日ざしがきつい…
つい最近まで寒い寒いと言っていたのに
気象予報士さんが「熱中症に注意」と話していました。
公園でしばらく会えないかなと思っていたリハビリ仲間に会えました。
その方は、足が不自由なので車で来園しておられます。
駐車場に入れないのは困るねと話していました。
若い人は足の筋力が落ちてもすぐに回復できますが
私たちは、しばらく歩かないと筋力や心肺機能がガタッと落ちて、なかなか取り戻せません。
「5月1日も汗ばむ陽気」(えりの気象日記 4月30日)
クマバチがナツミカンの蕾を開けようとしていたみたいp(^^)q
ホバリングしているのはオスですが
メスは花粉だんごを作るために忙しいです。
「クマバチのオスとメスの見分け方」(小学3年)
「クマバチの巣作り」(小学3年)
もう1年になるのですね。
明治以前は、「天平感宝(749年)」のように1年で元号が変わったこともあります。
2年や3年で改元された元号は多いですよ。
「天皇陛下 即位から1年」(NHK)
「わが町涌谷の歴史~その3:奈良の大仏と涌谷の金」
ハートネットTV 選「心が躍る生物教室」を見ていて
視覚障碍の生徒さんたちの感性に教えられることがいっぱいでした。
生徒の発想や感性を引き出す先生が素晴らしいです。
生物の知識を教えるのではなく「観る」ことのワクワクを伝えておられる。
「鋸歯(きょし)」など生物用語を知っていても薄っぺらい知識だったと痛感しました。
見逃し配信が5月7日(木) 午後1時34分まであります。
BSでの放送なので見ることができなかったのだけど
Eテレで放送されたリメイク版を録画して見ました。
渡辺直美のナオミーツ
〝「摂食障害を乗り越えて 家族の絆」アレクシス・レン(AlexisRen)〟
セクシーとエロは違いますね…
私が学んだのはパーフェクトなふりなんかできないってこと
弱い自分を認めることから人って強くなれるんだと思う
これはママが教えてくれた方法なんだけど
鏡の前で「アレクシス 愛してる 愛してる」って言うの
自分でそれを信じられるまで、何度も、何度も言い続けるのよ
(キアラ・フェラーニからのアドバイス)
「どうしてもアンチな人はいるものよ
こんなふうに考えてみて
あなたが自分自身と人生に満足しているのなら
他人の言葉に惑わされないはずよ」
日本人が保守的なのは知っているけれど
私はそうじゃないから
その殻を少しだけ壊してみたいのよ
(見逃し配信が5月7日(木) 午後9時27分まで)
ものの見方・考え方は年齢ではないなと再確認しました。
どんなに若くても、真剣にものごとを考えている人には学ぶことが多いです。
ETV特集「7人の小さき探究者~変わりゆく世界の真ん中で~」に、
出演していた子どもたちも考え考えて言葉を見つけていた。
SNS上で見られる呟きには、品がなくて稚拙な言葉が蔓延しています。
これも感染症なのかも知れません。
「アマビエ」に続いて「ヨゲンノトリ」も注目されているそうです(^^)v
日曜美術館で天然痘が流行した時に
「疱瘡絵(ほうそえ)」が広く流布されたことが紹介されていました。
「疫病退散! ヨゲンノトリコーナー」(山梨県立博物館)
「疱瘡絵」(くすりの博物館)
大阪のパチンコ店が全店休業したのでよかったのですが、
本来、休業を要請するのであれば休業補償をすれば、ここまで長引かなかったはずです。
パチンコ店にCOVID-19 の感染の危険性があるのを知りながら
来店する客の多くは、ギャンブル依存症の可能性があると思います。
パチンコ、競馬などギャンブルというのはそれだけやっかいな依存症を招くのです。
当然、カジノを誘致しようとする大阪は、依存症と向き合わなければならない。
店が休業したのは「従業員は感染不安を訴え」たのが大きいと思います。
〝吉村知事に“敗北”したパチンコ店オーナーが激白「お客さんが殺到し、三密になり従業員らに不安広がった」〟(AERAdot.)
5月1日
メーデー(働く人々の祭日)
メーデーは世界中の働く人々の祭日である。
日本で最初のメーデーは、1920(大正9)年5月2日に上野公園で行われた。
5千人の労働者が手に手に旗やのぼりをもって参加した。
戦前のメーデーは警備が厳重で、危険人物とみなされた者は、当日は自宅から外出することさえ禁止された。
戦争のあいだ中止されていたメーデーは1946(昭和21)年、11年ぶりに復活した。
ラジオは朝から労働歌の歌唱指導をし、雨の中を50万の人々が皇居前広場に集まった。
1952(昭和27)年のメーデーは血に彩(いろど)られた。
これまでの例を破って会場として皇居前広場の使用が認められなかったことに抗議する人々は、会場の神宮外苑(がいえん)から皇居前広場へデモ行進した。
武装した警官隊はピストルを発射し、2名を殺し、1千名以上を逮捕・起訴したが、裁判では無罪が確定した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
まるで中国のようですね…
人類は、天然痘、コレラ、マラリアなど様々な疫病に苦しめられてきたのですが、
科学の目でその原因や治療法を求めてきました。
『現代の感染症』に興味深いエピソードが書かれていました。
1 病原微生物と媒介者の発見
寄生虫を発見する
イギリスの探検家リビングストンはその『アフリカ探検記』(1857年)のなかで、「ツェツェバエがウシを吸血すると、そのとき毒物が注入されるらしく、数週間後にウシはナガナ病(ウシ・アフリカ・トリパノソーマ症)になる」と記述し、現地人がツェツェバエとナガナ病との関係を認識していたことを紹介しています。
(『現代の感染症』相川正道、永倉貢一 岩波新書 1997年)
1870年にフェドシャンコは、メジナ虫症がケンミジンコという淡水産のプランクトンによって伝播されることを見出しました。
これは節足動物が媒介する疾患の最初の発見でした。
寄生虫学の父とよばれるマンソンは、ヒトに感染するフィラリアの幼虫(ミクロフィラリア)が蚊によって媒介されることを、中国のアモイで1878年に発見しました。
バンクロフト糸状虫が報告されたのは、その前年の1877年です。
マンソンは医師として、中国や台湾の病院でフィラリア症の患者を診察し、ミクロフィラリアがヒトの血液中に定期的に出現することを1872年に見出していました。
そして、患者の血液を吸血した蚊の体内でミクロフィラリアが変態して発育することをしめしたのです。
これは、昆虫類による病原体の媒介という画期的な発見でした。
余談ですが、かれが大英博物館でこの論文を書いていた机の反対側では、マルクスが『資本論』を執筆していたという、逸話が残っています。
いっぽう、イギリス人軍医ロスはインドに赴任していました。
休暇でイギリスに帰ったときにマンソンを訪ねて教えをこい、「マラリアも蚊が媒介しているのではないか」とする仮説を聞かされました。
ロスはこの仮説を実証するために、インドで実験をはじめました。
自分を吸血しにくるイエカやヤブカを調べていましたが、蚊の体内にマラリア原虫を見つけることはできませんでした。
そのうち、自身がマラリアに感染しました。
高熱に苦しみながらも、自分の皮膚にとまった吸血中の蚊を捕らえては検査をつづけ、ついに1897年8月16日、ハマダラカの胃のなかからマラリア原虫を発見し、マラリア原虫の生活環の一部が蚊の体内でおこなわれることを実証しました。
実験をはじめて、2年後のことです。
その後、カルカッタに転勤したロスは、こんどはトリのマラリアを使った研究をはじめ、蚊の体内でマラリア原虫が発育し、唾液(だえき)腺に集ることをたしかめました。
同じ時代に、イタリア人グラシは、かれの住んでいたシシリー島でヒトのマラリアを調べ、1890年に三日熱マラリア原虫を報告しました。
そのときかれはすでに、三日熱マラリアを四日熱マラリアや熱帯熱マラリアと区別して報告しています。
1898年に、グラシは熱帯熱マラリア患者と三日熱マラリア患者を吸血したハマダラカを観察して、蚊の体内にスポロゾイトの形成を認めました。
またその年にマラリアにかんする図鑑を出版しました。
運命の年になった1902年に図鑑第二版を出版し、そのなかで、蚊からヒト体内に入ったスポロゾイトは、赤血球に寄生する前に特別のサイクルをもっていないと生活環の説明がつかないと述べました。
これは、いまから考えるとひじょうに重大な仮説だったのですが、実証されたのは50年も先のことでした。
悪いことに、当時の寄生虫学の大御所シャウジンがこれを否定する見解を発表したのです。
(「スポロゾイトのほ乳類感染機構の解明」愛媛大学)
グラシは同定されている(種名がわかっている)蚊を用いてヒトのマラリアの生活環を解明したのですが、ロスは同定されていない蚊を用いて、おそらくは四日熱マラリアの蚊体内の発育の一部を発見しただけです。
しかし、「マラリアの研究およびマラリア伝播経路の発見」の功績で、ロスに1902年ノーベル賞が授与されました。
ロスはロンドン大学の研究所にその名を残し、りっぱな記念碑、27学会の名誉会員、25の賞や称号に輝いています。
それにひきかえ、グラシはローマ近郊の無名墓地に静かに眠っています。
1902年、デュトンがアフリカ睡眠病の原因原虫であるガンビア・トリパノソーマを発見しました。1903年にはレベランが内蔵リーシュマニア症の原因原虫ドノバン・リーシュマニアを、またライトが皮膚リーシュマニア症の原因原虫トロピカ・リーシュマニアを発見するなど、1880年から寄生原虫の発見があいつぎ、つぎつぎと寄生虫症をおこす病原体の実態が明らかになりました。
しかし、病原体の発見から、その生活環や媒介昆虫(ベクター)をつうじた感染様式が明らかになるのは、長い期間と多大な努力と、あるときには運が必要だったのです。
(『現代の感染症』相川正道、永倉貢一 岩波新書 1997年)