寺は皇后を意味することばだが、穴穂部間人皇女は用明天皇の皇后であったので、中宮寺とよばれるのであろう。
もとは東方4、500メートルの幸前にあったが、やはり火災にあって現在の場所に移ったのである。
(『奈良―古代史への旅―』直木孝次郎 岩波新書 1971年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カルガモが橋の下に避難していました。
これからの季節、紫外線に注意だそうですよ!
コロナはウイルスだけど紫外線で殺菌できたらいいなぁ…
暑くなってきてマスクは辛いですね(^-^;

8日は洗濯日和 週末は天気の崩れも」(えりの気象日記 5月7日)